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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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24/105

第24話:王都に、荷馬車が帰ってきた日

星環暦(せいかんれき)1284年・炎冠月(えんかんづき)≪第6月≫4日――

セレスティア王都・西門。

朝の門が開いてからしばらく経っても、西門前に集まった人々は誰一人としてその場を離れようとしなかった。

最初に噂を聞いたのは、王都近郊から野菜を運んできた行商人だったという。

ヴァルモント方面の街道に、見たこともないほど長い荷馬車の列がいる。

その話を聞いた別の商人が、今度は荷馬車の旗を見た者がいると言い出した。

ヴァルモント公爵領の紋章。

そして、最近になって王都でも知られるようになった、アスタリア大商会の商標。

だが、市場で品不足が続いている今、そんな都合のいい話を簡単に信じる者はいなかった。

「本当に来るのか?」

「昨日も小麦を買えなかったんだぞ」

「ヴァルモントから王都まで、こんな時にわざわざ大量の物資を送ってくる理由があるのか?」

疑う声が飛び交う中、一人の門衛が街道の先へ目を凝らした。

やがて、その顔が変わった。

「……来たぞ」

ざわめきが止まった。

遠くの街道に、小さな影がいくつも見える。

一つや二つではない。

道の先から次々と姿を現し、朝の光を受けながら王都へ近づいてくる。

先頭を走る騎馬の後ろには、アスタリア大商会の旗を掲げた大型荷馬車が続き、そのさらに後ろにはヴァルモント公爵領から送り出された車列が途切れることなく連なっていた。

荷台を覆う布には、積載品を示す札が取り付けられている。

小麦・塩・食用油・乾燥豆・薪・木炭・薬草。

王都で不足しているものばかりだった。

「……本当に来た」

誰かが呟いた。

その声を合図にしたように、門の周囲が一気に騒がしくなった。

◇

同日――

王都セレスティア・西部市場。

荷馬車が到着したからといって、すぐに荷物を好き勝手に売り始めたわけではなかった。

アスタリア大商会から同行した輸送責任者とヴァルモント公爵領商業ギルドの担当者は、王都側の商業ギルド職員と合流すると、あらかじめ作成されていた分配表を広げた。

「西部市場へ小麦・塩・食用油、北部市場へ小麦・乾燥豆・薪、南部市場へ食用油・木炭・薬草を優先し、中央市場へは全品目を少量ずつ回します」

「一か所へ集めないのか?」

王都側の職員が尋ねると、輸送責任者は頷いた。

「一か所へ集中させれば、そこへ人が殺到しますし、大口商人がまとめて買い取る可能性がありますので」

「なるほど」

「一般家庭・小規模商店・診療所などへの供給を優先し、一度に購入できる数量にも上限を設けます」

別の職員が帳簿を確認する。

「価格は?」

輸送責任者は迷わなかった。

「混乱以前を基準とした通常価格です」

周囲にいた商人たちが一斉に顔を上げた。

「今の相場を知らないのか?」

「もちろん把握しております」

「なら、もっと高く売れるぞ」

「承知しています」

輸送責任者は淡々と答えた。

「ですが、会長から価格を上げるなと指示されています」

「アスタリア大商会の会長が?」

「はい」

それ以上の説明は必要なかった。

荷馬車から小麦袋が降ろされ、塩の樽が並べられ、油壺が慎重に運び込まれていく。

市場の掲示板には、新しい価格表が貼られた。

それを見た人々は、しばらく声を出せなかった。

昨日までの値段ではない。

数日前までの、まだ王都の商流が正常だった頃に近い価格だった。

「……間違いじゃないのか?」

一人の女性が店員へ尋ねた。

「間違いではありません」

「でも、昨日はこの倍近くしていたでしょう?」

「今日入った分は、この価格です」

女性は何度も値札と小麦袋を見比べた。

手に持っていた財布を開き、必要な硬貨を数える。

払える。

昨日なら諦めていた量が、今日は買える。

女性の肩から力が抜けた。

「1袋ください」

「ありがとうございます」

小麦袋が手渡された。

それを見ていた周囲の人々が、次々と列へ並び始めた。

◇

同日――

王都セレスティア・中央市場。

救援物資到着の知らせは、昼前には王都中へ広がっていた。

それまで高値で品物を抱えていた商人たちも、当然その話を聞いている。

ある穀物商の倉庫には、値上がりを見込んで通常より高い価格で仕入れた小麦が大量に積まれていた。

店主は朝から帳簿を睨み続けていたが、午後になっても客はほとんど入ってこない。

「旦那様、また西部市場から戻ってきた客です」

「何と言っていた」

「向こうの小麦の方が安いと」

店主の眉間に深い皺が寄った。

「いくらだ」

番頭が答える。

店主の顔色が変わった。

その価格では、自分が仕入れた値段より安い。

「そんな価格で売れば、アスタリアだって儲からんだろう!」

「通常時の仕入れ価格で準備していた在庫だそうです」

「……」

店主は言葉を失った。

今までなら、王都の在庫が少ないこと自体が価格を支えていた。

欲しい人間が多く、売る物が少なければ値段は上がる。

だから高値で仕入れても、さらに高く売れると思っていた。

だが今、通常価格の商品が大量に入ってきた。

しかも、今日だけでは終わらない。

街道にはまだ後続の荷馬車がいるという。

「値下げしますか?」

番頭が恐る恐る聞いた。

店主は倉庫を見た。

高値で買った小麦。

このまま高値を付け続ければ売れない。

値下げすれば損失になる。

どちらを選んでも、当初期待していた利益は消える。

「……下げろ」

苦い声だった。

「客が来ないよりましだ」

同じことが、小麦だけではなく食用油・薪・木炭・塩を大量に抱えていた商人たちの間でも起こり始めていた。

誰かが投機商人を逮捕したわけではない。

誰かが商品を取り上げたわけでもない。

通常価格の商品が戻った。

それだけで、高騰した在庫の価値が崩れ始めた。

◇

同日――

王都セレスティア・東部商店街。

一方で、混乱の中でも極端な値上げをしなかった商店には別の光景が広がっていた。

「うちに、こんな量を?」

小さな食料品店の主人が驚いていた。

店先にはアスタリア大商会から運び込まれた小麦・塩・乾燥豆が積まれている。

「これまでの販売記録を商業ギルドで確認しました」

担当者が答えた。

「品不足になってからも、こちらは仕入れ値の上昇分以上には価格を上げていませんね」

「まあ……常連さんばかりですから」

店主は照れたように頭を掻いた。

「何十年も顔を見ている人間から、取れるだけ取ろうとは思えなくて」

「ですので、優先卸先に指定されています」

店主が目を丸くした。

「私の店が?」

「一般家庭への販売を続けていただけますか」

「もちろんだ」

担当者は帳簿を開いた。

「一人あたりの販売上限だけ守ってください。大口購入を希望する商会が来ても、まとめ売りはしないようお願いします」

「分かった」

店主は荷物を受け取ると、すぐに店頭へ新しい価格を書き出した。

それを見た常連客の老人が笑った。

「随分戻ったな」

「俺の店の力じゃないよ」

店主はアスタリアの荷札を指した。

「北から来たんだ」

「北?」

「アスタリア大商会だそうだ」

老人は聞き覚えのある名を探すように首を傾げた。

「……あの、公爵令嬢の?」

「シェリィ様だったか」

店主は頷いた。

「そう、その方の商会らしい」

老人は荷札をしばらく見ていた。

王都では、シェリィ・ヴァルモントの名を知らない者の方が少ない。

第二王子との婚約問題。

卒業舞踏会での騒動。

北方へ去った公爵令嬢。

だが、彼女が北で何をしているのかを詳しく知る王都市民は、まだ多くなかった。

「追い出された娘が、王都へ食い物を送ってきたのか」

老人がぽつりと言った。

店主は苦笑した。

「世の中、分からないものだな」

◇

同日・午後――

王国銀行・王都本店。

前日まで張りつめていた集計室の空気が、少しだけ変わっていた。

机には市場価格・取引数量・現金引出額・小切手決済・商会別信用状況の報告が次々と届いている。

担当官が新しい数字を書き込んだ。

小麦の平均市場価格が下がっている。

食用油も下落。

薪と木炭も下がり始めている。

販売量は増えている。

「もう一度確認しろ」

上司が言った。

「確認済みです」

「北部市場は?」

「同じです。西部ほどではありませんが、価格は下落しています」

「南部市場」

「薬草の不足が改善し始めています」

上司は椅子から立ち上がり、一覧表を覗き込んだ。

昨日までの報告書には、値上がり・不渡り・信用収縮・在庫不足という言葉ばかりが並んでいた。

今日は違う。

入荷。

価格低下。

販売量増加。

在庫回復。

担当官が、半ば信じられないものを見るように数字を見つめた。

「……戻っています」

「何がだ?」

「市場がです」

上司は答えなかった。

ただ、もう一度数字を確認した。

数字はまだ完全な回復を示してはいない。

だが、方向は明らかに変わっていた。

◇

同日・午後――

アスタリア大商会・本店。

王都から届いた報告書には、市場価格・入荷量・販売量だけではなく、王国銀行が集計した現金引出額や小切手決済の状況まで記されていた。

第1陣の救援物資が王都へ入り、混乱以前を基準とした通常価格で販売されたことで、小麦・食用油・薪・木炭を中心に高騰していた価格が下がり始めている。

市場から商品が消えるのではないかという不安も、まだ完全には消えていないものの、数字の上では明らかに弱まり始めていた。

シェリィは報告書を最後まで読み終えると、机の脇に置かれていた別の帳簿へ手を伸ばした。

《アスタリア大商会独自小切手帳・発行申請管理簿》。

商業ギルド組合から独自小切手帳を発行する資格を得て以降、アスタリア大商会は利用を希望する商人や商会からの申請を受け付け続けていた。

申請者の資産・負債・取引実績・決済履歴・保証能力などを確認する審査も止めていない。

止めていたのは、その先だけだった。

審査を通過しても、小切手帳そのものは発行しない。

王都で信用収縮が始まり、その先で多数の不渡りが発生する可能性を見越して、シェリィは審査を通過した申請についても《発行保留》として扱わせていた。

新しく信用決済へ参加する者まで、崩れ始めた信用網へ巻き込ませないためだった。

そして実際に、王都では多数の不渡りが発生した。

もし、その直前にアスタリア大商会の名を冠した小切手帳を市場へ出していれば、既存の小切手に対する信用不安が、新しく発行された小切手にまで波及していた可能性がある。

そのため、現在までアスタリア大商会の独自小切手帳は、第三者へ1冊も発行されていなかった。

アルノルト・フェルナーが管理簿を開いた。

「審査を終えた申請についても、すべて会長のご指示どおり《発行保留》のままです」

「審査中の申請は?」

「通常どおり進めております。審査基準も変更しておりません」

「それで結構ですわ」

シェリィは頷き、もう一度王都の報告書へ視線を落とした。

不渡りがなくなったわけではない。

資金繰りに苦しむ商会も残っている。

物流も完全には戻っていない。

それでも、市場へ商品が入り、高騰していた価格が下がり、通常価格で買える場所が増え始めた以上、状況は数日前とは明らかに違っていた。

そして明日には、第2陣の救援物資が王都へ入る。

第1陣だけなら一時的な供給だと思う者もいるだろう。

だが翌日も同じ価格で商品が入り、その後も供給が続くと分かれば、市場はようやく「商品はなくならない」と判断し始める。

商品が戻れば、取引が戻る。

取引が戻るのであれば、今度は信用決済まで止め続けることの方が、正常な商流の回復を妨げる。

シェリィは管理簿に並ぶ《発行保留》の文字を見つめた。

「アルノルト」

「はい」

「審査を通過している申請について、発行許可の手続きを進めてくださいませ」

アルノルトが顔を上げた。

「保留を解除なさるのですね」

「ええ。ただし、審査を通過したものだけです」

シェリィは管理簿へ視線を戻した。

「今回の混乱で資金が足りないからという理由で審査を省略することも、保証条件を緩めることも認めません。初回限度額・保証金・準備金・追加発行の審査・毎月の報告義務についても、これまで定めた条件をそのまま適用してくださいませ」

「承知しました」

「それから、今日許可を出したからといって、急いで大量に小切手帳を市場へ出す必要はございません。審査を終えた申請者から順に、1件ずつ確認して進めてください」

アルノルトは頷いた。

「初回は1冊。追加を希望する場合は、改めて審査を行います」

「そのとおりですわ」

アルノルトは管理簿の最初の申請欄へ手を伸ばしたが、シェリィはその手元を見ながら静かに続けた。

「信用網が崩れている最中に新しい信用を送り込めば、その信用まで一緒に傷つきます」

一度、言葉を切る。

「ですが、市場が立ち直り始めているのに信用を止め続ければ、今度は立ち直ろうとする商人たちの邪魔になります」

アルノルトはしばらく管理簿を見つめていた。

「止める判断だけではなく、動かし始める判断も必要だと」

「信用は、止めれば守れるというものではありませんもの」

シェリィは王都から届いた報告書の上へ手を置いた。

「明日の第2陣まで確認できれば、王都にも供給が続くことが伝わります。今日のうちに発行許可の処理を進め、準備が整った申請者から順次交付できるようにしてくださいませ」

