第18話:王命を求める者たち
星環暦1284年・熾火月≪第5月≫22日――
セレスティア王国・王都中央市場
「お母さん、今日は1つだけなの?」
少女は、紙に包まれた丸パンを両手で持ちながら母親を見上げた。
パン屋《麦穂亭》の店先には、昨日までの《お一人様2個まで》に代わり、《お一人様1個まで》という札が掲げられている。
「そうみたいね。今日は半分ずつ食べましょうか」
「うん」
少女は素直に頷いたが、その返事を聞いた母親の胸には小さな痛みが残った。
昨日までは、娘と自分に1つずつ買えた。今日は2人で1つを分ける。それだけなら、まだ生活が成り立たないほどのことではない。
しかし、昨日より悪くなったものが、明日には元へ戻るという保証もなかった。
値段は昨日から大きく変わっていない。それでも、買える数量が半分になったという事実は、値札以上に人々の不安を刺激していた。
「いつまでこんなことが続くんだ?」
後ろの列から、苛立った男の声が上がる。
パン屋の店主が申し訳なさそうに頭を下げた。
「こちらにも分からないんです。今朝も小麦の荷が来なくて」
「ヴァルモント公爵領からだろ?」
「ええ」
「だったら、王様が命令すればいいじゃないか」
その言葉に、列のあちこちから同意する声が上がった。
「そうよ。王都の民が困ってるんだから」
「商人が勝手に荷を止めているなら、出させればいい」
「王様なんだから、それくらいできるだろう」
母親は娘の手を握り、その場を離れながら会話を聞いていた。
数日前まで、人々が口にしていたのは「なぜ荷が少ないのだろう」という疑問だった。それが「誰のせいなのか」に変わり、今では「なぜ王は止めないのか」という不満へ形を変え始めている。
市場で膨らんだ不安は、少しずつ王宮へ向かおうとしていた。
◇
同日――
セレスティア王宮・王城正門
「殿下。陛下には必ず、緊急供給命令をご決断いただくようお願いいたします」
馬車から降りたエドワードに、第2王子擁立派の貴族たちが次々と声を掛けた。
その中には、アルブレヒト・レーヴェンタール伯爵の姿もある。
彼らは王城正門までは来ることができた。
しかし、そこから先へ進めるのはエドワードだけだった。
ある伯爵が入城許可証を衛兵へ示した。許可証そのものに問題はなく、爵位も身分も確認されたが、門を越えようとした瞬間、何もないはずの空間に淡い光が走り、男の足は前へ進まなくなった。
「……またか」
別の貴族も試したが、結果は同じだった。
第2王子擁立派から命令・依頼・誓約を受け、その意思を王城内で実行しようとする者を拒む《王城守護核》の結界は、今日も静かに役目を果たしている。
ところが、エドワードが門へ足を踏み入れても何も起こらなかった。
彼は誰かから第2王子擁立を命じられて動く工作員ではない。第2王子擁立派が担ぎ上げようとしている本人だった。
「まったく、面倒な結界だ」
エドワードは忌々しげに吐き捨てた。
アルブレヒトは結界を見つめたまま何も言わなかった。
むしろ気になったのは、誰を拒絶し、なぜエドワードだけを通すのかという条件だった。
「殿下」
「何だ」
「陛下へお話しになる際、《シェリィ嬢の報復だから》という主張を中心にはなさらない方がよろしいかと存じます」
エドワードの眉間に皺が寄る。
「またそれか」
「求めるのは王都への供給回復です。ならば、王都市場の入荷量・在庫・価格・市民生活への影響を根拠になさるべきです」
「シェリィが原因なのは分かっている」
「関与している可能性と、殿下への報復であることを証明できるかどうかは別です」
エドワードは露骨に不機嫌な顔をした。
「お前は商人だから何でも細かいな」
「細部を確認しなければ、大きな商取引は成立いたしませんので」
アルブレヒトは表情を変えずに答えた。
「それから、非常徴用を求められるのであれば、その適用要件について――」
「父上は王だ。王が命じれば済む」
エドワードは話を遮った。
アルブレヒトは僅かに目を細めたが、それ以上は言わなかった。
今のエドワードに、王命と法的根拠の違いを説明しても聞く耳を持たないだろう。
「少なくとも、認められなかった場合に備え、別の調達手段は考えておきます」
「拒否などするものか。王都の民が困っているんだぞ」
そう言い残して、エドワードは一人で王城内へ入っていった。
アルブレヒトはその背中を見送りながら、閉じられた門へ視線を戻した。
