第15話:王城の門が閉じる日
星環暦1284年・熾火月≪第5月≫16日――
ヴァルモント王国・王都北門
朝の王都は、いつもと変わらなかった。
パン屋の煙突から白い煙が上がり、市場へ向かう荷車が石畳を軋ませる。
店先では野菜を並べる商人が声を張り、仕事へ向かう職人たちが足早に通り過ぎていく。
幼い子どもの手を引いた母親が、焼きたてのパンを2つ買っていた。
少し離れた場所では、年老いた男が薪の値段を店主と交渉している。
その光景を。
紋章のない馬車の窓から、ジュリアンは黙って見ていた。
誰も知らない。
数日後。
この市場から商品が減り始めることを。
パンの値段が上がることを。
薪を買うために、今より多くの金貨や銀貨を必要とするようになることを。
そして。
それが事故でも。
天候でも。
商人同士の揉め事でもないことを。
ジュリアンは知っている。
自分が了承した。
シェリィと共に。
意図的に起こす。
「……殿下」
向かいに座る近衛が、小さな声を掛けた。
ジュリアンは窓から視線を戻した。
「何だ?」
「もうすぐ王城です」
「ああ」
短く答える。
それだけだった。
もう一度だけ外を見る。
母親からパンを受け取った子どもが、嬉しそうに笑っていた。
その笑顔が。
妙に目に残った。
――王都の民も巻き込みます。
アスタリアでシェリィが告げた言葉が蘇る。
――分かっている。
自分は、そう答えた。
分かっていた。
そのつもりだった。
だが。
紙の上で「民」と書くことと。
実際に、その民の顔を見ることは違う。
あの子どもには何の罪もない。
パン屋にも。
薪を買おうとしていた老人にも。
今、荷を運んでいる御者にも。
彼らはエドワードを王にしようと企んだわけではない。
軍需契約から金を抜いたわけでもない。
賄賂を受け取ったわけでもない。
それでも。
自分たちは。
彼らの暮らしに手を伸ばす。
ジュリアンは拳を握った。
「殿下?」
「……何でもない」
決めたからといって。
迷わなくなるわけではない。
覚悟したからといって。
胸が痛まなくなるわけでもない。
むしろ。
何をするのか理解しているからこそ。
苦しくなる。
それでも。
ここで引けば。
今まで表へ出てこなかった者たちは、再び影へ潜る。
資金源も。
人脈も。
王宮内部の協力者も。
そしていつか。
同じことが繰り返される。
もっと大きな犠牲を伴って。
ジュリアンは静かに目を閉じた。
――短く終わらせる。
それしかない。
自分に許されている言い訳ではない。
自分に課した条件だった。
馬車が王城へ向かう道を上り始めた。
◇
同日――
セレスティア王宮・王太子居住区
「こちらへ」
王城へ戻ったジュリアンは、自室へ入る前に足を止めた。
廊下には、すでに数人の近衛兵が並んでいる。
その後方には。
見慣れた王宮兵とは異なる装備の兵たち。
ヴァルモント公爵家から借り受けた者たちだった。
料理人たちも、別の通路から厨房へ案内されている。
さらに。
食材。
飲料水。
酒。
塩。
保存食。
薬草。
必要な物資を積んだ荷が、公爵領から直接運び込まれていた。
近衛隊長が一礼する。
「殿下。ご指示どおり、王太子居住区の警備配置を変更いたしました」
「説明してくれ」
「はっ」
近衛隊長が図面を広げる。
「王太子居住区へ直接入れる通路は3つに限定します」
「残りは?」
「一時封鎖いたします」
「使用人は?」
「登録済みの者のみです」
「交代要員は?」
「事前承認制へ切り替えます」
ジュリアンが頷く。
「口頭命令は禁止しろ」
近衛隊長が顔を上げた。
「口頭命令を?」
「ああ」
ジュリアンはアスタリアでの会談を思い出す。
――偽の警備交代命令。
「俺からの命令であっても、認証印のないものには従うな」
「しかし、緊急時には――」
「緊急だからこそだ」
ジュリアンは静かに言った。
「『王太子殿下からの緊急命令だ』と言われれば、人は確認を省きたくなる」
近衛隊長が黙る。
「そこを使われる」
「……承知いたしました」
「認証印だけでは足りない。日ごとに合言葉を変える」
「そこまでなさいますか」
「そこまでやる」
即答した。
近衛隊長は一瞬だけジュリアンの顔を見る。
普段なら。
王太子本人がここまで細かい警備手順へ口を出すことは少ない。
「殿下」
「何だ?」
「何か……起きるのでしょうか」
ジュリアンは答えなかった。
答えられなかった。
近衛隊長も、それ以上は聞かなかった。
代わりに頭を下げる。
「承知いたしました」
「もう1つ」
「はっ」
「公爵家兵を外側へ置け」
「直属近衛ではなく?」
「直近はお前たちでいい」
ジュリアンが図面を指す。
「この回廊。この階段。この搬入口。ここは公爵家兵だ」
「理由を伺っても?」
「警備系統を1つにしたくない」
近衛隊長の目が変わった。
意味を理解したらしい。
「近衛が破られても、公爵家兵が残る」
「逆も同じだ」
「……承知しました」
「互いに疑えという意味ではない」
「分かっております」
「異なる系統を持たせるだけだ」
王太子直属近衛。
ヴァルモント公爵家兵。
別々の忠誠体系。
別々の指揮経路。
片方だけを買収しても突破できない。
ジュリアンは図面から視線を上げた。
「食事は?」
「公爵領から来た料理人のみが担当します」
「補助は?」
「同じく公爵家から」
「食材庫は?」
「新たに分離しました」
「鍵は?」
「料理長と食材管理責任者。2人同時でなければ開けません」
ジュリアンは小さく頷く。
「水は?」
「公爵領から運んだものを当面使用します。その後も専用の井戸から直接――」
「よし」
ここまでやって。
やっと。
シェリィから言われた言葉の重さが、現実になった気がした。
――料理人だけ替えて安心しないでくださいませ。
まったくだ。
あの女は。
どこまで考えていたのか。
「医師は?」
「殿下?」
「俺を見る医師だ」
「王室医師団が――」
「2名に絞れ」
「2名ですか?」
「俺が直接知っている者に」
「承知いたしました」
「薬も、その2人以外から受け取らない」
「はっ」
「書類を持ち込める者も限定する」
そこまで言ったところで。
側近の1人が思わず苦笑した。
「殿下」
「何だ」
「まるで籠城戦ですな」
ジュリアンは、その言葉に一瞬だけ黙った。
そして。
「そうだ」
笑わなかった。
「籠城する」
室内が静かになる。
「今日から、この件が終わるまで俺は城外へ出ない」
近衛隊長が驚く。
「一切ですか?」
「一切だ」
「公務も?」
「城内で処理する」
「貴族会合は?」
「相手を呼べ」
「視察は?」
「しない」
「どうしても殿下ご本人が必要な場合は――」
「必要ではない」
ジュリアンは言い切った。
「王太子が外へ出なければ国家が動かないような仕組みなら、その方が問題だ」
誰も反論できなかった。
ジュリアンは窓の外を見る。
眼下には。
王都が広がっている。
これから苦しませる街。
そして。
自分が守られながら、その苦しみを見届ける街。
胸の奥に。
小さな棘が刺さった。
「……始まるな」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
◇
同日――
セレスティア王宮・大后宮
「ジュリアンは戻りましたか」
大后陛下は、窓辺に座ったまま尋ねた。
「はい」
長く仕えてきた侍女が深く頭を下げる。
「先ほど王太子居住区へお戻りになられました」
「そう」
それだけだった。
「ヴァルモント公爵領の兵を伴っておられます」
「でしょうね」
侍女がわずかに顔を上げた。
「ご存じだったのでございますか?」
大后陛下は答えない。
手元にある茶器を静かに置く。
「料理人も入ったとか」
「はい」
「食材まで」
「そのようでございます」
大后陛下は。
ほんの少しだけ笑った。
「ずいぶん慎重になりましたね、あの子も」
「何か、ございましたのでしょうか」
侍女が尋ねる。
大后陛下は王都の方角を見た。
長い年月。
この城で。
王が生まれ。
王が死に。
貴族が争い。
国が揺れるのを見てきた。
だから分かる。
何かが大きく動く直前には。
必ず。
人が静かになる。
今の王宮が、そうだった。
表面上はいつもと同じ。
しかし。
ジュリアンは城外から公爵家兵を連れて帰った。
アーサーは、このところ密かに書類を集めている。
そして。
遠く北の地では。
あの少女が。
わずか数か月で、誰も無視できない商業基盤を作り上げた。
偶然が。
これほど重なることはない。
「……始めるのでしょう」
大后陛下が呟いた。
「大后陛下?」
「何でもありません」
ゆっくり立ち上がる。
