第16話:王都が異変に気づく日
星環暦1284年・熾火月≪第5月≫20日――
ヴァルモント王国・王都中央市場
「……今日も、少ないな」
乾物屋の主人は、店先に積んだ豆袋の口を縛りながら、市場の入口へ視線を向けた。
朝の中央市場は、一見すれば普段と変わらない。近郊農村から野菜を積んだ荷車が入り、魚屋が威勢のいい声を張り上げ、焼きたてのパンの香りが通りへ流れている。買い物籠を下げた主婦も、仕事へ向かう途中で朝食を買う職人もいる。
商品もまだ並んでいる。
だから、王都を訪れた旅人なら異変には気づかなかっただろう。
だが、ここで20年以上商売をしてきた者には分かる。
ヴァルモント公爵領方面から入ってくる大型荷馬車の数が、明らかに減っていた。
昨日なら、街道のどこかで遅れているのだろうと思えた。荷車の故障かもしれない。荷崩れかもしれない。数台が重なれば、市場への到着が半日ほど遅れることもある。
だが、今日も来ない。
「おい、そっちはどうだ?」
隣で油を扱う商人が、渋い顔で歩いてきた。
「契約済みの分だけだ。追加で頼んでいた分は来てない」
「うちもだ」
油商は小さく舌打ちした。
「新しい注文は?」
「返事は来た。《商流再編に伴い、新規受注を一時停止する》だとさ」
乾物屋の主人が眉をひそめる。
「……こっちと同じか」
2人はしばらく黙って市場の入口を見た。
輸送事故なら、荷が遅れる。
だが、新しい注文そのものを受けなくなるのは別の話だ。
「公爵領で何かあったのか?」
「何も聞いてない」
「アスタリアは?」
「そっちも知らん」
油商が額を揉んだ。
「昨日は、今日になれば戻ると思ってたんだけどな」
乾物屋の主人は、自分の店の奥へ目をやった。
昨日までは商品で隠れていた棚板が、今日は少し見えている。
まだ、ほんの僅かな空白だった。
だが商人にとって、その空白はただの隙間ではない。
次の商品が来なければ、明日はもっと広がる。
「……明日になれば、か」
主人は呟いた。
昨日ほど、その言葉を信じられなくなっていた。
◇
同日――
王都中央市場・パン屋《麦穂亭》
「お母さん、今日もこれ!」
小さな少女が母親の手を引き、店先に並んだ丸いパンを指差した。
昨日と同じ店だった。
昨日と同じ時間。
昨日と同じ親子。
店主も2人の顔を覚えていたらしく、笑顔で迎えた。
「いらっしゃい」
母親も軽く頭を下げる。
「昨日いただいたパンを、今日も2つお願いします」
「はいよ」
店主は焼きたてのパンを2つ取り、紙に包んだ。少女はその手元を嬉しそうに見つめている。
母親も昨日と同じように財布を開き、同じ額の硬貨を台の上へ置いた。
ところが、店主は困ったように首を振った。
「ああ……すみません」
「はい?」
「今日から、少しだけ値段が上がりまして」
母親が瞬きをした。
「値上がりしたんですか?」
「ええ」
「昨日はこの値段でしたよね?」
「昨日までは」
店主の顔には、商品が高く売れることを喜ぶ様子などなかった。むしろ、申し訳なさそうに眉尻を下げている。
「小麦が値上がりしたんですか?」
「仕入れ値自体は、まだそこまで上がっていません」
「でしたら、どうして……」
店主は少し迷ってから、声を落とした。
「次の小麦が来ないんです」
「来ない?」
「はい」
母親の表情が変わった。
「いつ来るんです?」
店主は、すぐには答えられなかった。
「……分かりません」
少女は大人たちの会話を理解していない。ただ、母親の手に少し力が入ったことだけは感じたらしく、不思議そうに見上げた。
「でも、パンはありますよね?」
「今はあります。倉庫にも小麦は残っています。ただ、次がいつ来るか分からないのに、昨日までと同じように使い切ってしまうわけにもいかないんです」
母親は財布の中を見た。
今日だけなら困らない。
昨日より少し多く払っても、まだ野菜は買える。夕食も用意できる。
けれど、胸の奥に小さな不安が生まれた。
小麦だけでなかったら? 薪も? 油も? 塩も?