今や第2王子派の意思を直接王城内へ持ち込める人間は、エドワード本人しかいない。
それが彼らにとって、どれほど大きな制約になるのか。
まだ多くの者は理解していなかった。
◇
同日――
セレスティア王宮・国王執務室
「父上。王都への緊急供給命令をお出しください」
アーサー国王は、机の向こうに立つ次男を静かに見た。
執務室にはジュリアンも同席している。
エドワードは持参した資料を机へ置いた。
「ヴァルモント公爵領方面からの入荷量が急減しています。市場では売り切れが増え、パンの購入制限まで始まっている。民が困っているのです」
アーサーは資料へ目を通した。
王都北門を通過した荷馬車数・中央市場の在庫推計・一部商品の価格変化・商業ギルドへ寄せられた苦情。
少なくとも、書かれている数字そのものに虚偽はなかった。
「それで、何を命じろと言う」
「アスタリア大商会とヴァルモント公爵領商業ギルドに対し、ただちに王都への供給を再開するよう命じてください」
「どの商品をだ」
エドワードは一瞬だけ止まった。
「食料と燃料を中心に、生活に必要な物資です」
「量は」
「王都に必要なだけ」
「その必要量は誰が決める」
「王都の需要を見れば分かるでしょう」
アーサーは資料を机へ戻した。
「費用は誰が負担する」
「通常どおり支払えばよいではありませんか」
「現在締結されている他地域との契約より、王都向けを優先させるのか」
「王命なら当然でしょう」
「輸送責任は誰が負う」
「ヴァルモント公爵領側に――」
「輸送中の事故・損失・既存契約の違約責任まで、公爵領へ負わせるのか」
エドワードの顔に苛立ちが浮かんだ。
「そんな細かいことを今決める必要がありますか?」
アーサーの視線が僅かに厳しくなる。
「ある」
エドワードが黙った。
「他者の財産を動かすよう王が強制するのであれば、誰の物を・どれだけ・どの期間・どの価格で・誰の費用と責任で動かすのかを決めなければならない。王命とは、王が思いついた言葉を口にすれば成立するものではない」
「ですが、王都の民が苦しんでいるのです」
「それは承知している」
アーサーの声は静かだった。
「だからこそ聞いている。お前が求める強制供給を、何の制度に基づいて実施するのか」
エドワードは少し考えたあと、当然のように答えた。
「王命です」
「それでは答えにならん」
アーサーは背もたれへ身体を預けた。
「我が国には戦時徴発と非常徴用の制度がある。戦争・大規模災害・王都包囲その他、国民の生命を守るため民間財産へ強制介入しなければならない非常事態を想定した制度だ」
「なら、それを使えばよいではありませんか」
「今回は適用要件を満たしていない」
即答だった。
「民が困っているのに?」
「市民生活へ影響が出始めていることと、非常徴用を発動できる法的要件を満たすことは同じではない。王都への供給は減っているが完全には途絶しておらず、戦争も災害も王都包囲も起きていない。確認できる範囲では、民間の商人と商業組織が合法な範囲で商流を変更しているにすぎん」
「だからこそ王が命じるのではありませんか!」
「違う」
アーサーの声が少し低くなった。
「商人が王宮にとって都合の悪い判断をしたからという理由で非常事態を認定できるのなら、次から王は気に入らない商売すべてに非常徴用を使えることになる」
「王なのですから、それくらい――」
「それをさせないために法がある」
室内が静まった。
ジュリアンは黙って父を見た。アーサーは、シェリィとジュリアンの密約も、二人が何をしているのかも知らない。
それでも、目の前の制度だけを見て、同じところへ辿り着いている。
「父上」
エドワードは苛立ちを隠さずに言った。
「シェリィが王都を苦しめているのですよ」
「その証拠は」
「アスタリア大商会が荷を止めている!」
「それはアスタリア大商会が商流変更へ関与している証拠であって、お前への報復である証拠ではない」
エドワードの顔が歪んだ。
「兄上も同じことを言うのでしょう」
初めてジュリアンへ視線を向ける。
「シェリィを庇うつもりですか」
「今、父上が話しているのはシェリィの人格ではなく、王が民間財産へ強制介入する法的根拠の話だ」
「だからお前たちは、いつもそうやって――」
「エドワード」
アーサーが名前を呼んだだけで、言葉が止まった。
「これは兄弟喧嘩ではない。まして、お前とシェリィの感情の問題でもない。王の名を使い、民の財産・契約・商売へ強制的に介入するかどうかを決めている」
