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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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14/99

第14話:敵が次に打つ手

星環暦(せいかんれき)1284年・熾火月(おきびづき)≪第5月≫14日――

アスタリア大商会・特別会議室

「そこまで先を読んでいるのなら、もう1つ聞いておきたい」

ジュリアンの声で、シェリィは王都の商業地図から顔を上げた。

窓の外は、すでに深い夜だ。

アスタリア大商会の建物からは大半の明かりが消え、遠くで夜番が交わす声だけが時折聞こえてくる。

机の上には、第2王子擁立派へとつながる商会、貴族、倉庫、資金経路を書き込んだ資料が広げられていた。

つい先ほど。

シェリィは王都から物資だけではなく、金と信用そのものを引き抜く方針をジュリアンへ告げた。

そして、独自小切手帳の交付を止めていた本当の理由も。

ジュリアンは地図の中央――王都を指で叩いた。

「俺たちが動けば、向こうも黙ってはいない」

「もちろんでございます」

「商流を引いた後、連中はどう動く?」

シェリィは即答しなかった。

もう一度、机の上へ視線を落とす。

人物ではない。

組織でもない。

金。

物。

信用。

そして、それを失い始めた人間がどう動くのか。

それを見る。

「最初は、たいしたことではないと考えるでしょう」

「たいしたことではない?」

「はい。輸送の遅延。天候。荷馬車の不足。あるいは商人同士の一時的な揉め事」

「自分たちが狙われているとは考えない?」

「最初から王都全体の商流が意図的に引かれたと考える者は、そう多くありません」

シェリィは地図の端に置かれていた木札を1つ取り、王都の上へ置いた。

「ですが、2日、3日と荷が減れば気づきます」

「その時は?」

「買い占めですわ」

ジュリアンの眉がわずかに動いた。

「民衆が?」

「民衆も。しかし、最初に大量に動くのは金を持っている者です」

「貴族と大商人か」

「ええ」

シェリィは木札を増やした。

「穀物」

1つ。

「塩」

もう1つ。

「薪、木炭、油」

さらに1つ。

「薬、布、保存食」

次々に王都の地図へ置いていく。

「自分たちだけは困らないように、屋敷や倉庫へ集め始めます」

ジュリアンは顔をしかめた。

「止めるべきか?」

「いいえ」

答えがあまりにも早かった。

「……止めないのか?」

「止めてはいけません」

ジュリアンは黙った。

シェリィが続ける。

「誰が、どの物資を、どれだけ買うのか」

「……」

「誰の名義で倉庫を押さえるのか」

「……」

「誰が市場価格以上の金を出し、誰が裏から荷を回すのか」

ジュリアンの目が細くなる。

「記録するのか」

「はい」

「泳がせる?」

「買い占めそのものが違法でなければ、慌てて手を出す必要はございません」

シェリィは王都の地図を指した。

「物資不足になった時、人は平時より正直になります」

「正直?」

「自分が何を守りたいのかが、行動に出ますから」

ジュリアンの口元がわずかに歪んだ。

「民を守ると言っていた貴族が、自分の倉庫だけ満杯にする」

「あり得ますわね」

「なるほど」

「ですから、監視だけなさってください」

「買った者を?」

「売った者もです」

「商人もか」

「誰から頼まれて、誰へ優先的に売ったか。その情報には価値がございます」

ジュリアンは頷いた。

「分かった。買い占めは止めず、流れを追う」

「お願いいたします」

シェリィは、王都の上へ置いた木札をそのままにした。

「そして次に」

「まだあるのか」

「当然でございます」

ジュリアンが苦笑する。

「聞こう」

シェリィは、自分の前に置かれた別の木札を取った。

そこには、

《アスタリア大商会》

と書かれている。

「次は、私です」

「お前?」

「正確には、アスタリア大商会とヴァルモント公爵家です」

ジュリアンの表情が消えた。

「反逆者に仕立てるつもりか」

「その可能性が高いでしょう」

シェリィは淡々と続ける。

「追放された公爵令嬢が、王家を恨んで王都を飢えさせている」

「……」

「ヴァルモント公爵家が娘と結託し、王都への物資を止めた」

「……」

「あるいは、アスタリアが国外勢力と通じて王国を弱体化させている」

ジュリアンが鼻で息を吐いた。

「好き勝手言えるな」

「追い詰められた者ほど、分かりやすい敵を必要といたしますから」

「すぐ否定させる」