少女が母親の袖を引く。
「お母さん?」
母親は慌てて笑った。
「何でもないよ」
昨日より少し多い硬貨を置く。
「2つお願いします」
「……ありがとうございます」
少女はパンを受け取ると、昨日と変わらない笑顔を見せた。
母親も笑い返した。
だが、店を出たあと、財布を閉じる指には昨日にはなかった力が入っていた。
◇
同日――
王都中央市場・商人休憩所
昼を待たず、商人休憩所は満席になっていた。
食事をするためではない。
情報を持ち寄るためだった。
「うちも来てない」
「薪もだ」
「薬草は契約分だけ。追加注文は断られた」
「布も同じだ」
穀物問屋が帳簿を机へ置く。
「昨日の入荷量は通常の6割。今日の午前便までだと4割を切ってる」
「午後便が来れば変わるだろ」
「来るのか?」
その一言で室内が静かになった。
「事故じゃないのか?」
「どこで?」
「街道だよ」
「どこの街道だ?」
返事がない。
別の商人が口を挟んだ。
「天候は?」
「晴れ」
「橋が落ちたという話は?」
「ない」
「盗賊は?」
「王都へ来る荷を何十台も同時に襲ったっていうなら、とっくに騎士団が動いてる」
再び沈黙が落ちた。
乾物屋の主人が腕を組んだまま言う。
「事故じゃない」
周囲の視線が集まった。
「じゃあ何だよ」
「来ないんじゃない。来なくなってるんだ」
「何が違う?」
「荷が途中で止まってるなら事故だ。だが俺たちが次を注文しても受けてもらえない。昨日まで王都へ向かっていたはずの荷も、こっちへ来ていない」
油商が重く頷く。
主人は続けた。
「穀物・薪・油・布・薬草まで、同じ時期に同じ方面から減ってるんだぞ」
今度こそ、誰も何も言わなかった。
「誰かが流れを変えてる」
「誰が?」
「知らん」
「何のために?」
「それも知らん」
分からない。
けれど、商人である以上、数字が示すものから目を逸らすことはできない。
「王都へ来るはずだった荷が、王都へ向かってない。それだけは確かだ」
その言葉を境に、休憩所の空気が変わった。
遅延ではない。
市場の誰かが初めて、それを口にした瞬間だった。
◇
同日――
王都商業ギルド・流通管理室
「中央市場からの入荷遅延報告は現在21件。内訳は穀物・燃料・布・油・薬種・保存食です」
若い職員が読み上げる。
責任者が顔を上げた。
「王都北門の入荷台数は?」
「昨日が通常比約6割。本日午前までで4割を下回っています」
「出発地別では?」
「ヴァルモント公爵領方面が最も大きく落ちています」
責任者は椅子を離れ、壁に掛けられた王国地図の前へ立った。
報告のあった商会、荷の出発地点、使用予定だった街道へ1つずつ印を付けていく。
数が増えるほど、傾向は鮮明になった。
線の多くが北西へ伸びている。
ヴァルモント公爵領。
そして、その先にはアスタリアがある。
「……偶然ではないな」
職員が息を呑む。
「公爵領商業ギルドへの問い合わせは?」
「返答は《商流再編中》です」
「アスタリア大商会は?」
「同様です」
責任者は地図を見つめたまま、眉間を押さえた。
《商流再編》。
便利な言葉だ。
倉庫の変更、輸送路の見直し、取引先整理。商人ならいくらでも理由を付けられる。
だが、これほど多くの業種が短期間に同じ方向へ動くことはない。
「商業ギルド組合へ上げる」
「緊急案件としてですか?」
責任者は一瞬だけ迷った。
市場にはまだ商品がある。
暴騰も起きていない。
市民生活が止まったわけでもない。
けれど、商業の危機は棚が空になってから気づいても遅い。
「緊急だ」
責任者は答えた。
「今はまだ、表から見えていないだけだ」
◇
同日――
王都西区・レーヴェンタール総合商会本店
「数字を、もう一度」
低い声が執務室へ落ちた。
アルブレヒト・レーヴェンタール伯爵、52歳。
王都でも有数の大商会《レーヴェンタール総合商会》を実質的に所有する貴族である。
穀物・木材・薪・木炭・布・倉庫・輸送・軍需物資。
その商売は、王都の生活と経済へ深く食い込んでいた。