エドワードは唇を噛んだ。
アーサーは少し間を置いてから続けた。
「私は王都の民を救う必要があると思っている」
その言葉に、エドワードの表情が僅かに明るくなる。
「なら――」
「だからこそ、法を壊して救う真似はしない」
再び表情が固まった。
「では、何もしないのですか」
「誰がそう言った。王都内の在庫確認・近郊領からの通常契約による追加調達・価格監視・生活困窮者への支援策を急がせる。必要なら王国の備蓄も確認させる」
「それでは遅い!」
「強制徴用より遅いかもしれん」
アーサーはそれを否定しなかった。
「だが、王が法の意味を自分に都合よく曲げる前例を作るよりはましだ」
エドワードはしばらく父を睨むように見ていたが、やがて低い声で呟いた。
「……結局、父上もシェリィの味方なのですね」
アーサーの目に、怒りよりも深い疲労が浮かんだ。
「そう考えるのであれば、お前は今までの話を何も聞いていなかったのだろう」
エドワードは答えず、形式だけの一礼をして部屋を出ていった。
扉が閉じると、しばらく沈黙が続いた。
やがてアーサーが深く息を吐く。
「ジュリアン」
「はい」
「本当に、何が起きている」
その問いに、ジュリアンの胸が僅かに強く打った。
今なら話すこともできる。
父へすべて明かし、シェリィとの密約も、第2王子擁立派の資金網を断つための計画も説明できる。
だが、まだその時ではない。
証拠は集まり切っておらず、相手もすべて姿を現していない。
「王都へ流れていた商流が、意図的に変更されていることまでは確かです」
嘘ではなかった。
だが、すべてでもなかった。
アーサーは息子の顔をじっと見たものの、それ以上は問い詰めなかった。
「……そうか」
その一言だけが、ジュリアンにはかえって重かった。
◇
同日――
セレスティア王宮・王太子執務室
机の上には、まだ国王の署名も王璽もない草案が置かれていた。
《アスタリア大商会不干渉王令――草案》
ジュリアンは椅子へ座り、何度目になるか分からない文章を読み返していた。
王国政府・王室機関・地方行政・貴族家・商業ギルド・王国銀行その他王国内のいかなる団体も、アスタリア大商会からの正式な要請なく、同商会の営業・取引・価格・供給・契約・物流・商流その他の商業上の判断へ関与してはならない。
ただし、アスタリア大商会から正式な要請・申請・依頼・契約があった場合、その要請の範囲において王国および関係団体は協力・支援を行うことができる。
方向性は決まっている。
王国からアスタリア大商会へは、一方的に手を伸ばせない。
しかし、アスタリア大商会側が助力を求めた場合には、王国も公爵領商業ギルドも王国銀行も力を貸せる。
問題は、その原則をどう文言へ落とし込めば抜け穴がなくなるのかだった。
ジュリアンは《関与してはならない》という部分へ線を引いた。
「これだけでは弱い」
命令を禁じれば、《協力要請》と言い換える者が出る。
強制を禁じれば、《勧告》と呼ぶ者が出る。
王国政府が直接動けなければ、商業ギルドへ働きかけて「自主判断」という形を取らせるかもしれない。
あるいは、王国銀行が融資・預金・決済業務を材料にして圧力を掛ける可能性もある。
ジュリアンは草案へ書き加えた。
命令・強制・要求・勧告・行政指導・斡旋その他、名称を問わずアスタリア大商会の自発的商業判断を拘束し、または実質的に誘導する行為を禁止する。
書いてから、また手が止まる。
「まだある」
アスタリア側から要請があれば王国は協力できる。
ならば、王国側がアスタリアへ圧力を掛けて「そちらから要請を出せ」と迫ればどうなる。
書類上はアスタリア側からの依頼になる。
だが、それでは何も守れていない。
ジュリアンは別の一文を書き足した。
アスタリア大商会からの要請は、同商会の正規の権限を有する者による自由な意思に基づくものでなければならず、第三者による強要・威迫・利益停止の示唆その他の手段によって形成された要請は、その効力を認めない。
書き終えても、まだペンを置かなかった。
「自由な意思……これを誰が確認する」
形式だけ整った書面では意味がない。
アスタリア側が王国銀行へ決済支援を依頼した場合。
公爵領商業ギルドへ倉庫や輸送枠の提供を求めた場合。
王国の行政機関へ通行許可や護衛を求めた場合。
その協力は可能でなければならない。
そうしなければ、アスタリア大商会を守るための王令が、逆に既存の協力関係を断ち切る鎖になる。
