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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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17/99

第17話:噂が王都を走る日

星環暦(せいかんれき)1284年・熾火月(おきびづき)≪第5月≫21日――

セレスティア王国・王都中央市場

「今朝も来てないって」

「何が?」

「ヴァルモント公爵領からの荷だよ」

昨日までは、主に商人たちの間で交わされていた話だった。それが一晩を越えた今、買い物へ来た市民の口からも聞こえるようになっている。

中央市場そのものは開いていた。近郊農村から運ばれた野菜が店先に並び、肉屋では職人が包丁を振るい、パン屋の窯からは焼きたての香りが漂っている。市場を初めて訪れた者なら、まだ普段と大きく変わらないように見えただろう。

ただし、店先を注意深く見れば違いはあった。

《本日分売切》《お一人様2点まで》と書かれた札が、昨日より増えている。特に薪・木炭・油・保存食の一部は品薄が目立ち、いつもなら昼過ぎまで商品が残る店でも、朝から客が並んでいた。

「ヴァルモントが止めてるんだって?」

「誰から聞いたの?」

「隣の奥さんよ。旦那さんが運送屋で働いてるの」

別の女が振り返った。

「私はアスタリアの商会が売らなくなったって聞いたわ」

「アスタリアって、北の?」

「ほら、追放された公爵令嬢が作ったっていう」

その言葉に、近くにいた何人かが耳を傾けた。

「……仕返しなんじゃない?」

誰が最初に口にしたのかは分からない。

けれど、《仕返し》という短い言葉は、人の頭に残りやすかった。

ヴァルモント公爵領商業ギルドがどの契約に基づいて商流を変えているのか、アスタリア大商会がどの範囲で新規受注を止めているのか。そんな複雑な話よりも、「追放された令嬢が王都へ復讐している」と考えた方がずっと分かりやすい。