彼の机に並ぶのは、家系図より帳簿の方が多い。
向かいに立つ支配人が報告書を読み上げる。
「穀物入荷、通常比52%。木炭47%、油61%、布58%、薬草54%です」
アルブレヒトは指先で机を軽く叩いた。
「出発地別」
「東部領からはほぼ通常どおり。南部92%、西部95%」
支配人が一度言葉を止める。
「ヴァルモント公爵領方面は……31%です」
指が止まった。
「昨日は?」
「56%」
「その前は?」
「ほぼ通常どおりです」
「事故報告」
「ございません」
「天候」
「問題ありません」
「主要街道」
「すべて通行可能です」
「大規模な盗賊被害」
「報告されておりません」
アルブレヒトは椅子へ深く座り、目を閉じた。
穀物・木炭・油・布・薬草。
生産者も商人も輸送業者も、すべて同じではない。
それなのに、王都への入荷だけが一斉に減っている。
「……事故ではない」
支配人が顔を上げた。
「伯爵?」
アルブレヒトは目を開く。
「穀物だけなら不作や輸送事故を疑う。木炭だけなら生産上の事情も考えられる。だが穀物・木炭・油・布・薬草が同じ時期に、同じ地方から、王都向けだけ減る理由は1つしかない」
支配人の顔色が変わる。
「誰かが、王都へ流さないようにしている」
「アスタリア大商会でしょうか」
「違う」
即答だった。
「違うのですか?」
「アスタリア大商会だけでは、この規模にはならない」
アルブレヒトは物流網の図を引き寄せた。
「倉庫・卸商・運送業者・地方商会まで同時に動いている。ここまで広く商流を変えるなら――」
指先がヴァルモント公爵領の中心都市で止まる。
「公爵領の商業ギルドまで動いている」
支配人が息を呑んだ。
「ヴァルモント公爵閣下の命令でしょうか」
アルブレヒトは少しだけ考えた。
「命令とは限らん」
「では?」
「商人というものは、命令されたからといって自分の信用を危険に晒すほど素直ではない。まして、これだけの数が一斉に動くなら、損失を受け入れてでも従う理由が必要になる」
「……合意している?」
「少なくとも、公爵領側の商人たちは自分たちの意思で王都へ荷を出さないと決めている」
支配人の顔が青ざめた。
それは、一人の命令より厄介だった。
一人が命じているだけなら、その一人を動かせば済む。
だが、商人たち自身が同じ方向を選んでいるのなら、金を積めば簡単に崩せる話ではない。
「王都在庫を洗え」
「当商会のですか?」
「市場全体だ。食料・燃料・油・布・薬・生活必需品、それから軍需品も」
「期限は?」
「今日中」
支配人は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
扉が閉じる。
1人になったアルブレヒトは、机の上に残された報告書へ視線を落とした。
アスタリア大商会。
シェリィ・ヴァルモント。
商業ギルド組合への正式登録。
独自小切手発行資格。
王国銀行のアスタリア進出準備。
そして、この商流変更。
偶然。
そんな言葉で片づけられるはずがない。
「……何を狙っている」
価格か。
取引条件か。
王都商人への圧力か。
それとも、ヴァルモント公爵領全体の商業的発言力を引き上げるためか。
そこまでは考えられる。
だが、この先に何があるのかまでは読めない。
その事実が、アルブレヒトには何より不快だった。
◇
同日――
王都中央市場・穀物問屋
「小麦を100袋」
店主は聞き間違えたのだと思った。
「……もう一度お願いいたします」
目の前にいるのは、名の知られた貴族家の家令だった。
「100袋だ」
「いつもの10倍以上になりますが」
「分かっている」
「すべて伯爵邸へ?」
「いや。北倉庫へ運べ」
店主の目が僅かに動く。
「北倉庫でございますか」
「何か問題が?」
「いえ。ただ、あちらは長期保管用の倉庫ですので」
家令の目が細くなる。
「売れないのか?」
「売れます。しかし、この量となりますと他のお客様への分が――」
「定価の2割増しで払う」
机の上へ金貨袋が置かれた。
重い音がした。