「少し、歩きましょう」
「どちらへ?」
「古い場所です」
侍女の顔色が変わった。
その言葉だけで。
どこを指しているか分かったらしい。
◇
同日――
セレスティア王宮・地下深部《王城守護核》
王城の地下。
通常の王族ですら、立ち入る機会はほとんどない。
石造りの階段を。
大后陛下はゆっくり下りていった。
護衛もいない。
侍女すら、入口で待たせた。
長い階段の先。
巨大な石扉。
大后陛下が手を触れる。
淡い光が走った。
音もなく。
扉が開く。
その奥には。
巨大な魔法陣があった。
王城が築かれた時代から存在する。
王家の守護。
外敵。
暗殺者。
侵入者。
呪詛。
王族を狙う様々な脅威から、城そのものを守るために作られた古い術式。
だが。
その力を最大まで使える者は。
王家の中でも、ごく限られている。
大后陛下は魔法陣の中央へ歩いた。
静かに。
目を閉じる。
「私は」
誰に聞かせるでもなく。
呟く。
「何も聞いていません」
ジュリアンからも。
シェリィからも。
アーサーからも。
何も。
「ですから」
ほんの少しだけ。
口元が上がった。
「これは、私の勝手です」
床へ手を触れる。
魔力が流れた。
淡い光だった魔法陣が。
一瞬で。
王城地下全体を照らすほど強く輝く。
光が壁を走る。
柱へ。
天井へ。
そこから。
王城全体へ。
目には見えない。
巨大な網が広がっていく。
大后陛下の声が、静かに響いた。
「第2王子エドワードを王位へ就けることを目的とする者より」
光が強まる。
「命を受け」
「依頼を受け」
「誓約を交わし」
「その意志を王城内へ持ち込もうとする者を」
一瞬。
王城全体が。
息をした。
「拒みなさい」
魔法陣が。
応えた。
それだけだった。
誰かの心を裁く魔法ではない。
エドワードを好いているから。
王太子より第2王子の方が好きだから。
そんな理由では拒まれない。
思想を読む術でもない。
しかし。
擁立派から具体的な命令を受けた者。
依頼を受けた者。
工作を請け負った者。
その目的を果たすため、王城へ入ろうとする者。
その瞬間だけ。
王城が。
門を閉じる。
大后陛下は立ち上がった。
わずかに息が乱れていた。
年齢を重ねた身体に。
この規模の術式は決して軽くない。
それでも。
後悔はなかった。
「ジュリアン」
静かな声が地下へ落ちる。
「あなたは、あなたの戦いをなさい」
そして。
少し間を置き。
「私は」
目を閉じた。
「私の孫を守ります」
それだけだった。
◇
同日――
セレスティア王宮・西門
「お待ちください」
門兵の声が響いた。
1人の男が足を止める。
貴族家の使用人らしい服装。
王城への入城許可証も持っている。
「何です?」
「……もう一度、お通りください」
「もう一度?」
男が怪訝そうな顔をする。
先ほど。
門をくぐろうとした瞬間。
見えない壁に押し戻された。
門兵にも。
男にも。
理由が分からない。
「許可証に問題は?」
「ございません」
別の門兵が確認する。
本物だった。
印章も。
署名も。
有効期限も。
問題ない。
「では」
男が再び足を踏み出した。
王城の境界へ。
そして。
――止まった。
身体そのものが。
前へ進まない。
「な……」
男の顔色が変わる。
力を込める。
だが。
足が。
一歩も。
入らない。
門兵たちが互いを見る。
「所属は?」
「ク、クラウゼル伯爵家だ」
門兵の1人の目が、わずかに細くなった。
クラウゼル伯爵。
表向きには穏健な宮廷貴族。
だが。
王太子側が密かに調査していた人物の1人でもある。
「本日のご用件は?」
「書類を届けるだけだ!」
「どなたへ?」
男が一瞬。
答えに詰まった。
その一瞬を。
門兵は見逃さなかった。
「……こちらでお預かりいたします」
「いや!」
男の声が大きくなった。
「直接渡すよう命じられている!」
「誰に?」
「それは――」
言えない。
男の額から汗が流れた。
門兵は静かに告げた。
「本日の入城は認められません」
「そんな馬鹿な!」
「王城が認めておりませんので」
男の顔から血の気が引いた。
門兵自身も。
その言葉の意味を完全には理解していなかった。
だが。
王城には。
時折。
人間の理屈を超えた答えを出すことがある。
その日から。
第2王子擁立派の命を受けた者たちは。
