媚香
ヘレネとクリュタイメストラに案内され、菜穂は、二人によって開けられた大きな扉から室内へと足を踏み入れた。
二人の話によると、給仕をする女官を除き、ここからはオリオン王と二人きりになるらしい。
菜穂は、緊張しながらもゆっくり歩こうとしたのだが、部屋に入った瞬間、目に入った光景に思わずポカンと口を開いた。
そこには無駄に長いテーブルがあり、二人で食事をするには、あまりにも広い部屋だったからである。視線をテーブルの端の方へと移せば、オリオン王が椅子に腰を下ろしているのが遠くに見えた。
菜穂はテレビドラマで見た、王族の食事風景を思い出して、ヒクッと頬を引き攣らせた。
(うわーっ、まさか、このテーブルの端と端に座って食事をするの? あまりにも離れ過ぎていて、会話するのも大変じゃない!)
じっと立ち止まっている菜穂に痺れを切らせたのか、オリオン王が声をかけてきた。
「ナホ、いつまでぼーっと突っ立っている。ここからでは遠くてお前がよく見えないのだ。早くこちらへ来て、今の姿を私に見せておくれ」
オリオン王のよく通る声が耳に入ってきて、菜穂はハッと我に返り、王のいる方向とは逆のテーブルの端にちらっと視線を向けた。
(あ、何も置いていない。……てことは、この長過ぎるテーブルの端と端で食事するわけではないんだ。とりあえず、王様のとこへ行ってみた方がいいかな……?)
オリオン王の向かいにあたるテーブルの端に何も用意されていなかったため、菜穂は、自分の想像が間違っていた事に気付き、少しホッと息を吐いた。
菜穂がオリオン王に近付いていくと、王は切れ長の鋭い目を驚いた様子で見開いて息を呑んだ。
「あの……王様……?」
オリオン王の近くまで歩み寄った菜穂は、無言でいる王に首を傾げ、戸惑いつつ声をかけた。
すると、菜穂の声が聞こえたらしく、ふぅーっと軽く息を吐いたオリオン王が、菜穂に向かって笑みを零す。
「ようやく、まともな服を着たナホを見ることができた。その姿、よく似合っているぞ。とても、愛らしい……」
「そ……それは、どうも……」
オリオン王のほほ笑みと甘さを感じる眼差しに、菜穂はうっすらと頬を赤く染めて、照れた様子でもごもごとお礼を述べた。
(う……何だか、調子狂うよー。だから、その笑顔は反則なんだってば!)
じっと見つめてくるオリオン王の視線を感じて、菜穂は恥ずかしそうにうつむいた。会ったら文句をいっぱい言ってやろうと意気込んできたはずなのだが、この瞬間、すっかりその事は菜穂の頭から抜け落ちていた。
一方、オリオン王は、正装した菜穂に初めは驚いたものの、すぐにその視線が菜穂の肩にかけられているストールに向き、ゆっくりと口角を上げた。
「その虹色のストールも、お前によく似合っている。まるで、天女が私の元へ舞い降りたようだ……っと、天女ではなく、私の神子であったな……」
それは囁くような甘い声であったが、ストールという言葉に菜穂はぴくっと反応して、冷静さを取り戻す。
「なっ!? ですから、貴方の神子ではあ・り・ま・せ・ん! 誰のおかげでしたくもない、こんな派手なストールを巻いていると思うんですか……」
ヒクヒク頬を引き攣らせながら、菜穂はニッコリとオリオン王に笑いかけた。
「ん? 私のためにか? 気をつかわなくともいいぞ。既に婚約した仲ではないか……」
そんな菜穂に対して、ニヤリと笑みを深めるオリオン王。
菜穂は、王の言葉に大きく反応して、キッと怒りで目を吊り上げた。
「あれは、騙し討ちよ! 婚約なんかしていないわ」
「紅花をつけ、つけられた仲なのにか?」
「紅花……キスマークの意味なんか、私は知らなかったし、それに……いい加減、こうやってからかうのはやめてくれませんか?」
「からかう?」
「えぇ、私、知っているんですよ。王様が、女性に興味がないって! ゲイなんですよね? 男性の恋人がたくさんいるんでしょう?」
オリオン王を睨みつけ、菜穂は怒り口調でまくし立てる。
「ゲイ? あぁ、そういえば、そうだったな……」
だが、菜穂の告げた内容にもオリオン王は全く動じず、他人事のように呟くと、菜穂に向かって甘い笑みを浮かべた。
「それが、どうした? 私がゲイだと何か問題があるのか?」
「だから、女性に興味ないくせに、そういう笑顔とか、何かと私にちょっかいかけて遊ぶのをやめて欲しいんです!」
オリオン王の微笑みにやられそうになり、目元を赤らめた菜穂であったが、何とか堪えて王を睨み続ける。
「嫌だ。お前で遊ぶのはやめない。それに、確かに女には興味がないが、お前には興味がある。だから、私が何をしようが自由だろう?」
「なん!?」
菜穂は、オリオン王の自分勝手な返事に絶句した。そして、再び言い返そうとした瞬間、手首をぐいっと引っ張られ、ふらっとよろけて王の胸へ倒れ込んだ。
「きゃっ!」
慌てて菜穂は離れようとしたのだが、それをオリオン王が許さず、力では敵わないため逃げられない。ジタバタと無駄に暴れる菜穂であったが、そんな菜穂をオリオン王は軽々と受け止めていた。
そうして、いつの間にか菜穂は、椅子に腰を下ろしているオリオン王の膝の上に横向きに座る格好となってしまい、恥ずかしさのあまり見る間に顔を真っ赤に染め上げた。
「は、離して下さい!」
真っ赤な顔で菜穂がオリオン王を睨むも、王は涼しい顔つきで、菜穂の腰を抱いている手を緩めるどころか、がっちりと強く抱き締めてきた。
「ナホから私の上へ転がり込んだのだ。離すわけがなかろう? そうだ、このまま私の上で食事をするか?」
顔が近いことを良い事にオリオン王は、菜穂の耳元で低く囁く。
「……ひゃ……っ……しません! これ以上、変な噂はごめんです。早くおろして下さい!」
耳元にかかる吐息とその声にