↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/101

第20話:信用が縮む日

星環暦(せいかんれき)1284年・熾火月(おきびづき)≪第5月≫26日――

セレスティア王国・王都セレスティア・中央市場

数日前まで、中央市場で人々が最も恐れていた言葉は「売り切れ」だった。

小麦が来ない。薪が来ない。油が来ない。塩が来ない。

けれど、この日の市場には商品があった。

東部領から運び込まれた小麦袋が穀物商の店先に積まれ、南方から回された薪や木炭も並んでいる。国外の商人から買い付けた食用油・塩・乾燥豆も、以前と同じ量とはいかないまでも、棚から完全に姿を消してはいなかった。

一見すれば、最悪の時期を脱したようにも見える。

だが、市場を歩く人々の表情は明るくなっていなかった。

《麦穂亭》の前で、若い母親が値札を見たまま足を止めた。

「……昨日より、また上がったの?」

店主は申し訳なさそうに眉を下げる。

「すまない。小麦そのものが上がってるんだ。それに馬車代まで昨日より高くなった。うちも、これ以上上げたくはないんだが……」

母親は小さな財布を開き、銅貨を1枚ずつ指先で数え始めた。

傍らでは幼い娘が、棚に並ぶパンをじっと見ている。

焼きたての香ばしい匂いが漂っていた。

つい数日前なら、棚そのものが空になっていた。

今日は違う。

パンはある。

手を伸ばせば届くところに、いくつも並んでいる。

それでも母親は、しばらく硬貨を数えたあと、店主へ顔を上げた。

「……1つだけ、ください」

「母さん、今日はあるのに?」

娘が不思議そうに聞いた。

母親は一瞬だけ言葉を失ったが、すぐに微笑んだ。

「今日は半分こしようね」

「でも、パンいっぱいあるよ」

少女は棚を見つめ、それから母親へ視線を戻した。

「売り切れじゃないのに、買えないの?」

母親は答えなかった。

店主も何も言わず、パンを紙へ包んだ。

同じ光景は、その店だけではなかった。

薪屋では、これまで2束買っていた客が1束に減らしている。油商では大瓶ではなく小瓶を求める者が増え、布屋では必要な長さを何度も測り直してから、結局半分だけ購入する客もいた。