理由も分からぬまま。
少しずつ。
王城から弾き出され始めた。
◇
星環暦1284年・熾火月≪第5月≫17日――
アスタリア大商会・執務室
シェリィの机には。
1通の報告書が置かれていた。
文章は短い。
王太子が予定どおり王都へ戻った。
公爵領から同行した者も全員、無事に王城へ入った。
ただ。
それだけ。
シェリィは同じ文章を。
もう一度読んだ。
そして。
小さく息を吐く。
「……戻られましたのね」
安堵した。
本当に。
わずかではあるが。
肩から力が抜けた。
アスタリアから公爵領へ。
公爵領から王都へ。
道中で襲われる可能性も考えていた。
だから。
王城へ入った。
その知らせだけで。
十分だった。
ここから。
ジュリアンは城外へ出ない。
少なくとも。
約束を守るなら。
「シェリィ様」
声を掛けられる。
顔を上げる。
商会の物流担当者が立っていた。
「公爵領商業ギルドへの文書です」
「ありがとうございます」
差し出された書類を受け取る。
何度も。
内容を確認した。
もう。
誤字などない。
条件も。
対象も。
日時も。
間違いはない。
あとは。
署名するだけだった。
シェリィはペンを取った。
インクへ。
ペン先を浸す。
紙へ近づける。
そして。
止まった。
ほんの数秒だった。
誰にも。
それが迷いだとは分からない程度の。
短い時間。
だが。
シェリィ自身には。
長く感じられた。
王都。
幼い頃から何度も歩いた町。
王宮だけではない。
学院だけでもない。
市場。
菓子屋。
本屋。
仕立屋。
雨の日に軒下を貸してくれた店。
朝早くから道を掃いていた老人。
卒業前。
学院へ向かう途中で見かけた母子。
彼らは。
何も知らない。
第2王子擁立派の資金網など。
王宮内部の争いなど。
知らない。
明日の食事が買えれば。
家族が無事なら。
それでいい人たちだ。
その人々の生活を。
自分は。
意図的に揺らそうとしている。
「シェリィ様?」
物流担当者の声。
シェリィは我に返った。
「……何でもありません」
ペン先を見る。
少しだけ。
インクが膨らんでいた。
別の紙を使う。
やり直した。
今度は。
迷わず署名した。
――シェリィ・ヴァルモント。
アスタリア大商会代表として。
その名前が。
紙の一番下に記された。
「公爵領商業ギルドへ」
シェリィは言った。
「正式な協力依頼として送ってください」
「承知いたしました」
担当者が書類を受け取る。
だが。
すぐには立ち去らなかった。
「何か?」
シェリィが尋ねる。
「……本当に」
担当者は迷った末。
「王都向けを、すべて?」
シェリィは答えた。
「対象となる商流については」
「かなりの量になります」
「分かっています」
「王都では」
そこで。
言葉が止まった。
その先を。
言わせる必要はない。
「分かっています」
シェリィはもう一度言った。
先ほどより。
少しだけ。
声が低かった。
「全部」
「分かっています」
それ以上。
何も言わなかった。
言えば。
自分を正当化してしまいそうだったから。
王国のため。
未来のため。
腐敗を一掃するため。
何とでも言える。
どれも嘘ではない。
しかし。
その言葉で。
これから困る人々の苦しみが消えるわけではない。
だから。
シェリィは。
自分を慰める言葉を使わなかった。
「お願いします」
「……はい」
担当者は深く頭を下げ。
書類を持って出ていった。
扉が閉まる。
シェリィは。
しばらく。
1人で座っていた。
◇
同日――
ヴァルモント公爵領・中央商業ギルド
「来たか」
オスカー・ベルンハルトが言った。
机の上には。
アスタリア大商会から届いた正式文書。
向かいには。
商業ギルド長アルフレッド。
そして数名の幹部商人。
誰も。
すぐには文書へ手を伸ばさなかった。
アルフレッドが。
ゆっくり封を開く。
読む。
長い文章ではない。
しかし。
読み終わるまで。
室内では誰も声を出さなかった。
やがて。
アルフレッドが紙を机へ置く。
「……全面的な商流調整要請だ」
幹部の1人が尋ねる。
「王都方面ですか?」
「ああ」
「どの程度まで?」
オスカーが文書を取る。
「新規出荷の停止」
1行ずつ読む。
「未販売の委託在庫について、契約上回収可能なものは引き上げ」
「輸送途中で、まだ売買が完了していないものは公爵領側へ転送」