ジュリアンは別紙へ《要請に基づく協力》と書き、要請主体・目的・対象業務・期間・協力範囲・撤回方法を整理していく。
その中でも特に長く考えたのは、撤回だった。
一度アスタリアから支援を求められた王国側が、「以前依頼されたから」という理由でいつまでも関与を続ければ、結局は一方向不干渉の意味が失われる。
「要請は、アスタリア大商会側がいつでも撤回できる。撤回後は、履行済みの契約上必要な処理を除き、関与を継続できない……」
書き足す。
さらに既存契約も確認する。
公爵領商業ギルドとの現在の協力関係。
王国銀行との決済関係。
商業ギルド組合への登録や報告。
それらまで王令で無効にしてはいけない。
アスタリア自身が選び、契約した関係だからだ。
「既存の有効な契約・申請・登録に基づく通常業務は継続。ただし、その範囲を越える追加介入は、新たな要請なしに行えない」
また書き直した。
気づけば、机の横には修正済みの草案が何枚も積み重なっている。
側近が茶を置きながら、遠慮がちに尋ねた。
「殿下。すでに相当細かく定められております。陛下へお見せになってもよろしいのではございませんか」
ジュリアンは草案を見たまま首を横に振った。
「まだだ」
「まだ穴があると?」
「あるかもしれない」
そこで一度言葉を切り、すぐに言い直した。
「いや、《あるかもしれない》まま出すわけにはいかない」
側近が黙る。
「これを発令したあとで抜け穴を使われれば、シェリィはまた王国側の都合で商売を動かされる。名称を変えただけの介入を許すなら、王令を出す意味がない」
ジュリアンは、今日王城の外に残された第2王子派の面々を思い出していた。
その中でも、アルブレヒト・レーヴェンタール伯爵は侮れない。
エドワードなら文面だけを見て終わるかもしれない。
しかし、商会を動かしてきたアルブレヒトなら必ず探す。
何が禁止され。
何は禁止されていないのか。
どの言葉なら王令に触れずに圧力を掛けられるのか。
どこまでならアスタリア側の「自主判断」と言い張れるのか。
「相手が探す穴を、先にこちらで探し切る」
ジュリアンは再びペンを取った。
守ろうとしているのは、文章ではない。
アスタリア大商会が、自らの意思で誰と取引し、何を売り、どれだけ供給し、誰へ助力を求めるのかを決められる状態そのものだった。
だから、まだ王令を出す時ではない。
◇
同日――
王都西区・レーヴェンタール伯爵別邸
「陛下はお認めにならなかった」
エドワードの言葉に、部屋の空気が重くなった。
王城へ入れなかった第2王子派の貴族たちは、戻ってきたエドワードを囲んでいる。
「なぜです!」
侯爵の一人が声を上げた。
「王都の民が困っているのに!」
「父上は、法だの適用要件だのと言っていた」
エドワードは苛立ちを隠さなかった。
「ジュリアンも一緒だった。どうせ兄上が吹き込んだに決まっている」
アルブレヒトの眉が僅かに動いた。
「国王陛下ご自身の判断という可能性は?」
エドワードが睨む。
「お前まで父上と兄上の肩を持つのか」
「事実を確認したいだけです」
「法、証拠、信用。お前たちはそればかりだな」
「それがなければ、国も商売も長く続きません」
アルブレヒトは平然と答えた。
別の貴族が苛立たしげに机を叩いた。
「それではどうするのだ。王命が出ないなら、王都の商品が消えるのを見ていろというのか?」
アルブレヒトは返事をする前に、頭の中で王国地図を思い浮かべた。
ヴァルモント公爵領からの流入が細った。
だが、王都へ通じる道は一つではない。
「王都へ物資を入れる方法は、ヴァルモント公爵領だけではありません」
全員の視線が集まった。
「どういう意味だ」
「東部領・南部領・外国商人・独立系の小商会を使えます。王都へ直接入れるのではなく、中継地を変える方法もあるでしょう」
侯爵の顔が明るくなる。
「買えるのか」
「価格は上がります。輸送距離も伸び、普段使わない商人へ信用を供与する必要も出るでしょう」
「構わん。金ならある」
エドワードもすぐに頷いた。
「ならやれ。シェリィの思い通りにはさせるな」
「承知いたしました」
アルブレヒトは頭を下げた。
ただし胸の奥では、別の疑問が消えなかった。
シェリィ・ヴァルモントは、本当に自分たちが別の仕入れ先を探し始めることまで予想していないのか。
王都への主要商流を意図的に引くほどの人間が、相手が迂回路を探すことだけを見落とすだろうか。
そう考えた瞬間。
アルブレヒトの胸に、昨日よりも濃い警戒が生まれた。