市場には物がある。

だが、人々の籠に入る量は減っている。

商人たちもようやく理解し始めていた。

王都を襲っているものは、単純な物資不足ではない。

物価の上昇が、家計の購買力を追い越し始めていた。

◇

同日――

王都セレスティア・レーヴェンタール総合商会本店

アルブレヒト・レーヴェンタール伯爵の執務机には、朝から新しい帳簿が積み上げられていた。

東部穀物取引・南部燃料取引・国外商人との輸入契約・追加輸送契約・倉庫利用料・護衛費・積替費。

王都へ商品を運び込むという目的そのものは達成できている。

それだけを見れば、迂回調達は成功だった。

だが、帳簿を追うほどにアルブレヒトの表情は硬くなっていった。

「東部からの追加小麦1,000袋。条件は?」

財務責任者が帳面を開いた。

「基準価格の2.05倍。契約時70%前払い、残る30%も出荷確認時の支払いを要求されています」

「前回は60%だったな」

「はい」

「南部の燃料は?」

「薪800束・木炭400樽。価格は通常の2.4倍。輸送費は全額こちら持ちで、前払い比率は75%です」

「国外商人は」

「食用油が2.8倍、塩が2.3倍。こちらは全額前払いでなければ契約しないと」

アルブレヒトは机の上で指を組んだ。

新規取引先。

急激な需要増加。

長距離輸送。

王都の相場変動。

相手が掛け売りを嫌う理由はいくらでもある。

それ自体は商売として不自然ではなかった。

「中央卸商会からの入金は?」

「17日後です」

「北区燃料組合」

「21日後」

「侯爵家3家」

「14日後から30日後でございます」

そこでアルブレヒトの指が止まった。

仕入れ代金は今支払う。

だが販売代金が戻ってくるのは数週間先。

帳簿上は売上が増えている。

利益も出ている。

それでも手元の現金は減っていく。

財務責任者も同じことに気づいていた。

「伯爵閣下。売上高そのものは上昇しております。しかし現金残高は……」

「減っているな」

「はい」

「新しい商流を一から作っているのだから当然だ。今は地方側がこちらを信用していない。決済実績を積めば条件は緩む」

アルブレヒトは落ち着いていた。

3回、4回と約束通り支払えば、地方商人も掛け取引を認め始めるだろう。輸送業者も新しい路線へ慣れ、競争が増えれば運賃も落ちる。王都への流入量が安定すれば、仕入れ価格もやがて下がる。

通常の市場ならば、それが自然な流れだった。

「短期資金を増やしますか」

「増やす。ただし、借入だけで穴を埋めるな。確定売掛金と在庫価値を見ながら調整しろ。返済日が同じ週へ集中する借入は避ける」

「承知いたしました」

アルブレヒトは帳簿を閉じかけたが、そこで扉が叩かれた。

「伯爵閣下。第二王子殿下より、本日中にお越しいただきたいとの使者が」

アルブレヒトは一瞬だけ目を閉じ、それから淡々と答えた。

「分かった」

◇

同日――

王都セレスティア・エドワード第二王子私邸

「聞いたぞ。今日も東部から小麦が届いたらしいな」

エドワードは上機嫌だった。

卓上には果実酒と菓子が並べられている。

王都の民がパン1つを買うかどうかで財布の中身を数えていることなど、彼の表情からは想像もできなかった。

「はい。小麦・薪・木炭・油とも、量は十分とは申せませんが、迂回経路からの入荷は継続しております」

アルブレヒトが答える。

「やはりな」

エドワードは満足そうに笑った。

「シェリィは、自分が商流を止めれば王都が泣いて許しを乞うと思っていたのだろう。所詮は地方へ追いやられた女だ。王都がどれほど大きな市場か理解していなかったらしい」

アルブレヒトは反応しない。

「殿下。供給そのものは増えております。ただし、現在の調達費用は通常時とは比較になりません」

「金を払えばいい」

「その金が先に出ていくことが問題なのです」

「王都には金があるだろう」

「王都に資産があることと、商人が今日使える現金を持っていることは同じではございません」

エドワードの眉が寄った。

アルブレヒトは持参した資料を卓上へ置いた。

「地方商人は前払いを要求しております。一方、王都内の既存顧客は15日後・20日後・30日後払いが中心です。つまり商品を仕入れる時点では現金が流出し、売上代金が戻るまで時間が空きます」

「なら銀行から借りればよい」

「もちろん利用します。しかし融資にも審査があり、借入額が増えれば担保も必要になります」

「レーヴェンタール総合商会ほどの商会が金を借りられないというのか?」

「そのような話ではございません」

「なら買え」

「殿下」

「もっと買え」

エドワードは身を乗り出した。

「市場へ商品を溢れさせろ。小麦も薪も油も塩もだ。どの店へ行っても商品がある。それくらいまで仕入れればいい」

「現在の相場でそれを行えば、先に必要となる資金はさらに増加します」

「構わん」

「殿下がお支払いになるわけではございません」

短い沈黙が落ちた。

エドワードは不快そうに目を細めたが、すぐ鼻で笑った。

「私は王国のためを思って言っているんだ」

その言葉を聞いた瞬間、アルブレヒトは内心で冷たく線を引いた。

もし本当に王国のためなら、エドワードは価格を尋ねるはずだった。

貧しい家庭へどう届けるかを聞くはずだった。

どの程度の供給量なら市場が安定するかを確認するはずだった。

だが、彼が続けた言葉は違った。

「何より、シェリィに思い知らせることができる」

アルブレヒトは黙ったまま彼を見る。

「自分が商流を引けば王都が困ると思ったのだろうが、そんなものは思い上がりだ。アスタリアなどなくても商品は来る。あの女の策が失敗だったと、王都中に見せつけてやればいい」