「本当なの?」

「だって、実際に荷が来てないんでしょう?」

それだけで十分だった。

事実と推測の境目が、人の口を渡るたびに少しずつ曖昧になっていった。

◇

同日――

王都中央市場・パン屋《麦穂亭》

「お母さん、今日はいっぱい並んでるね」

少女が母親の手を握りながら、店の前にできた列を見上げた。

昨日より長い。

母親にもすぐ分かった。

「そうね」

昨日までは数人待てば買えた店だった。それが今日は、隣の店の前まで人が並んでいる。それでも母親は娘の手を引き、列の最後尾についた。

前に並んでいた女性2人の会話が耳に入る。

「アスタリア大商会って知ってる?」

「名前くらいなら」

「そこの令嬢が王都への荷を止めてるんだって」

「どうして?」

「追放されたからでしょう。公爵家まで一緒になってるって聞いたわよ」

もう一人の女性が眉をひそめた。

「でも、それって本当なの?」

「だってヴァルモント方面から荷が来てないのは本当でしょう?」

そこで会話は止まった。

母親も何も言わなかった。

シェリィ・ヴァルモント。

名前くらいは知っている。王立学院の卒業舞踏会で第2王子から追放を言い渡された、公爵家の令嬢。

それ以上の事情は知らない。

なぜ追放されたのかも、誰が正しかったのかも、北へ行ったあと何をしているのかも。

昨日までは、知らなくても困らなかった。

「お母さん」

娘が袖を引く。

「パン、なくならないよね?」

母親は反射的に笑おうとした。だが、店頭に出された《お一人様2個まで》の札が目に入り、一瞬だけ言葉が遅れた。

「大丈夫よ」

娘を安心させるための言葉だった。

自分自身がどこまで信じられているのかは、分からなかった。

やがて順番が来る。

店主は2人の顔を覚えていた。

「今日も2つかい?」

「はい。お願いします」

「分かった」

昨日より値段は上がっていない。

母親はそれだけで少し安心した。

ところが店主は、パンを包みながら申し訳なさそうに言った。

「明日は、1人1個にするかもしれない」

「そんなに小麦が少ないんですか?」

「今朝も次の荷が来なくてね。倉庫の分だけならまだ何日か焼ける。でも、皆さんが普段より多めに買い始めてるんだ」

母親は列を振り返った。

確かに昨日より人が多い。

不足するかもしれないから買う。買う人が増えるから、もっと早く不足する。

難しい商売の仕組みを知らなくても、それくらいは分かった。

少女は受け取ったパンを両手で抱え、嬉しそうに笑っている。

店を出ると、すぐ近くから男たちの声が聞こえた。

「北の追放令嬢が王都を締め上げてるらしいぞ」

「何のために?」

「復讐だろ」

母親は足を止めなかった。

王家の事情も、貴族同士の争いも分からない。

彼女が知りたいのはただ一つだった。

明日も娘へパンを買ってやれるのか。

それだけだった。

◇

同日――

王都西区・レーヴェンタール総合商会本店

「市場では、《追放令嬢の報復》という言葉が出始めています」

支配人の報告を聞きながら、アルブレヒト・レーヴェンタール伯爵は机上の紙へ目を落としていた。

中央市場・北区の酒場・南区の燃料商街・西区の織物市場で、同じ話が少しずつ形を変えながら広がっていた。

「最初に言った者は?」

「確認できておりません」

「そうだろうな」

アルブレヒトは報告書を置いた。

噂とはそういうものだ。

友人から聞いた。知り合いの商人が言っていた。運送屋の親戚が知っている。王宮勤めの者から聞いたらしい。

伝わるたびに出所が薄くなり、その代わりに話だけが強くなる。

支配人が尋ねた。

「こちらからも動きますか?」

「何を流す?」

「アスタリア大商会とヴァルモント公爵領が、王都への供給を止めていると」

アルブレヒトは一度頷いた。

「それなら構わん」

「追放への報復だという話も加えますか?」

その瞬間、アルブレヒトの視線が上がった。

「それは言うな」

「しかし、その方が民には理解しやすいかと」

「理解しやすい嘘ほど、崩れた時に信用を失う」

支配人が口を閉じる。

アルブレヒトは3枚の報告書を選び、机の中央へ置いた。

「我々が流すのは事実だけだ。ヴァルモント公爵領方面から王都への入荷量が大きく落ちている。アスタリア大商会が新規供給を抑えている。一部の商品では値上がりと売り切れが起きている」