◇
同日――
アスタリア大商会・代表執務室
「王都への緊急供給命令は出ませんでした」
報告を受けたシェリィは、手元の書類から顔を上げた。
「理由は?」
「今回の状況は、戦時徴発・非常徴用の適用要件を満たしていないとの国王陛下のご判断です。王都内の在庫確認や、別の方法による追加調達を進めるよう指示されたとのことです」
シェリィはすぐには答えなかった。
アーサー国王は密約を知らない。
それでも、王として既存の法と制度だけを見て、安易な強制供給を選ばなかった。
「……陛下らしいご判断ですわね」
その声には、安堵以上に敬意があった。
担当者が少し表情を緩める。
「これで、王都側からの供給要求も収まるでしょうか」
シェリィは静かに首を横に振った。
「いいえ」
「まだ動くと?」
「王命で取れないと分かれば、別の方法で買おうとします」
シェリィは机の上へ王国地図を広げた。
ヴァルモント公爵領以外にも生産地はある。王都へ至る道も一つではなく、王国内だけを見ても東部領・南部領があり、さらに国境の向こうには外国商人もいる。
「東部領・南部領・外国商人・独立系の小商会。普段なら使わない商人まで含めて探すはずです」
担当者が地図を覗き込む。
「迂回して王都へ物を入れるのですね」
「わたくしなら、そういたします」
「止めますか?」
シェリィはすぐには答えず、地図の複数の街道へ視線を走らせたあと、首を横に振った。
「いいえ。全部塞いではいけません」
「なぜでしょう」
「道を残しておけば、その道を誰が使うのか分かります」
担当者の表情が変わった。
シェリィは地図の一点を指した。
「誰が資金を出し・誰が仲介し・どの商会へ信用を与え・どの倉庫を使い・どの名義で王都へ商品を入れるのか。通常の商流では見えなかった関係が、物資不足の中では表へ出てきます」
「そこまで見越して……」
「可能性としては考えていました」
シェリィは静かに答えた。
ただし、表情に得意げな色はない。
「ですが、予想が当たることと、それを喜べることは別です」
王都で市民生活への影響が続いている。
今日も、誰かがいつもより少ない食事で我慢しているかもしれない。
それを忘れて作戦だけを見るつもりはなかった。
「期間を長引かせてはいけません」
シェリィは地図から顔を上げる。
「迂回商流の監視を始めてください。ただし、一般市民の生活を支える通常の小口取引まで妨げないこと。確認するのは、短期間で急増した大口買付・通常相場を大きく上回る取引・新規の輸送契約・不自然な名義変更を中心にしてください」
「承知いたしました」
担当者が一礼する。
「それと、再補給用の備蓄は?」
「積載順の再編を続けています。解除後、最短で王都へ向けて出発できる状態に近づいております」
「そのまま続けてください」
「はい」
担当者が退出したあと、シェリィはもう一度王国地図へ目を落とした。
王命は出なかった。
だから終わったのではない。
むしろ、強制という最も短い道が閉じたことで、相手は次の道を選ばなければならなくなった。
そして、その選択には必ず人と金が動く。
「次は、どなたがどの道を選ぶのでしょうね」
その頃。
王都ではすでに、《レーヴェンタール総合商会》の印章が押された最初の買付書が、東部領へ向けて運び出されようとしていた。
第18話では、第2王子派が王都への供給を回復させるため、国王アーサーに強制供給を求めました。
しかしアーサーは、シェリィとジュリアンの密約を知りません。それでも、今回の状況が戦時徴発・非常徴用の適用要件を満たしていない以上、王の名前だけを理由に民間の財産・契約・商売へ強制介入することを認めませんでした。
一方、ジュリアンは《アスタリア大商会不干渉王令》の草案を作りながら、「命令を禁止しても要請と言い換えられるのではないか」「商業ギルドや王国銀行を経由して圧力を掛けられないか」「アスタリア側からの要請を形式だけ作らせることはできないか」と、発令後に利用される可能性のある抜け穴を探しています。
守ろうとしているのは文言そのものではなく、アスタリア大商会が自らの意思で商売を決め、必要な時には自ら王国や商業ギルドへ助力を求められる状態です。
そして、王命という道を使えなかった第2王子派は、東部領・南部領・外国商人・独立系商会へ目を向け始めました。
シェリィも、その動きを予想しています。
次に表へ出てくるのは、別の商路と、そこを使おうとする人々です。