やはり、それが目的だった。

「ジュリアン兄上にも分からせる必要がある。法だ制度だと理屈ばかり並べている間に、実際に王都を救ったのが誰なのかをな」

「殿下」

「何だ」

「商売は、誰かを貶めるために行うものではございません」

エドワードの口元から笑みが消えた。

「私に説教をするつもりか?」

「数字について申し上げております」

アルブレヒトは声色を変えない。

「追加調達自体はできます。ただし数量と期間は区切ります。価格が高騰している状態で無制限に仕入れることは、王都を救うどころか、商人側の資金を先に枯らします」

「なら区切ればいい。だが減らすな」

「……承知いたしました」

「結果を出せ」

「はい」

「そして、シェリィがいなくても王都は困らないと証明しろ」

アルブレヒトは返事をしなかった。

エドワードの動機は感情的だった。

だが、追加調達そのものには商業上の意味がある。

王都の需給を安定させられれば価格は下がり、地方との新しい仕入れ網を確保できれば、その後の利益にもつながる。

だからこそアルブレヒトは、エドワードの言葉に従ったのではなく、自分自身の経営判断として追加調達を引き受けた。

彼は愚かではなかった。

だからこそ、この選択は危うかった。

◇

星環暦1284年・熾火月27日――

王都セレスティア・レーヴェンタール総合商会本店

翌朝、別の問題が持ち込まれた。

「保証?」

アルブレヒトが聞き返した。

「はい。《ハーゲン商会》が東部領から穀物を購入しようとしておりますが、相手方から信用保証を要求されております。レーヴェンタール総合商会が保証人になるなら契約すると」