「理由については?」

「何も言わなくていい」

「市民自身に考えさせる、と?」

「そうだ」

アルブレヒトは椅子へ背を預けた。

「人は理由のない出来事を嫌う。空白があれば、自分たちで埋める。しかも今は、《追放された令嬢》という分かりやすい材料がすでにある」

支配人の表情に理解が浮かぶ。

「酒場・市場・運送業者の待合所・商人の集会へ、数字を知っている者を通じて事実を伝えます」

「我々が出所だと分からないようにな」

「承知しました」

支配人が退出しかけたところで、アルブレヒトが呼び止める。

「もう一つ」

「何でしょう」

「《王都を飢えさせている》という言葉は使うな」

「なぜです?」

「まだ飢えてはいないからだ」

アルブレヒトの声は冷静だった。

「事実より10歩先を走る噂は、流した者の悪意を疑わせる。半歩でいい」

支配人が深く頭を下げる。

「心得ました」

扉が閉じる。

1人になったアルブレヒトは、窓の外へ視線を向けた。

情報を使って相手の判断を誘導する。

商売でも珍しいことではない。

入荷が少ない。次回価格が上がる。人気商品が残り僅か。

事実をどこから見せるかで、人間の判断は変わる。

だからこそ、気になっていた。

シェリィ・ヴァルモントが、それを知らないはずがない。

あれほど大規模に王都向けの商流を動かしながら、その後に起きる噂や反発を想定していないとは思えなかった。

「……どこまで見ている」

アルブレヒトの問いに、答える者はいなかった。

◇

同日――

セレスティア王宮・第2王子エドワード私室

「何だと?」

エドワードは側近から渡された報告書を机へ叩きつけた。

「王都への荷が減っている?」

「はい。特にヴァルモント公爵領方面からの入荷量が、大幅に低下しております」

「なぜ今まで俺に報告しなかった!」

事態の原因でも、市民への影響でもなかった。

自分が知らされていなかったことへ、真っ先に怒りを向けた。

側近が頭を下げる。

「当初は一時的な輸送遅延の可能性がございましたので、確定情報を待って――」

「それで俺への報告を遅らせたのか?」

「申し訳ございません」

エドワードは苛立たしげに立ち上がり、室内を歩く。

「それで、誰がやっている」

「現段階では断定できません。ただ、アスタリア大商会とヴァルモント公爵領商業ギルドが商流を変更している可能性が――」

「アスタリア?」

足が止まった。

「はい」

「シェリィか」

ほとんど考える時間すらなかった。

側近が顔を上げる。

「殿下、まだシェリィ嬢の指示と決まったわけでは――」

「他に誰がいる!」

エドワードは声を荒らげた。

「俺が追放したことを根に持っているんだ。北へ行って商会を作り、力を持った途端にこれだ!」

「ですが――」

「自分では俺に何もできないから、王都を困らせて俺に恥をかかせようとしている。昔からそうだ。自分だけが正しいと思って、人の間違いばかり指摘する女だった」

エドワードの中では、原因はすでに決まっていた。

卒業舞踏会で自分が法的権限もないままシェリィへ「追放」を言い渡したことも、第2王子擁立派の一部が王国内で不正な資金や利権へ手を伸ばしていることも、国王と王太子側がその周辺を調査していることも思考には上らない。