「それも、お待ちください」

「またか?」

シェリィが微笑んだ。

「誰が最初に言い始めたのか」

「……」

「誰がそれを支持するのか」

「……」

「どの新聞、どの商人、どの貴族が同じ言葉を使い始めるのか」

ジュリアンは数秒黙り、

「それも名簿になる、と」

「はい」

「本当に性格が悪いな」

「殿下ほどではございません」

「俺はまだ何も言っていないぞ」

「これからお使いになるのでしょう?」

ジュリアンは答えなかった。

否定もしなかった。

◇

「ただし」

シェリィが地図から視線を上げる。

「その宣伝だけで物資が戻ってこないと分かれば、次は政治を使います」

「政治?」

「王命です」

室内の空気が、わずかに重くなった。

ジュリアンがゆっくり椅子へ背を預ける。

「……供出命令か」

「王都非常事態を理由に、アスタリア大商会や公爵領へ物資を出させようとするでしょう」

「父上へ迫る?」

「おそらく」

「だから、さっき自由商売を要求したのか」

シェリィは小さく笑った。

「理由の1つでございます」

「最初からそこまで考えていた?」

「殿下」

シェリィが少し呆れたように言った。

「王都への供給を止めるのです」

「……」

「供給を戻そうとする動きまで考えずに、止めるとでも?」

ジュリアンが額へ手を当てた。

「分かった。聞いた俺が悪かった」

「よろしい」

「しかし、父上はそんな命令を簡単には出さない」

「存じております」

「なら問題ないだろう」

「アーサー陛下がお出しにならないからこそ、問題になるのです」

ジュリアンの手が止まった。

シェリィは続ける。

「第2王子擁立派は、国王陛下へ要求します」

「……」

「陛下が拒否なされば」

「弱腰だと言う」

「はい」

「王太子と公爵家に操られている、とでも?」

「それもあり得ます」

ジュリアンが静かに息を吐く。

「そして父上まで敵にする」

「自分たちから、です」

それは大きかった。

第2王子を王位へ就けたい。

そこまでなら、まだ王位継承を巡る政治闘争という言い訳ができる。

だが。

現国王の命令権に圧力をかけ。

国王の判断そのものを否定し。

さらに非常大権まで要求するなら。

彼ら自身が、自ら立っている場所を変えていく。

ジュリアンの目から、わずかな温度が消えた。

「……言わせておけばいいわけだな」

「殿下」

「何だ」

「楽しそうなお顔をなさらないでくださいませ」

「していない」

「しております」

「気のせいだ」

「そういうことにしておきますわ」

◇

「王命でも戻らないと分かったら?」

ジュリアンが尋ねた。

「別の商流を作ろうとなさいます」

「他領からか」

「他領、国外、小規模商会、独立商人。使えるものは何でも使うでしょう」

「そこは止めるべきだろう」

「いいえ」

ジュリアンがシェリィを見る。

「また止めないのか?」

「全面的には」

シェリィは新しい紙を取り出した。

王都を中心に、周辺領地へ伸びる街道が描かれている。

「すべての道を塞げば、第2王子擁立派が誰を頼るのか分かりません」

「……逃げ道を残す?」

「はい」

「わざと?」

「はい」

「お前、本当に追い詰める気があるのか?」

「追い詰めるからこそです」

シェリィの指が、1本の街道をなぞった。

「助けを求める相手を見たいのです」

「隠れた協力者か」

「今まで表に出ていなかった商人。地方貴族。物流業者。貸金業者」

「国外商人も」

「当然です」

ジュリアンはしばらく地図を見つめた。

「つまり、連中自身に人脈を晒させる」

「そういうことですわ」

「止めるべき荷と、止めない荷を分ける必要があるな」

「殿下がお決めになることではございません」

「……そうだったな」

ジュリアンが苦笑した。

「自由商売だった」

「はい」

「すでに使われている気がするぞ」

「気のせいですわ」

「絶対に違う」

◇

夜はさらに深くなっていた。

茶はもう冷めている。

それでも2人とも席を立たなかった。

「そして」

シェリィが静かに言った。

「商流の混乱が数日続けば、次は信用が崩れます」

「小切手の話だな」

「小切手だけではございません」

「掛けか」

「掛け売り。貸付。商会間信用。支払猶予。保証」

シェリィは指を折っていく。

「王都の商業は、現金だけでは回っておりません」

「分かっている」

「物資が入らなければ、売上が落ちます」

「その商会が支払えなくなる」

「その商会から金を受け取るはずだった別の商会も苦しくなる」

「連鎖する」

「はい」

「そして不渡り」

「ええ」

ジュリアンの視線が、先ほど目にした赤い印へ向かう。