「かしこまりました」

アルノルトは承認印を取り上げた。

申請管理簿に記されていた《発行保留》の横へ、新しい文字が加えられる。

《発行許可》。

アスタリア大商会が独自小切手帳の発行資格を得てから、初めて下された正式な発行許可だった。

まだ、小切手帳は1冊も市場へ出ていない。

だが、止められていた新しい信用が動き始める準備は、この日、静かに整えられた。

◇

同日――

セレスティア王宮・国王執務室。

アーサーは市場から届いた最新報告書を読み終えると、向かいに立つジュリアンへ視線を向けた。

「小麦だけではないな」

「はい。塩・食用油・乾燥豆・薪・木炭・薬草も順次市場へ入っています」

「どれほど用意していた」

「アスタリア側とヴァルモント公爵領側を合わせ、市場が落ち着くまでの橋渡しとして約6日分です」

アーサーの眉がわずかに動いた。

「最初からか」

「何がでしょう」

「供給を止めた時点で、戻す物資まで用意していたのかと聞いている」

ジュリアンは少しだけ間を置いた。

「はい」

アーサーは窓の外へ目を向けた。

遠くの街道には、今も荷馬車が動いているのが見える。

「お前が計算したのか」

「いいえ」

ジュリアンは首を横に振った。

「必要量を算出し、品目別の備蓄を組み、販売制限と価格まで設計したのはシェリィです」

アーサーはゆっくり振り返った。

「価格まで?」

「混乱前を基準にした通常価格です。現在の高騰した市場価格へ合わせることは認めていません」

「利益を取りに来たのではない、ということか」

「少なくとも今回の目的は違います」

アーサーは報告書へ視線を落とした。

そこには、高値で在庫を抱えていた商人が値下げを始めたことまで記されていた。

「高値の在庫を没収する必要もないわけか」

「通常価格の供給が十分に戻れば、高値のままでは売れません」

「売りたければ下げるしかない」

「はい」

アーサーはしばらく黙っていた。

市場へ命令して価格だけを下げさせても、商品そのものがなければ意味がない。

逆に商品を十分に入れれば、高値を維持すること自体が難しくなる。

「……止める量と、戻す量を別々に計算していたのか」

ジュリアンは答えなかった。

その沈黙に、アーサーは何かを感じたようだったが、追及はしなかった。

シェリィとジュリアンの間に何らかの意思疎通があったことは想像できても、その全容までは知らない。

そして今、国王として優先すべきなのは別のことだった。

「市民への供給を最優先しろ」

「はい」

「大口商人に買わせるな。診療所と生活必需品を扱う小規模店舗は優先するよう、商業ギルド組合にも伝えよ」

「すでに同様の指示が入っています」

アーサーがジュリアンを見る。

「シェリィからか」

「はい」

アーサーは小さく息を吐いた。

呆れたようでもあり、感心したようでもあった。

「随分と先まで考える娘だ」

ジュリアンは、それに対して何も答えなかった。

◇

同日・夕刻――

王都セレスティア・西部市場。

日が傾いても、市場の人通りは途絶えなかった。

朝には空いていた棚へ小麦袋が積まれ、油壺が並び、塩の樽が開けられ、薪の束が次々と売られている。

すべてが元通りになったわけではない。

不渡りを起こした商会は残っている。

資金繰りに苦しむ店もある。

物流が完全に戻るにはまだ時間がかかる。

それでも、市場の空気は昨日とは明らかに違っていた。

一人の母親が幼い娘の手を引き、穀物店の前で足を止めた。

値札を見る。

もう一度見る。

そして店主へ尋ねた。

「……本当に、この値段なのですか?」

「そうだよ」

店主が答えた。

「今日入ったアスタリアとヴァルモントの小麦は、この価格で売るように決まっている」

「途中で値上げされたりは?」

「しない。俺たちにもそういう条件で卸されている」

母親は財布を開いた。

昨日までなら、小麦を買えば薪を諦めなければならなかった。

今日は両方買える。

娘が母親の袖を引いた。

「お母さん、パン作れる?」

母親はしばらく答えなかった。

やがて、笑った。

「ええ。今日は作れるわ」

小麦袋を受け取り、娘と一緒に市場を歩いていく。

その横を、次の荷馬車が通り過ぎた。

荷台には、まだ大量の食料が積まれていた。

空だった棚へ、品物が戻り始めた。

買えなかった人が、買えるようになった。

高すぎた商品が、少しずつ普通の値段へ戻っていく。

王都の日常が、ようやく輪郭を取り戻し始めていた。

小麦の値段が、戻った。

王都へ到着したアスタリア大商会とヴァルモント公爵領の救援物資によって、供給不足で高騰していた市場価格が下がり始めました。

今回は高値で在庫を抱えた商人を処罰するのではなく、通常価格の商品を市場へ大量に戻すことで、投機によって上がった価格そのものを成立しにくくしています。

シェリィ本人はまだ王都へ戻っていませんが、彼女が北で作り上げた仕組みと準備が、少しずつ王都へ届き始めました。

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