店主の喉が鳴る。
今後の仕入れが見えない。
だからこそ、現金は欲しい。
今日のうちに高値で売れるなら、商売としては悪くない。
けれど、この注文を受ければ、日々ここへ買いに来る客へ売る分は減る。
店主は店の奥を見た。
まだ在庫はある。
十分にある。
そう思いたかった。
「どうする?」
家令が尋ねる。
店主は数秒黙ったあと、頭を下げた。
「……承りました」
その瞬間。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚が残った。
◇
同日――
王都中央市場
大口注文は、1軒だけではなかった。
「木炭を40樽」
「保存肉を確保できるだけ」
「油を20樽」
「塩も追加しろ」
「冬物の布も先に押さえておけ」
金を持つ者から、先に動き始めた。
貴族・大商会・富裕な地主。
彼らは、王都で何が起きているのか確信しているわけではない。
ただ、不足するかもしれない。
ならば今のうちに確保する。
家族を守るため。
使用人を養うため。
商売を止めないため。
それぞれに理由はある。
しかし、その判断が重なるほど、市場の在庫は早く減っていった。
そして人は、他人が急いで何かを買う姿を見ると、自分も急がなければならないような気持ちになる。
「○○侯爵家が小麦を大量に買ったらしい」
「木炭もだって」
「何かあるんじゃない?」
「戦争?」
「そんな話、聞いてないわよ」
「でも貴族が買ってるんでしょ?」
噂は荷馬車より速く市場を走った。
普段なら小麦を1袋買う家庭が2袋買う。
薪を10束買う者が15束買う。
油を1瓶買う者が、予備にもう1瓶。
誰も自分を「買い占めている」とは思っていない。
ただ、念のため。
その小さな「念のため」が何百、何千と重なれば、市場の在庫を削る力になる。
◇
同日――
セレスティア王宮・王太子執務室
「大口買付が急増しています」
側近から差し出された報告書に、ジュリアンは目を落とした。
「どの程度だ?」
「通常の3倍を超える注文が複数確認されています。小麦・保存肉・塩・木炭・油が中心です」
「買い手は?」
別紙を受け取る。
そこに並ぶ名前を見た瞬間、ジュリアンの視線が止まった。
大貴族・大商会・富裕な地主。
そして、その中には王太子側が調査していた第2王子擁立派関係者の名前も複数含まれている。
数日前。
アスタリアで交わした会話が蘇った。
◇
――アスタリア大商会・特別会議室。
『ですが、2日、3日と荷が減れば気づきます』
『その時は?』
『買い占めですわ』
ジュリアンは尋ねた。
『止めるべきか?』
シェリィは迷わず答えた。
『いいえ。止めてはいけません』
そして、静かに続けた。
『誰が、どの物資を、どれだけ買うのか。誰の名義で倉庫を押さえるのか。誰が市場価格以上の金を出し、誰が裏から荷を回すのか。それをすべて記録します』
『物資不足になった時、人は平時より正直になります』
◇
ジュリアンは現在へ戻った。
「……本当に最初に来たな」
「殿下?」
「いや」
側近が次の報告書を差し出す。
「市場の一部から、買い占め規制を求める声も上がり始めています」
ジュリアンの指が止まった。
「もうか」
「まだ一部です。しかし、この大口購入が続けば一般向け在庫へ影響が出ます」
分かっている。
嫌になるほど。
王都へ戻った朝、馬車の窓から見た母子の姿が脳裏に浮かんだ。
幼い少女が、パンを受け取って笑っていた。
今、買い占めを止めれば。
市場在庫は少し長く持つ。
値上がりも遅らせられるかもしれない。
罪のない人間が困る日を、少しだけ先へ延ばせる。
王太子なら、そうするべきではないのか。
胸の奥で何度も問いかける。
だが、ここで止めれば、誰が何をどれだけ買い、誰からどの金で、どの倉庫へ運ぶのかを見ることができなくなる。
第2王子派は、また影の中へ戻る。
ジュリアンは机の上で拳を握った。
「殿下?」
側近が心配そうに声を掛ける。
長い沈黙のあと、ジュリアンは口を開いた。
「規制は……まだ出さない」