「第2王子派へ金を出している商会も倒れる」

「全部ではございません」

「だが、弱る」

「確実に」

ジュリアンはしばらく考え、

「そうなると、派閥内部で金の取り合いになる」

シェリィの目が少し細くなった。

「その通りでございます」

「誰を救うか」

「はい」

「大物貴族の商会を助けるのか。小さな支援者を助けるのか」

「全員は救えません」

「だから切り捨てられる者が出る」

「そして」

シェリィが言った。

「切り捨てられた者は、忠誠まで失います」

ジュリアンが笑わなくなった。

「寝返るか」

「必ず何人かは」

「受け入れろと?」

「証拠を持って来る者なら」

「命乞いだけなら?」

「殿下がお決めください」

「逃げたな」

「裁くのは殿下のお仕事だと、先ほど申し上げました」

「覚えている」

ジュリアンが腕を組む。

「だが、証拠を持って来れば話は聞く」

「それで十分です」

「減刑まで約束はしない」

「当然でございます」

「自分が助かるために仲間を売る連中を、全面的に信用するつもりはない」

「私もおすすめいたしません」

シェリィは穏やかに頷いた。

「ですが、嘘をつく人間の持ってくる帳簿が嘘とは限りません」

ジュリアンの口元が少し上がる。

「それは覚えておこう」

◇

「それで終わりか?」

ジュリアンが尋ねた。

シェリィは答えなかった。

「シェリィ?」

「……いいえ」

先ほどまでより、ほんの少しだけ間が長かった。

ジュリアンがそれに気づく。

「まだあるな」

「ございます」

「何だ?」

シェリィは机の上の地図を見ず。

ジュリアン本人を見た。

「殿下です」

「俺?」

「はい」

「俺がどうした」

シェリィは真っ直ぐ答えた。

「殺しに来ます」

沈黙。

外から聞こえていた夜番の声が、やけに遠く感じられた。

ジュリアンは驚かなかった。

だが。

先ほどまでとは明らかに目が変わった。

「……そこまで行くと思うか?」

「追い詰めれば」

「俺を殺して何になる」

「殿下がいなくなれば、誰が一番得をいたします?」

ジュリアンは何も言わなかった。

言う必要がない。

第1王位継承者。

国王アーサーの長男。

第2王子擁立派の最大の障害。

「商流が戻らない」

シェリィが続ける。

「非常徴発もできない」

「……」

「協力商人も減る」

「……」

「資金源も崩れ始める」

「……」

「さらに王宮内部では、殿下が証拠を集め続けている」

「なら、俺を消す」

「最も単純な打開策です」

ジュリアンは目を閉じた。

しばらくして。

「城外で狙うか」

「最初は」

シェリィが頷く。

「殿下を城外へ誘い出せなければ、次は城内から狙います」

ジュリアンが目を開く。

シェリィは一切表情を変えずに続けた。

「毒殺。食材への混入。料理人や侍従の買収。医師や薬師への接触。偽の警備交代命令。火災を利用した混乱――考えられる手段は、先に潰しておいてくださいませ」

「……徹底しているな」

「殿下がお亡くなりになれば、ここまでの準備がすべて無意味になります」

「父上がいる」

「国王陛下お一人で、第2王子擁立派のすべてを処理なさるおつもりですか?」

「……」

「それに」

シェリィの声が少しだけ柔らかくなった。

「私は殿下に死んでいただくために、ここまでお話ししているわけではございません」

ジュリアンがシェリィを見る。

ほんの一瞬。

政治でも。

経済でも。

密約でもない。

幼い頃から互いを知る者同士の空気が流れた。

だがシェリィはすぐに戻った。

「王都へ戻られましたら、城外へ出ないでくださいませ」

「分かった」

「近衛も、人数ではなく忠誠で選んでください」

「ああ」

「殿下の食事を作る者も」

「……料理人まで?」

「当然でございます」

「王宮料理人全員を疑えと?」

「疑う必要はありません」

シェリィは静かに答える。

「信頼できる者だけを使えばよろしいのです」

ジュリアンの眉が少し動いた。

「食材もです」

「食材?」

「料理人だけ替えて安心しないでくださいませ」

「……なるほど」

「厨房へ入る前に毒を入れられれば同じです」

「医師も薬師もか」

「はい」

「侍従も」

「できる限り」

「書類を運ぶ者も?」

「殿下の居場所を知る者すべてが、潜在的な侵入経路になります」

ジュリアンが大きく息を吐いた。

「城に籠もるというより、砦を作る話になってきたな」

「王国の中枢なのですから、本来それくらいでよろしいのでは?」

「祖母上が聞いたら喜びそうだ」

「大后陛下ですか?」

「あの人は王城を要塞だと思っている節がある」