営業責任者が書類を差し出した。

アルブレヒトは内容を確認する。

「ハーゲン商会の財務状況は?」

「直近3年は黒字です。倉庫も所有しています。ただし今回の仕入れ金額は通常月の約3倍です」

「販売先は」

「中央区の卸業者3社と仮契約済みです」

「商品は」

「小麦です」

経営状態は悪くない。

売却先もある。

需要も十分にある。

通常ならば、保証を拒む理由は少なかった。

「保証額は仕入れ代金の半分まで。購入した小麦は指定倉庫へ入れさせろ。売却代金の一部を優先的に返済へ回す条項も入れる」

「承知いたしました」

「他には?」

営業責任者が次の書類を差し出した。

「《ノルデン燃料商会》《王都西部運送組合》《ベルグ食料商会》からも、同様の相談が来ております」

アルブレヒトの目が細くなる。

「急に増えたな」

「地方側が王都向け取引を警戒しているようです」

「理由は?」

「王都の複数商会が一斉に大量発注を始めたため、本当に全社が予定通り決済できるのか確認したい、と」

それも合理的だった。

1社が普段の3倍買うだけなら、その会社の事情かもしれない。

だが10社、20社が同時に通常の数倍を注文し始めれば、売り手も疑う。

需要があるのは事実でも、その需要を支える現金が本当に存在するかは別の問題だ。

「1件ずつ審査する。第二王子殿下と関係がある商会だからという理由だけで保証するな。資産・在庫・販売先・支払予定を全部見る」

「はい」

「条件を満たしているなら保証を出せ」

営業責任者がわずかに迷った。

「よろしいのですか?」

「信用の弱い商会へ、信用の強い商会が保証を出して商流を成立させる。それ自体は普通の商売だ」

「承知いたしました」

午前中にハーゲン商会。

昼にはノルデン燃料商会。

午後にはベルグ食料商会。

さらに夕刻までに2社。

レーヴェンタール総合商会の名が、複数の保証契約へ書き加えられていった。

1本ずつ見れば、いずれも合理的だった。

だが、それらは少しずつ、同じ場所へ結びつき始めていた。

◇

同日――

王都セレスティア・王国銀行本店

「短期融資申請は、昨日だけで通常日の2.7倍となっております」

王国銀行の担当官が報告した。

ジュリアンの前には、短期融資・担保設定・大口送金・保証関係の概要が並べられている。

「却下件数は?」

「それほど増えておりません。ただ、無担保融資の比率が下がり、商品在庫・倉庫・不動産・売掛債権などの担保を求める案件が急増しております」

「審査基準を変えたのか?」

「いいえ。基本基準は同じです。ただし申請額が大きくなっておりますので、通常審査でも担保を求める案件が増えております」

ジュリアンは頷いた。

「それでいい。通常審査は止めるな」

担当官が顔を上げる。

「貸せる相手には貸して構わない。ただし、第二王子派だから、大商会だから、王都への供給を担っているからという理由で審査を曲げることは禁止する」

「政治的な特別救済は行わない、と」

「そうだ」

「無担保の緊急融資も?」

「王室から命じることはしない」

ジュリアンの返答は即座だった。

「資金繰りが厳しくなったからといって、誰かだけを特別扱いすれば、市場の信用を守るどころか壊すことになる。通常の制度を使える者には使わせる。それ以上はしない」

「承知いたしました」

担当官が書類をまとめようとしたところで、ジュリアンが続けた。

「もう1つ。保証関係を整理してほしい」

「保証関係、でございますか?」

「誰が誰の債務を保証しているか。保証額・期限・担保・決済予定日まで一覧にする。銀行融資以外についても、商業ギルド組合から正式に取得できる情報があれば照合してくれ」

「理由を伺ってもよろしいでしょうか」

ジュリアンは机上の王都地図を見た。

そこには商会名だけではなく、資金の移動を示す線が引かれている。

「商品だけを見ても、つながりは分からない」

担当官は黙って待つ。

「だが、誰が誰へ金を貸し、誰が誰の支払いを保証したかを見れば、商売上の関係と政治上の関係を分けて調べる材料になる」

「保証しただけで派閥関係者と判断することは?」

「するな」

ジュリアンははっきり答えた。

「通常取引は通常取引だ。保証も融資も罪ではない。必要なのは事実だけだ」

「承知いたしました」

その日の報告書の末尾には、まだ同じ数字が記されていた。

不渡り――0件。

誰も倒れてはいない。

支払いも、まだ止まってはいない。

だが信用を支える条件だけが、昨日までとは少しずつ変わり始めていた。

◇

同日――

ヴァルモント公爵領・中央備蓄倉庫

「最新の集計です」

倉庫責任者から差し出された一覧を、ローランド・ヴァルモント公爵はゆっくりと確認した。

そこには、王都セレスティアへ送り返すために確保された救援用物資が記載されていた。

王都の常住人口は約100万人。

さらに地方商人・冒険者・旅人・各領の使節・出稼ぎ労働者などが日常的に出入りするため、実際の救援計画では約115万人を基準としている。

備蓄は、その全員を平時と同じ生活水準で養うためのものではない。

通常商流が回復するまで、市場を支えるための緊急供給分だった。

小麦――3,450グランカルゴ、王都約3日分。

塩――70グランカルゴ、王都約3日分。

食用油――210グランカルゴ、王都約3日分。

乾燥豆――560グランカルゴ、王都約3日分。

薪――2,400グランカルゴ、緊急配給基準で約3日分。

木炭――900グランカルゴ、緊急配給基準で約3日分。

薬草――30グランカルゴ、王都医療機関への緊急供給で約3日分。

ローランドは一覧から顔を上げた。

「輸送車両は?」

「第1陣だけでなく、第2陣・第3陣まで編成可能です。街道上で詰まらないよう、出発時刻も分散しております」

「王都へ着いた時、荷を倉庫へ隠すな」

責任者が一瞬だけ目を瞬いた。

「……隠さない、とは?」

「市民から見える形で入れろ」

ローランドは静かに言った。

「北門を通る車列を見れば、物資が来たことは分かる。第1陣の後ろに第2陣がいると分かれば、明日も来ると分かる。人は、明日も買えると信じられれば、今日すべてを買おうとはしない」