「信用取引の新規設定停止」
「王都向け輸送枠の再配分」
別の幹部が息を呑む。
「……それを全部?」
「全部だ」
「王都がどうなるか分かっているのか?」
その問いに。
誰もすぐには答えなかった。
分かっている。
ここにいる者は商人だ。
どれだけの荷が。
毎日。
公爵領から王都へ入っているのか。
知っている。
穀物。
燃料。
布。
油。
木材。
加工食品。
薬草。
日用品。
全てを。
アスタリア大商会だけが扱っているわけではない。
だが。
公爵領商業ギルドが。
アスタリアと同時に。
一斉に動けば。
話は別だ。
王都の商業へ。
明確な穴が開く。
「これ」
1人の老商人が言った。
「商売の話じゃないだろう」
誰も否定しなかった。
オスカーは文書を見つめた。
シェリィ。
小さい頃から知っている。
彼女が。
意味も分からず。
こんな文書を出すはずがない。
むしろ。
意味を理解し過ぎている。
だからこそ。
この文章には。
いつもの彼女なら書きそうな説明がない。
理由が。
書かれていない。
それが。
何より雄弁だった。
「公爵閣下から何か?」
幹部の1人が尋ねる。
アルフレッドは首を振った。
「命令はない」
「では、我々が断っても?」
「もちろんだ」
アルフレッドは即答した。
「これはアスタリア大商会からの協力依頼だ」
「……」
「公爵命令ではない」
そこは重要だった。
商人たちが。
自分で決めなければならない。
従うか。
従わないか。
誰かの命令に隠れることはできない。
「閣下は?」
「倉庫を空けた」
室内が静まる。
「何?」
「公爵領内の予備倉庫を複数」
アルフレッドが言う。
「3日前から、整理を始めている」
オスカーが顔を上げた。
「3日前?」
「ああ」
シェリィからの正式依頼が来るより。
前。
「それから」
アルフレッドは続ける。
「輸送路の再配置も準備済みだ」
「公爵は知っていたのか?」
「何を知っているかは知らん」
「……」
「だが」
アルフレッドは小さく息を吐いた。
「何かが来ることは分かっていたらしい」
王太子が。
秘密裏に公爵邸へ来たこと。
料理人と兵を連れて王都へ戻ったこと。
それを知っている者は。
ごくわずか。
当然。
商業ギルドの彼らは知らない。
それでも。
公爵は。
準備していた。
商人の1人が腕を組んだ。
「つまり」
「命令はしない」
アルフレッドが答える。
「だが、受け皿は用意した」
沈黙。
オスカーが笑った。
笑ったというより。
苦く息を吐いた。
「似た者親子だな」
「何がだ」
「決めるのはこっちだと言いながら」
文書を持ち上げる。
「断る理由だけ、全部先に潰してある」
誰も笑わなかった。
◇
会議は。
そこから長く続いた。
「俺は反対だ」
最初に明確に言ったのは。
穀物商だった。
「王都にはうちの得意先が何十軒もある」
誰も遮らない。
「20年付き合ってきた店もある」
拳を握る。
「王宮の連中が何をやってるか知らん」
「だが、あの連中は違う」
「明日突然、荷が来なくなる」
「説明もできん」
別の商人も頷いた。
「うちも同じだ」
「王都の仕立屋が何をした?」
「宿屋が何をした?」
「パン屋が?」
「薬屋が?」
言葉が重なる。
正しい。
その通りだった。
アルフレッドは否定しなかった。
「何もしていない」
静かに答える。
「なら」
「だから難しい」
その一言で。
再び静かになった。
オスカーが資料を閉じる。
「アスタリア側は、売却済みの物資へ手を付けないと言ってる」
「当然だ」
「既存契約も原則履行」
「それも当然だ」
「だが更新しない」
「……」
「新規も止める」
「……」
「つまり」
オスカーは全員を見る。
「信用を捨てずに」
「王都との次の取引だけを消すつもりだ」
穀物商が顔をしかめた。
「結果は同じだ」
「そうだ」
オスカーは否定しない。
「王都の棚は減る」
「値段も上がる」
「そうだ」
「困るのは民だ」
「そうだ」
何度でも。
認めた。
「だったら何で――」
「分からない」
オスカーが言った。
穀物商が止まる。
「俺たちは理由を聞かされてない」
「なら、なおさら――」
「ただ」
オスカーは。
窓の外へ視線を向けた。
「俺は、あのお嬢ちゃんを知っている」
長い付き合いだった。
まだ。