シェリィが小さく笑う。

「でしたら、殿下も少しは見習われてくださいませ」

「努力しよう」

ジュリアンはそこで、ふと何かを考えた。

「……そうか」

「何か?」

「王都へ直帰する必要はない」

シェリィが目を細める。

ジュリアンはそれ以上説明しなかった。

「寄る場所がある」

シェリィは数秒だけ考え、

「公爵領ですか?」

ジュリアンの顔が止まった。

「なぜ分かった」

「料理人と兵を同時に、王宮外から安全に用意できる場所が他にございます?」

「……本当に嫌になるな」

「何がでしょう?」

「もういい」

◇

密談が終わった頃には、日付が変わろうとしていた。

ジュリアンは再び旅装の外套を羽織る。

来た時と同じ。

王太子であることを示すものは何も身に着けない。

シェリィは裏口まで見送りに出た。

外には、紋章のない馬車が待っている。

「殿下」

ジュリアンが足を止めた。

「何だ?」

「先ほど申し上げたことを、軽くお考えにならないでくださいませ」

「暗殺か」

「はい」

「分かっている」

「本当に?」

「お前は俺を何だと思っている」

シェリィは少し考えた。

「時々、自分なら大丈夫だと考える悪癖がおありになる方」

「……誰から聞いた」

「存じ上げております」

「昔の話だ」

「人間の根本は、それほど簡単には変わりませんわ」

ジュリアンが苦笑した。

「なら約束しよう」

「何を?」

「王都へ戻ったら、すべてが終わるまで城外へ出ない」

シェリィの表情がわずかに緩む。

「お願いいたします」

「そして」

ジュリアンは馬車へ乗り込む前に振り返った。

「次に城の外へ出る時は」

少しだけ笑う。

「この件を終わらせてからだ」

シェリィは何も言わず。

深く頭を下げた。

紋章のない馬車が、夜のアスタリアを離れていった。

◇

星環暦(せいかんれき)1284年・熾火月(おきびづき)≪第5月≫15日――

ヴァルモント公爵領・公爵邸

「王太子殿下が?」

ローランド・ヴァルモント公爵は、執務机から顔を上げた。

報告に来た家令は、少し困惑している。

「はい」

「公式訪問の連絡は受けていないが」

「ございません」

「供回りは?」

「ごく少数です」

ローランドの顔から表情が消えた。

王太子が。

公式日程にもなく。

わずかな護衛だけを連れ。

突然、自分の領地へ来た。

ただ事ではない。

「どこにいる?」

「裏側の応接室へご案内しております」

「誰にも言うな」

「すでに、そのように」

「さすがだ」

ローランドは立ち上がった。

◇

同日――

ヴァルモント公爵邸・私用応接室

「ご無沙汰しております、公爵」

「その挨拶は後にしましょう、殿下」

ローランドは扉を閉めるなり言った。

「何が必要です?」

ジュリアンが少し目を見開いた。

「事情を聞かないのですか?」

「聞かせていただけるので?」

「……いや」

「でしたら、聞きません」

ローランドは向かいの椅子へ座る。

ジュリアンも腰を下ろした。

「ただし」

ローランドが言う。

「王太子が公式記録にも残さず、護衛を絞って私のところへ来た」

「……」

「しかも、おそらくアスタリア方面から」

ジュリアンは何も答えなかった。

それだけで十分だった。

ローランドは深く息を吐いた。

「シェリィに会われましたか」

返事はない。

「それも聞かないことにしましょう」

「助かります」

「それで?」

ジュリアンは一瞬だけ迷い、

「料理人を貸していただきたい」

ローランドが瞬きをした。

「料理人?」

「はい」

「……何人です?」

今度はジュリアンが驚いた。

「聞かないのですか?」

「毒でも盛られる可能性があるのでしょう」

あまりにもあっさり言われた。

ジュリアンは数秒黙った。

「それから」

「まだ?」

「兵もお借りしたい」

ローランドの目つきが変わる。

先ほどまでの父親でも。

公爵でもない。

長年、王国の中枢を支えてきた大貴族の顔。

「何人ほど?」

ジュリアンは必要人数を告げた。

ローランドは考える。

「選びます」

「公爵」

「家族まで含めて身元を確認している者だけにしましょう」

「……」

「王宮勤務経験のない者を中心にします」

ジュリアンがゆっくり頷く。

「ありがたい」

ローランドはジュリアンを見る。

「料理人は、私の家族へ出す食事を任せている者から選びます」

「そこまでしていただかなくても」

「殿下」

ローランドの声が少し低くなった。

「今さら遠慮なさらないでいただきたい」

「……」

「あなたがわざわざここへ来た。それだけで、十分な理由です」

ジュリアンは黙った。