側近の目が僅かに大きくなった。
「よろしいのでしょうか」
「よくはない」
即答だった。
「良いわけがない」
自分の声が、思った以上に苦かった。
「だが、すべて記録しろ。購入者・代理人・購入量・支払い方法・購入先・運送業者・保管先まで、一件も落とすな」
側近の表情が変わる。
「大口購入の流れそのものを追うのですね」
「そうだ」
「買い占め自体には介入せず?」
「異常な価格吊り上げ・詐欺・強要があれば止めろ。それ以外は――」
ジュリアンは窓の外へ視線を向けた。
「……まだ、見る」
側近は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
扉が閉じたあとも、ジュリアンは窓辺から動かなかった。
王都には、多くの家がある。
そこに暮らす大半の人々は、第2王子の擁立など望んでもいない。王宮の派閥争いにも関わっていない。
それでも今、その生活が盤面の中へ引きずり込まれている。
しかも。
自分の意思で。
ジュリアンは目を閉じた。
成功すれば許される。
そんなことだけは、考えてはいけない。
短く終わらせる。
終わったら、すぐに戻す。
そして、自分たちが何をしたのかを忘れない。
それが、この決断をした者に残された最低限の責任だった。
◇
同日――
セレスティア王宮・大后宮
「買い占めが始まったそうですね」
大后陛下は茶器を手にしたまま言った。
長年仕える侍女が一礼する。
「はい。王太子殿下は現段階では規制を行わず、購入者と流通経路を記録するよう命じられたとのことです」
大后陛下の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「そう」
「よろしいのでしょうか」
侍女は遠慮がちに続ける。
「市井では、すでに一部商品の値が上がり始めております」
大后陛下はすぐには答えなかった。
窓の外には王都の屋根が広がっている。
祭りの日も。
戦勝の日も。
不作の年も。
王が代わった日も。
長い人生の中で、何度も見てきた景色だった。
「良いか悪いかで問われれば、悪いでしょうね」
侍女が驚いて顔を上げる。
「では……」
「ですが、国を治める者が、いつも良いことだけを選べるとは限りません」
大后陛下は静かに茶器を置いた。
「ジュリアンが民の苦しみを何も感じずにその命令を出したのであれば、私はあの子を叱ります」
その声が少しだけ低くなる。
「ですが、苦しんだうえで、それでも必要だと判断したのなら、その責任まで祖母が奪うべきではありません」
侍女は黙って頭を下げた。
しばらくして、大后陛下の口元にごく薄い笑みが浮かぶ。
「それにしても」
「はい?」
「最初に買い占めが起きることまで、あの子は知っていたようですね」
「王太子殿下が?」
「ええ」
それ以上は言わなかった。
ただ、遠く北の地にいる一人の少女を思い浮かべる。
大后陛下は、ジュリアンが何を企てているのかすべてを知らない。
知らないからこそ、余計な手は出さない。
自分にできるのは。
孫が自ら背負うと決めた責任を。
背後から守ることだけだった。
◇
同日――
王都北区・レーヴェンタール伯爵別邸
夕刻。
第2王子擁立派の貴族たちが秘密裏に集まっていた。
「騒ぎ過ぎだ」
1人の侯爵が苛立たしげに言う。
「荷が2、3日遅れた程度ではないか」
「公爵領の商人どもが値を吊り上げようとしているだけでしょう」
別の貴族も同意した。
「なら金を積めばよい」
何人かが笑う。
アルブレヒトだけは笑わなかった。
机の上に商会から届いた最新の数字を並べている。
「アルブレヒト」
呼ばれ、顔を上げた。
「何をそんな難しい顔をしている」
「数字を見ています」
「相変わらず商人だな」
皮肉交じりの声。
アルブレヒトは気にしなかった。
「穀物は通常比52%、木炭47%、油61%、布58%、薬草54%です」
笑っていた者たちの声が止まる。
「そして、ヴァルモント公爵領方面からの入荷だけで見れば31%」
侯爵が眉をひそめた。