問題が起きたなら、自分以外の誰かが悪い。

自分が不利益を受けたなら、誰かが自分を陥れようとしている。

その考えは、エドワードにとってあまりにも自然だった。

そこへ、招かれていたアルブレヒトが入室した。

「お呼びでしょうか、殿下」

「ちょうどいい。お前の商会でも調べているのだろう?」

「はい」

「シェリィの仕業だな?」

アルブレヒトは即答しなかった。

それだけで、エドワードの眉間に皺が寄る。

「何だ」

「シェリィ・ヴァルモント嬢とアスタリア大商会が、今回の商流変更に関わっている可能性は高いと考えております」

「ほら見ろ!」

「ですが、殿下個人への報復と断定できる材料はございません」

エドワードの表情から笑みが消えた。

「どういう意味だ」

「規模が大きすぎます」

「だから何だ?」

「殿下一人を困らせるためだけに、公爵領商業ギルド・倉庫・運送業者・地方商会まで巻き込み、短期的な売上減少まで受け入れるでしょうか」

エドワードの目が細くなる。

「俺を侮っているのか?」

「そのような意味ではございません」

「では何だと言う」

「まだ分かりません」

その返答が、エドワードには気に入らなかった。

「役に立たんな」

アルブレヒトの表情は動かなかった。

エドワードは苛立たしそうに椅子へ腰を下ろす。

「王都の民へ教えればいい。誰のせいで荷が来ないのか」

アルブレヒトが答える。

「ヴァルモント公爵領方面から入荷が減っている事実は、すでに市井へ広がり始めております」

「なら、シェリィが報復していると言え」

「それは申し上げません」

「なぜだ」

「証明できないからです」

「そんなものはどうでもいい!」

「商人にとっては、どうでもよくありません」

アルブレヒトの声は静かなままだった。

「証明できない話を我々が断言し、後に覆された場合、傷つくのはこちらの信用です」

エドワードは鼻で笑った。

「商人は何でも信用、信用だな」

「金と同じほど重要ですので」

「好きにしろ。ただし、誰が王都を困らせているのか、民には分からせろ」

アルブレヒトは一礼した。

「事実は正確に伝えます」

エドワードは、その言葉を自分への同意だと受け取った。

アルブレヒトは訂正しなかった。

◇

同日――

王都北区・酒場《銀杯亭》

「聞いたか? ヴァルモント方面からの荷が3日続けて減ってるらしいぞ」

「アスタリア大商会も新しい注文を止めてるんだろ?」

「ああ、市場の知り合いが言ってた」

「何で?」

「追放された公爵令嬢の商会なんだろ。なら、王都への仕返しじゃないのか」

「やっぱりそう思うか」

男たちは、自分たちなりに話をつなげていく。

ヴァルモント方面から荷が減っていること、アスタリア大商会が新規供給を抑えていること、王都の一部で値段が上がっていることまでは事実だった。

だが、その事実と事実の間にある空白へ、人々は自分たちの想像を入れる。

「王家に頭を下げさせたいらしいぞ」

「俺は、公爵家が王都を脅してるって聞いた」

「いや、シェリィって令嬢が第2王子を恨んでるんだって」

話は少しずつ変わる。

けれど、《追放》《報復》《アスタリア》《王都への供給停止》という言葉だけは、不思議なほど残り続けた。

そして、その一部は偶然ではない。

アルブレヒトが流させた事実が、すでに王都の噂の中へ入り始めていた。

◇

同日――

セレスティア王宮・王太子執務室

「噂が広がっています」

側近が複数の報告書を机へ並べた。

ジュリアンは1枚ずつ目を通した。

《追放令嬢による報復》《アスタリア大商会による王都への供給停止》《ヴァルモント公爵領が王都向け物資を意図的に減らしている》《北の商人による王都締め上げ》。

「発生場所は?」

「中央市場・北区酒場街・南区燃料商街・西区商業街です。確認できているだけで4地区ございます」

「最初に話した者は?」

「まだ追えておりません」

「出始めた時間は?」

「本日の午前から昼に集中しております」

ジュリアンは報告書を机へ戻した。

数日前。

アスタリアの夜。

シェリィは、すでにこの展開を予測していた。

『次は、わたくしたちが王都を苦しめているという話になります』

自分が尋ねた。

『否定するか?』

シェリィは首を横に振った。

『すぐには』

『なぜだ』

『誰がその話を作り、誰が広げ、誰が同じ言葉を使うのかを見るためです』

あの時は、まだ机上の予測だった。

今は違う。

本当に同じ言葉が、王都の別々の場所から届いている。

「殿下」

側近が慎重に尋ねる。

「王宮から否定声明を出されますか?」

ジュリアンは黙った。

出せば、シェリィへの悪評は多少弱まるかもしれない。ヴァルモント公爵家もアスタリア大商会も、今よりは守れる。

だが同時に、誰が噂を作り、誰が広げ、誰が資金を出しているのか、その流れも消える。

「まだ出さない」

「しかし、シェリィ嬢への非難が強まる可能性がございます」

「分かっている」

声が僅かに重くなった。

また彼女に背負わせる。

追放された令嬢。

今度は、王都を苦しめる令嬢。

その呼び名が広がっているのを知りながら、今は止めない。

「同じ表現を使っている者を追え」

「同じ表現ですか?」

「噂は普通、伝わるほど言葉が変わる。だが《追放令嬢の報復》という表現が、離れた地区で同じ日に何度も出ている」

側近も書類を見る。

「元になる言葉を、誰かが広げている可能性があると」

「そうだ。発言者が誰と会ったか、どこから情報を得たか、金銭の授受がないかも調べろ。市場・酒場・商会・運送業者を横断して追う」

「承知しました」

「ただし、まだ拘束するな」

「泳がせるのですね」

「証拠が必要だ。口を塞げば、そこから先へたどれなくなる」

ジュリアンは窓の外へ視線を向けた。

「今は喋らせろ」