責任者は深く頷いた。

「承知いたしました」

「ただし、見せるために輸送を遅らせるな。必要な場所へ必要な速度で運び、その結果として市民の目に入る形にしろ」

「はい」

ローランドは再び一覧を見る。

これは公爵領の備蓄だけだ。

同じ頃、アスタリア大商会もまた、別の場所で同規模の準備を進めている。

双方で王都約6日分。

だが、6日間ずっと備蓄だけを食べさせるつもりはない。

最初の1日で市場へ物資を戻す。

次の1日で、明日も物が来るという確信を戻す。

その間に止まっていた通常商流を再び動かす。

ローランドは帳簿を閉じた。

「物を運ぶだけでは足りん」

「はい」

「安心まで運べ」

◇

同日――

アスタリア大商会・本部執務室

シェリィの前にも、同じような救援計画表が広げられていた。

アスタリア大商会側でも、王都約3日分の生活必需物資を確保している。

ヴァルモント公爵領の備蓄とは別枠だった。

「王都向け輸送隊は?」

「いつでも動かせます。街道別に分散し、第1陣・第2陣・第3陣まで編成済みです」

「後続車列が見えるようにしてくださいませ」

「公爵閣下と同じご判断ですか」

「ええ」

シェリィは小さく頷いた。

「市場を落ち着かせるのは、今日届いた量だけではありません。明日も届くと信じられることです」

担当者は地図へ視線を落とした。

「価格については?」

「危機前の通常価格帯を基準にします」

「現在の王都相場より、かなり低くなります」

「それで構いません」

シェリィは迷わなかった。

「ただし、王命で価格を固定するわけではございません。わたくしたちが、その価格で売るだけです」

大量の商品が通常価格帯で市場へ入れば、高値で抱えている商人も価格を下げざるを得ない。

さらにヴァルモント公爵領からも同時に物資が入れば、王都の供給量は一気に増える。

価格を命令で下げる必要はない。

供給そのものが、相場を押し戻す。

「初日で大きく下がるでしょう」

シェリィは言った。

「2日目には?」

担当者が尋ねる。

「主要な生活必需品は、概ね元の水準へ戻せると考えています」

「買いだめが起きなければ、ですが」

「だからこそ車列を見せます」

シェリィは王都へ続く街道を指でなぞった。

「1台の荷車では、人は『今しかない』と思います。でも、何十台、何百台という車列が続き、その後ろにも次の隊列がいると分かれば、人は今日すべてを買う必要がないと判断できます」

彼女はそこで言葉を切った。

その表情には喜びはない。

王都を苦しませた後で救援物資を送り込めば、それですべてが帳消しになるわけではないことを理解しているからだ。

「買いだめを責めてはいけません」

シェリィは静かに続けた。

「明日、子供に食べさせる物がないかもしれないと思えば、買えるうちに買おうとするのは当然です。恐怖を消すには、『買うな』と命じるのではなく、『明日もあります』と見せなくてはいけません」