「だから何だ?」
「事故で説明できますか?」
誰も答えない。
「天候でも説明できない。主要街道に異常もない。大規模な盗賊被害もない。それでも異なる商品が、同じ方面から一斉に減っている」
「なら何が言いたい」
アルブレヒトは物流図を広げた。
「誰かが、王都への商流を意図的に引いています」
部屋の空気が変わる。
「アスタリアの小娘か?」
吐き捨てるような声。
アルブレヒトは、その男へ静かに視線を向けた。
「彼女だけでは不可能です」
「何?」
「アスタリア大商会単独で動かせる荷量ではない。公爵領の倉庫・卸・運送業者・地方商会まで同時に動いている」
物流図の一点を指す。
「ヴァルモント公爵領の商業ギルドまで動いていると考えるべきでしょう」
数人の表情が変わった。
「ヴァルモント公爵の命令か!」
「分かりません」
「なら――」
「公爵が命じたかどうかは本質ではない」
アルブレヒトの声が初めて少し強くなる。
「現実に、商人たちが王都へ荷を流さないことを選んでいる。それが問題なのです」
1人の伯爵が鼻を鳴らした。
「なら金を積めば売る」
アルブレヒトが視線を向ける。
「誰に?」
「商人に決まっている」
「1社ですか? 10社ですか? それとも公爵領商業ギルドに属するすべての商人へ?」
伯爵が言葉を詰まらせる。
「商人側が王都へ荷を出さないことで合意しているなら、1社を買収したところで商流全体は戻りません」
別の侯爵が机を叩いた。
「なら王命を出させればよい!」
アルブレヒトの目が冷たくなる。
「それが簡単なら、これほど広く商人は動きません」
「貴様、王命を軽んじるのか?」
「感情ではなく現実の話をしています。王命を出せば荷車が生えてくるわけではありません。倉庫にない物は出せない。契約を踏みにじれば、その後の信用も傷む」
「ではどうする!」
「だから考えるのです」
アルブレヒトは少し間を置いた。
「これは価格交渉ではありません」
誰も口を挟まない。
「単なる商業紛争でもない」
侯爵が睨む。
「なら何だと言う」
アルブレヒトは、すぐには答えなかった。
自分にも全体像は見えていない。
ただ、長年商売をしてきた感覚が警告している。
これは。
商品を高く売るための手ではない。
「……経済戦です」
その言葉が部屋へ落ちた。
「誰かが王都を使って、我々に何かをさせようとしている」
「何を?」
アルブレヒトは首を横に振った。
「そこまでは分かりません」
それが、何より腹立たしかった。
数字を見れば、大抵の商売は先を読める。
だが今回は。
相手がどこまで先を見ているのか。
見えない。
◇
同日――
アスタリア大商会・代表執務室
「王都で大口買付が始まりました」
報告を受けたシェリィは、すぐには答えなかった。
机の上には、王都の推定在庫表・公爵領倉庫への入庫量・品目別輸送状況・再補給計画が並べられている。
「予定より少し早いです」
担当者が言葉を選びながら続ける。
「現在の買い付けが今日、明日と続いた場合、一般市場への影響が当初推計より1日から2日ほど早まる可能性があります」
シェリィの指が在庫表の上で止まった。
1日。
2日。
数字だけを見れば小さい。
けれど、その1日で買えるはずだった家庭が買えなくなるかもしれない。
「……そうですか」
担当者はシェリィの顔を見る。
予測が当たった。
それなのに、彼女の表情には喜びがなかった。
「王都中央市場では、一部のパンと燃料が値上がりしています。ただし暴騰と呼べるほどではありません」
「一般家庭の買い込みは?」
「まだ小規模です。ただ、貴族や大商会の買い付けを見て、普段より多めに購入する市民が出始めています」
シェリィは目を閉じた。
分かっていた。
こうなることは。
自分でジュリアンへ説明した。
それでも、予測した数字が現実の生活へ変わっていく瞬間は、紙の上とはまるで違う重さを持っていた。
「シェリィ様」
「はい」
「このまま続行でよろしいでしょうか」
問いかけた職員の声にも迷いがある。