側近は一礼した。

扉が閉じたあとも、ジュリアンはしばらく動かなかった。

自分は、シェリィの名が傷ついていると知っている。

それでも利用している。

必要だから。

そう言ってしまえば簡単だった。

だが、その簡単な言葉で自分を許すつもりはなかった。

◇

同日――

アスタリア大商会・代表執務室

「王都で確認された風聞(ふうぶん)の記録です」

担当者が複数の書類を机へ置いた。

シェリィは最初の1枚を読み、続けて2枚目、3枚目へ目を通したあと、最初の紙へ戻った。

「この3件は、確認場所が違いますわね」

「はい。中央市場・北区酒場街・南区商業街です」

「記録した者も?」

「すべて別です」

シェリィは3枚を横に並べた。

《追放令嬢による王都への報復》

同じ表現。

一字一句完全に一致しているわけではない。

だが、自然発生として処理するには近すぎる。

「自然に生まれた噂なら、もう少し崩れます」

担当者も紙を見比べる。

「誰かが元になる言葉を流している?」

「可能性はあります」

「第2王子派でしょうか」

シェリィは首を横に振った。

「まだ決めません」

担当者が少し意外そうな顔をする。

「ですが――」

「最初から犯人を決めて証拠を探せば、自分の見たいものしか見えなくなります」

静かな声だった。

「誰が行っているのかを知るために記録するのです。誰かを犯人にするためではありません」

「失礼いたしました」

「謝る必要はありませんわ」

シェリィは紙を揃える。

「噂の記録はすべて保存してください。原文を変えずに」

「記録項目は?」

「確認場所・時刻・最初に聞いた人物・その人物が誰から聞いたか・同一表現の有無。それから可能なら、発言者の所属・取引先・最近接触した人物まで」

担当者が記録する。

「反論文は出しますか?」

「出しません」

迷いはなかった。

「ですが、このままではシェリィ様のお名前が――」

「今、わたくしの評判を守る必要はありません」

担当者が言葉を失う。

シェリィは穏やかに続けた。

「噂を否定して発信者を黙らせれば、情報の流れも止まります。必要なのは、わたくしが好かれることではなく、誰が何をしているかを知ることです」

「……承知いたしました」

「それより、王都の価格推移は?」

担当者が別の報告を開いた。

「小麦加工品・薪・木炭・油で、昨日より僅かに上昇しております。塩はまだ大きく動いておりません」

「売り切れは?」

「燃料商を中心に増えております」

シェリィの視線が一瞬止まった。

「再補給の準備状況は?」

「公爵領中央倉庫で、王都へ戻す際の積載順を再編しております。馬車・御者・交代地点についても確認中です」

「続けてください」

「はい」

担当者が一礼し、部屋を出ていく。

静かになった執務室で、シェリィは再び噂の記録を見た。

《追放令嬢による王都への報復》。

自分が悪く言われることなど、予想していた。

だから平気。

そんな簡単なものではない。

覚悟をしたからといって、心が何も感じなくなるわけではない。

まして今、自分が実際に王都への商流を引いていることも事実だった。

噂には、嘘だけではない部分がある。

だからこそ余計に重い。

「……報復、ですか」

小さく呟く。

もし本当に、ただエドワードを憎み、復讐だけを考えていれば、もっと簡単だったのかもしれない。

だが今、王都で困り始めているのはエドワードではない。

パンを買う母親・薪を買う職人・油を必要とする食堂・薬を必要とする病人――自分が守るべき王国の民だった。

それを「必要な犠牲だった」という言葉だけで終わらせるつもりはない。

シェリィは書類を裏返し、次の報告書へ手を伸ばした。

今は感情を消すのではなく、抱えたまま仕事をするしかなかった。

◇

その日の夜――

王都北区・酒場《銀杯亭》

「結局、全部アスタリアってところのせいなんだろ?」

「そう聞いた」

「追放された令嬢が怒ってるらしいじゃないか」

「王都を困らせて、王家に頭を下げさせるつもりだとか」

酒の入った男が笑いながら尋ねた。

「それ、誰から聞いた?」

聞かれた男は杯を持ったまま考え込んだ。

「……誰だったかな」

隣の男も口を挟む。

「俺も聞いたぞ」

「誰から?」

「市場で」

「誰に?」

「いや……名前までは」

誰も、最初に話した人間を覚えていない。

それでも、皆が同じ話を知っている。

荷馬車なら門で止められる。商品なら倉庫へ戻せる。金なら凍結することもできる。

だが、一度人の口へ渡った噂には、荷札も所有者も行き先もない。

その夜。

シェリィ・ヴァルモントという名前は、本人が王都へ一歩も足を踏み入れていないまま、王都中を歩き始めていた。

王都では、物資不足に続いて「誰のせいなのか」という話が広がり始めました。

ヴァルモント公爵領方面からの荷が減っていることも、アスタリア大商会が新規供給を抑えていることも事実です。しかし、そこから「シェリィが追放への報復として王都を苦しめている」という結論までは、本来なら別の話です。

アルブレヒトはその違いを理解しているため、自分たちから露骨な嘘を流すことは避けました。事実だけを広げ、市民自身に空白を埋めさせる方法を選んでいます。

一方のエドワードは事情を知らされた直後から、ほとんど迷うことなく「シェリィの報復だ」と考えました。問題が起きた時に自分の判断を振り返るより、まず自分以外の誰かへ原因を求める彼らしい反応です。

そしてシェリィとジュリアンは、今のところ噂を止めません。

誰が・どこで・どの言葉を使い・誰へ伝えているのか。

王都では今、物資だけではなく、人の感情と情報の流れまで戦場になり始めています。

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