シェリィが商会主でも。
領主でも。
国家アナリストでもなかった頃から。
「自分が儲けたいだけなら」
オスカーが静かに言う。
「こんな面倒なやり方はしない」
「……」
「王都で不足が起きれば、価格はいくらでも吊り上げられる」
「……」
「だが、あのお嬢ちゃんは王都へ流すはずの物資を」
机を指した。
「公爵領倉庫へ積めと言っている」
「売るのではなく?」
「保管だ」
老商人が顔を上げる。
「何のために?」
オスカーは答えなかった。
代わりに。
アルフレッドが口を開いた。
「戻すためだろう」
全員が。
ギルド長を見る。
「……王都へ?」
「ああ」
「いつ?」
「知らん」
「なら――」
「だから」
アルフレッドが言う。
「俺たちは」
少しだけ。
言葉を選ぶ。
「王都を見捨てろと言われているわけではない」
「……」
「一度」
大きく息を吸った。
「手を離せと言われている」
それが。
余計に苦しかった。
見捨てる方が。
まだ単純だったかもしれない。
敵だから。
知らないから。
どうなってもいいから。
切り捨てる。
その方が。
心は簡単だ。
だが。
違う。
苦しむと知っている。
後で救うつもりもある。
それでも。
今は。
手を離す。
商人として。
人として。
それが。
簡単な決断であるはずがなかった。
アルフレッドが全員を見る。
「俺は協力する」
誰も声を出さない。
「ギルド長命令ではない」
「……」
「俺個人の商会も、王都向けを引く」
「アルフレッド」
「この判断が間違っていたら」
老商人は苦く笑った。
「俺も責任を取る」
オスカーも。
手を挙げた。
「俺もだ」
次に。
薬種商。
しばらく迷い。
「……既存契約分だけは出す」
「ああ」
「それ以外は止める」
次。
布商。
「うちも」
穀物商だけが。
最後まで黙っていた。
全員が。
彼を見る。
「……卑怯だな」
ぽつり。
「何が?」
「公爵が倉庫なんぞ用意してやがるから」
誰かが。
小さく笑った。
穀物商は。
笑わなかった。
「戻せると思っちまう」
「……」
「後で」
「王都へ」
拳を握る。
「戻せると思うから」
しばらく。
俯いた。
そして。
「……うちもやる」
決まった。
歓声は。
上がらなかった。
誰も。
勝った顔をしなかった。
それが。
この決定の重さだった。
◇
星環暦1284年・熾火月≪第5月≫18日――
アスタリア大商会・物流統括室
朝。
アスタリア大商会の物流統括室には。
普段より多くの職員が集まっていた。
壁一面の路線図。
倉庫一覧。
輸送予定表。
王都行き。
公爵領行き。
西部行き。
北方行き。
様々な色で記された札が並ぶ。
シェリィが入室すると。
全員が立ち上がった。
「おはようございます」
「おはようございます!」
いつもなら。
もう少し柔らかい空気がある。
今日は。
誰も笑わない。
机の中央。
公爵領商業ギルドからの返書。
《協力する》
その一文。
シェリィは目を閉じた。
ほんの一瞬。
「ありがとうございます」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
そして。
目を開く。
「始めます」
室内の空気が変わった。
「本日以降、王都方面への新規出荷を停止」
職員が記録する。
「すでに売買が成立しているものは?」
「契約どおり届けてください」
「未販売の委託在庫は?」
「回収可能なものを確認。契約条項に従って引き上げます」
「輸送途中の荷は?」
「所有権を確認してください」
シェリィは強く言った。
「こちらに所有権が残っているものだけ、行き先を変更します」
「売却済みには?」
「触れません」
「はい」
「絶対にです」
もう一度。
念を押す。
「今回のことで」
シェリィは職員全員を見る。
「アスタリア大商会そのものの信用を失ってはなりません」
誰かを苦しめる。
だからといって。
何でもしてよいわけではない。
一線は。
絶対に越えない。
「契約は守ります」
「はい」
「所有権も」
「はい」
「ただし」
シェリィの声が。
少し低くなる。
「次の契約は結びません」
誰も返事を急がなかった。
「王都向けの新規信用取引も停止」
「承知しました」
「輸送枠は公爵領中央倉庫、第2倉庫、第4倉庫へ振り替えます」
「第3倉庫は?」