シェリィはその迷いを責めなかった。
むしろ、何も感じない者の方が怖いと思った。
「続けます」
静かに答える。
しかし、それだけでは終わらせなかった。
「公爵領内の再補給用備蓄を、もう一度確認してください」
「今ですか?」
「今だからです」
シェリィは公爵領倉庫一覧を手に取った。
「穀物・燃料・塩・油・医薬品・保存食について、王都へ戻す場合の最短輸送時間を再計算してください。馬車の割り当て、御者の交代地点、夜間走行可能区間も含めて」
担当者が目を見開く。
「まだ王都へ出さないのですよね」
「はい」
「では、なぜ今から?」
シェリィは僅かに視線を落とした。
「枯らす準備だけをしていてはいけません」
そして顔を上げる。
「救う準備も、同時に必要です」
担当者は一瞬黙ったあと、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「それから、小切手帳の申請は?」
「審査中が増えています。王都商会からの申請もございます」
「審査は続けてください」
「交付は?」
「まだです」
そこだけは迷わなかった。
「承知いたしました」
扉が閉じる。
一人になったシェリィは、机の上の王都地図を見つめた。
自分が物を止めた。
ジュリアンが買い占めを止めない。
その結果、何の罪もない人々の生活へ影響が届き始めている。
予測どおり。
その言葉だけは、口にできなかった。
「……早すぎますわね」
誰にも聞かれない声だった。
買い占めが始まる時期ではない。
市民へ影響が届く速度が。
シェリィはしばらく目を閉じたあと、再び書類へ手を伸ばした。
迷っていても。
物流は止まらない。
だからこそ、迷いながらでも次の手を打たなければならなかった。
◇
その日の夕刻――
王都南区・燃料商《赤炉屋》
「薪を2束ください」
仕事帰りの男が、いつもの店へ立ち寄った。
店主は困った顔をした。
「悪いね」
「何だ?」
「今日は、もうない」
男は店の奥を覗いた。
いつも壁際まで積まれている薪が、ほとんど消えている。
「全部売れたのか?」
「昼過ぎにな」
「ずいぶん早いな」
「朝から大口が入ってね。そのあと、いつもより多めに買う客が続いた」
男は少し困った顔をする。
「明日は?」
店主は答えなかった。
「明日の分は来るんだろ?」
昨日。
来なかった。
今日も。
来なかった。
仕入れ先から、次の出荷日も知らされていない。
「来るんですよね?」
もう一度尋ねられ、店主は客を安心させるために笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……来るはずだ」
男はその言葉を信じるしかなく、別の店を探して歩いていった。
店主は、その背中を見送る。
そして店先へ小さな板を出した。
《本日分 売切》
昨日まで。
荷が少ないだけだった。
今日。
王都の一部の店から、商品そのものが消えた。
まだ誰も。
危機とは呼ばない。
けれど。
「明日は来るのか」
その問いだけが。
少しずつ。
王都の中へ広がり始めていた。
王都の人々が、ようやく「少し荷が遅れている」では済まないことに気づき始めました。
昨日は荷馬車が減っただけでしたが、今日は新しい注文そのものが通らず、さらに貴族や大商会による大口買付が始まっています。
同じ母子にも再登場してもらい、昨日なら同じ値段で買えたパンが、今日は少しだけ高くなる形で変化を描きました。大きな暴動や極端な価格高騰ではなく、まずはこうした日常の小さな違和感から王都の異変が広がっていきます。
そして第2王子擁立派にも、シェリィとは別の立場から商流の異常を見抜く人物、アルブレヒト・レーヴェンタール伯爵が登場しました。
彼は無能な敵ではありません。
王都への商流が意図的に引かれていることには気づきました。
ただし、その先にシェリィたちが何を狙っているのかまでは、まだ見えていません。
王都の経済戦は、ここから「物が来ない」だけでは済まなくなっていきます。