ローランドも。

しばらくして。

「アーサーには悪いと思います」

ローランドがぽつりと言った。

ジュリアンが顔を上げる。

「父上に?」

「親友の息子を、親友にも事情を言わずに守ることになる」

ローランドは苦笑した。

「後で怒られるかもしれませんな」

「父上は怒りません」

「でしょうな」

ローランドは少し遠い目をした。

「というより」

口元が緩む。

「あいつでも、同じことをしたでしょう」

ジュリアンも小さく笑った。

「否定できません」

「でしょう?」

ほんの短い笑いだった。

だが。

次の瞬間、ローランドは再び真顔になった。

「料理人だけでは足りませんな」

ジュリアンの目が細くなる。

「と申しますと?」

「食材です」

ジュリアンは何も言わない。

「料理人をこちらから出しても、王都で仕入れた食材を使えば意味がありません」

「……」

「肉」

ローランドが指を折る。

「野菜」

「……」

「水、酒、塩、調味料」

ジュリアンが息を吐いた。

「同じことを言われました」

「誰に?」

「……それは聞かないのでは?」

ローランドが数秒黙った。

「なるほど」

それだけで理解したらしい。

「では食材もこちらから運ばせます」

「お願いいたします」

「運搬する者も公爵家の人間にしましょう」

「そこまで?」

「毒は厨房で入れるとは限りません」

ジュリアンは苦笑した。

「本当に同じことを言われた」

「シェ――」

ローランドは途中で止めた。

ジュリアンも止めなかった。

少しだけ気まずい沈黙。

「聞いておりません」

「まだ何も言っていません」

「聞いておりません」

「分かりました」

◇

その日の午後。

ヴァルモント公爵邸の裏手では、目立たない準備が始まっていた。

選ばれた料理人。

その補助。

食材を管理する者。

公爵家兵。

そして数台の荷馬車。

表向きは。

公爵家から王都へ送る通常の人員と物資。

それ以上の説明は誰にもされなかった。

ローランド自身も。

何が始まるのか、正確には知らない。

シェリィとジュリアンの密約も知らない。

王都から何が消えるのかも。

誰が狙われているのかも。

それでも。

娘のいるアスタリア方面から王太子が秘密裏にやって来て。

料理人と兵を求めた。

それだけで十分だった。

公爵邸の玄関前。

ジュリアンは再び紋章のない馬車へ乗り込む。

ローランドが見送る。

「殿下」

「はい」

「王都へ戻られたら」

ローランドはそこで少し言葉を選んだ。

「不用意に外へ出ないことです」

ジュリアンが目を丸くした。

そして。

小さく笑った。

「今日、それを言われるのは2度目です」

ローランドの眉が動く。

「そうですか」

「はい」

「でしたら」

公爵も笑った。

「素直に従ってください」

「そうします」

馬車の扉が閉まる。

公爵家の料理人。

食材。

そして信頼できる兵を伴い。

ジュリアンは王都へ向けて出発した。

馬車の窓から見えるヴァルモント公爵領の景色が、少しずつ後ろへ流れていく。

ジュリアンは座席へ深く背を預けた。

シェリィの言葉が、まだ耳に残っていた。

――殿下を城外へ誘い出せなければ、次は城内から狙います。

そして。

――王都へ戻られましたら、城外へ出ないでくださいませ。

王城へ戻れば。

もう外へは出ない。

すべてが終わるまでは。

ジュリアンは目を閉じた。

まだ。

王都の誰も知らない。

自分たちが頼りにしている物資が。

金が。

信用が。

まもなく、同時に動き始めることを。

そして。

追い詰められた者たちが何をするのかさえ。

すでに先回りして待ち構える者がいることを。

今回は、王都で混乱が始まる前の「先読み」と「準備」のお話でした。

シェリィが見ているのは、単に物資を止めた後の値上がりだけではありません。

買い占め。

責任転嫁。

非常権限。

代替物流。

信用崩壊。

派閥内部の分裂。

そして王太子暗殺。

相手が追い詰められた時、次に何を選ぶのか。

そこまで先に考えておけば、ジュリアンは敵が動いてから慌てる必要がありません。

そしてジュリアンも、助言を聞くだけでは終わりません。

王都へ戻る前にヴァルモント公爵領へ立ち寄り、密約の存在を知らないローランド公爵へ料理人と兵を求めました。

事情を聞かなくても察する父。

そして、友であるアーサー国王なら同じことをしただろうと、迷わず力を貸すローランド。

準備は整いつつあります。

次はいよいよ、ジュリアンが王都へ戻ります。

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