「医薬品と保存食用に空けてください」
「分かりました」
「追加倉庫が必要になった場合は?」
「公爵家から使用許可が出ています」
物流担当者が驚く。
「すでに?」
「はい」
ローランド。
父は。
密約を知らない。
何が起きるのか。
詳しく聞かされてもいない。
それでも。
倉庫を空け。
受け入れ準備を整えた。
シェリィは。
そのことを考えると。
胸が少し痛んだ。
どこまで。
父は察しているのだろう。
そして。
どこまで察しながら。
娘へ何も聞かず。
支えているのだろう。
「シェリィ様」
「はい」
「王都支店から問い合わせです」
「何でしょう」
「委託在庫の回収理由を聞かれております」
シェリィは少し考えた。
「商流再編に伴う在庫調整、と」
「それだけで?」
「それ以上は答えないでください」
「分かりました」
別の職員。
「王都方面の取引先から、小切手帳の申請について問い合わせが3件」
シェリィの表情が止まった。
「審査は?」
「2件はほぼ終了。1件は追加資料待ちです」
「続けてください」
「交付は?」
「しません」
即答した。
「通知はどういたします?」
「審査中としてください」
「いつまで?」
職員が尋ねる。
シェリィは。
一瞬だけ。
王都の方角を見た。
「市場が」
言いかけて。
止める。
「……準備が整うまで」
それだけにした。
職員は。
深く頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
同日――
ヴァルモント公爵領・北街道第7分岐
「止まれーっ!」
先頭の御者が手綱を引く。
十数台の荷馬車が。
順番に速度を落とした。
後方から声が飛ぶ。
「何だ?」
「故障か?」
「道が塞がった?」
隊商責任者が。
新しい指示書を広げる。
何度見ても。
内容は同じだった。
《王都行き中止》
《公爵領中央倉庫へ転送》
御者の1人が首を傾げる。
「俺たち、王都じゃなかったのか?」
「変更だ」
「全部?」
「全部」
「何で?」
責任者は。
しばらく答えなかった。
「商会の指示だ」
それしか。
言えない。
「王都で何かあったのか?」
「知らん」
「戦争?」
「馬鹿言え」
「じゃあ何だよ」
「知らんと言ってる」
少し。
声が荒くなった。
責任者自身。
分からない。
ただ。
王都へ向かうはずだった穀物が。
今から逆方向へ行く。
それだけは分かる。
御者の1人が。
王都方面の道を見る。
「あっちのパン屋、今日の荷を待ってるんじゃないのか」
誰も答えなかった。
もちろん。
今日届ける契約分ではない。
それは別便ですでに送られている。
この荷は。
次の販売分。
まだ。
誰の物でもない。
だから。
契約違反ではない。
法律にも。
商慣行にも。
反していない。
でも。
その荷が届かなければ。
数日後。
誰かが困る。
それも。
事実だった。
責任者は。
指示書を折り畳んだ。
「進路変更!」
大声を出す。
「中央倉庫へ!」
御者たちが。
手綱を握り直した。
一台。
また一台。
王都へ向いていた馬車が。
分岐点で。
向きを変える。
誰も。
歓声を上げない。
誰も。
笑わない。
ただ。
仕事として。
荷を運ぶ。
それしかできなかった。
◇
同日――
ヴァルモント公爵領・中央備蓄倉庫群
「次!」
巨大な倉庫の扉が開いている。
荷馬車が入る。
穀物袋。
油樽。
木炭。
布。
塩。
保存肉。
次々と。
積み上がっていく。
倉庫責任者が帳簿へ記録する。
「第1倉庫、8割!」
「第2へ回せ!」
「第2も間もなく7割です!」
「第5を開けろ!」
「第5は冬季用備蓄が――」
「公爵閣下の許可が出ている!」
「了解!」
離れた場所で。
ローランドは。
その光景を見ていた。
隣には。
家令。
「増えましたな」
「ああ」
「このままでは、明日には追加倉庫が必要です」
「開けろ」
「よろしいので?」
「そのために空けた」
家令が頭を下げる。
「承知いたしました」
だが。
その場を離れない。
ローランドが横を見る。
「何だ?」
「……王都へ行くはずの荷なのでしょう?」
ローランドは。
答えなかった。
「旦那様」
「そうだ」
短く認める。
家令の顔が曇る。
「では」
その先を。
ローランドは分かっていた。
「王都では」
「不足する」
家令が黙った。