「承知いたしました」

「それと、王都の資金状況は?」

別の担当者が帳票を差し出した。

「前払い比率がさらに上がっております。短期融資申請も増加。レーヴェンタール総合商会は複数の中小商会について保証を引き受けています」

シェリィの指が止まる。

「保証額は?」

「確認できる範囲では、まだ同商会の資産規模から見て異常とは言えません」

「でしたら、そのように記録してくださいませ」

「第2王子派への支援とは判断しませんか?」

「しません」

即答だった。

「信用力の高い大商会が取引先を保証すること自体は、ごく普通の商行為です。わたくしたちが欲しいのは、自分に都合のいい解釈ではなく事実です」

担当者が頷く。

「誰が誰を保証したか。いくらか。支払日はいつか。担保は何か。売掛金の回収日はいつか。それだけを追ってください」

「承知いたしました」

シェリィはもう一枚の報告書へ視線を移した。

王都から地方へ流れ出る現金。

前払い。

輸送費。

保証。

短期融資。

すべてが、少しずつ同じ方向へ重なり始めている。

「問題は商品ではありませんね」

担当者が呟いた。

「ええ」

シェリィは静かに答えた。

「時間です」

今日支払う金。

10日後に入る金。

20日後に入る金。

30日後に入る金。

通常なら、その隙間を信用が埋める。

だから商人は、まだ代金を受け取っていなくても次の商品を仕入れられる。

けれど今、王都ではその隙間を埋めるための条件が厳しくなっている。

信用そのものが消えたわけではない。

ただ、少しずつ縮んでいる。

◇

その日の夕刻――

王都セレスティア・レーヴェンタール総合商会本店

財務責任者が、いつもより厚い支払予定表をアルブレヒトの前へ置いた。

「向こう7日間の資金予定でございます」

アルブレヒトは一行ずつ確認する。

東部穀物商への残金。

南部燃料商への追加前払い。

国外商人への決済。

運送組合への割増運賃。

倉庫費。

短期借入金返済。

保証契約に伴う預託金。

支出日が重なり始めていた。

「入金予定は?」

別の紙が置かれる。

中央卸商会。

貴族家。

小売組合。

燃料問屋。

ほとんどの入金日は、支出日の後ろにある。

「5日ほど空くな」

「はい」

「短期資金でつなげる」

財務責任者は、すぐには答えなかった。

「何かあるのか?」

「本日、3か所へ追加融資を打診いたしました」

「それで?」

「すべて融資可能との回答です」

「なら問題ないだろう」

「ただし、条件が変わっております」

1枚の書類が差し出された。

不動産担保。

在庫担保。

売掛債権の譲渡予約。

追加保証人。

アルブレヒトの目が止まった。

「昨日までは?」

「2か所は無担保枠が残っておりました」

「今日は使えないと?」

「融資を拒否するとは申しておりません。ただ、追加分については担保を要求されています」

アルブレヒトは椅子へ深く座り直した。

「3か所ともか」

「はい」

長い沈黙の後、アルブレヒトは書類を机へ置いた。

「分かった。担保に回せる資産を整理しろ。倉庫を全部まとめて出すな。複数に分ける」

「承知いたしました」

「それと、保証先の支払予定を毎日更新しろ」

「はい」

財務責任者が退出する。

窓の外では、夕暮れの王都を何台もの荷馬車が走っていた。

東部から来た小麦。

南部から来た燃料。

国外から来た油や塩。

数日前より荷車は増えている。

市場には商品が戻りつつある。

だから、まだ誰も崩壊とは呼ばない。

誰も倒産していない。

誰も支払いを拒んでいない。

不渡りも、まだ1件もない。

それでも昨日と今日では、確かに違う。

昨日までなら名前だけで貸していた相手へ、今日は担保を求める。

昨日までなら後払いで商品を渡していた相手へ、今日は前払いを求める。

昨日までなら「払う」と言えば足りていた。

今日は、その言葉の後ろに倉庫や土地や保証人が必要になる。

王都へ入る荷馬車は増えている。

商品は戻り始めている。

けれど、商人同士の間から一つだけ、目に見えないものが静かに薄くなっていた。

相手は後で必ず払う。

だから、今日は商品を渡しても大丈夫だ。

そう信じるための余白。

信用が、少しずつ縮み始めていた。

王都には商品が戻り始めました。

ですが、物資が届くことと、経済そのものが回復することは同じではありません。

今回は、商品の不足から「信用の不足」へ危機が移り始める段階です。まだ不渡りは起きていませんが、前払い・担保・保証・短期融資という形で、商人たちが少しずつ警戒を強めています。

また、ヴァルモント公爵領とアスタリア大商会は、それぞれ王都約3日分の救援物資を準備しています。再供給が始まれば、双方から続く大規模な車列そのものが「明日も物資が来る」という安心材料となり、買いだめを抑える想定です。供給開始初日に価格が大きく下がり、2日目には主要生活物資がおおむね危機前の価格水準へ戻る計画になっています。

なお、本作で使用する重量単位は、

1セル=約1kg

1カルゴ=50セル=約50kg

1グランカルゴ=10カルゴ=約500kg

として統一しています。

今後、食料備蓄・交易・物流・軍需・鉱石などの重量は、この単位を基準に表記していきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。