ローランドも。
倉庫を見る。
山のように積み上がる食料。
これだけあれば。
多くの人間が食べられる。
その食料を。
今。
王都へ送らない。
ローランドは。
アーサーの顔を思い出した。
若い頃から。
何度も。
酒を飲んだ。
喧嘩もした。
笑った。
王として。
父として。
どれほど苦労してきたか。
知っている。
そのアーサーの王都を。
自分たちは。
今。
苦しめようとしている。
「……悪いな、アーサー」
家令には聞こえない声。
だが。
次の瞬間。
ローランドは顔を上げた。
「倉庫番号ごとに、入庫日と品目を厳密に管理しろ」
「はい」
「古いものから出せるように」
「出す?」
家令が聞き返す。
ローランドは王都の方角を見る。
「いつか戻す」
断言した。
「全部だ」
「……」
「腐らせるな」
「はい」
「傷ませるな」
「承知いたしました」
「これは」
少しだけ。
声が震えた。
「王都へ戻す荷だ」
家令が。
深く頭を下げた。
「必ず」
それで。
十分だった。
◇
星環暦1284年・熾火月≪第5月≫19日――
ヴァルモント王国・王都中央市場
「今日は遅いな」
乾物屋の主人が。
通りの向こうを見た。
朝から。
何度も同じ方向を見ている。
公爵領方面から来る荷馬車は。
いつもなら。
もう何台も市場へ入っている時間だった。
「何が?」
隣の店主が尋ねる。
「荷だよ」
「来てるじゃないか」
「少ない」
「そうか?」
「少ないよ」
乾物屋は。
長年。
毎日。
荷を見てきた。
感覚で分かる。
「いつもなら、あそこまで荷馬車が並ぶ」
市場入口を指す。
今日は。
半分にも満たない。
「街道で事故でもあったんじゃないか?」
「かもな」
「雨も降ってないぞ」
「荷車の車輪でも壊れたんだろ」
「何十台も?」
「知らんよ」
隣の店主は笑った。
「明日まとめて来るさ」
乾物屋も。
少し考え。
「そうだな」
それ以上。
気にしなかった。
客が来る。
「塩をください」
「はいよ」
いつもの量。
いつもの値段。
まだ。
何も変わっていない。
少し離れた場所。
パン屋。
「小麦、明日の便で来るんだよね?」
若い店員が尋ねる。
主人は。
帳簿を確認した。
「その予定だ」
「今日、少なかったって」
「遅れてるだけだろ」
「そうですよね」
「ああ」
パンを焼く。
客が買う。
子どもが笑う。
いつもの。
王都。
誰も。
危機とは呼ばなかった。
なぜなら。
まだ。
店には物がある。
倉庫にも。
食料がある。
薪も。
油も。
薬も。
ある。
ただ。
いつも来るはずの荷馬車が。
少し。
少なかっただけ。
市場の門番が。
夕方。
記録簿へ数字を書いた。
公爵領方面。
入城荷馬車数。
昨日より。
大幅減。
門番は。
首を傾げた。
だが。
ページをめくった。
「明日は戻るだろ」
そう呟いて。
帳簿を閉じる。
日が沈む。
王都の灯りが。
1つ。
また1つ。
灯っていく。
その頃。
本来。
王都へ向かっているはずだった荷馬車は。
もう。
ほとんど。
別の道を走っていた。
穀物も。
薪も。
油も。
布も。
薬も。
王都ではなく。
ヴァルモント公爵領へ。
静かに。
確実に。
流れを変えていた。
まだ。
誰も知らない。
今日。
王都へ来なかった荷は。
明日も。
来ない。
その次の日も。
そして。
王都の人々が異変に気づく頃には。
商流はすでに。
大きく。
王都を避けて流れていることを。
今回は、ついに作戦が動き始めました。
ただし、誰にとっても「待ち望んでいた瞬間」ではありません。
ジュリアンも。
シェリィも。
ローランドも。
公爵領の商人たちも。
王都の民に罪がないことを分かっています。
だからこそ、決断してしまえば迷いが消えるのではなく、むしろ自分たちが何をしているのかを理解するほど、その重さは増していきます。
一方、王城では大后陛下も静かに動きました。
ジュリアンたちの密約を聞いたわけではありません。
それでも長く王国を見続けてきた彼女は、これから何が起こるのかを読み、自分にできることを選びます。
そして王都では。
荷馬車が少し減りました。
まだ、それだけです。
市場には商品があります。
人々はいつも通り買い物をし、パン屋は明日の小麦が届くと思っています。
けれど。
明日も、その荷は来ません。




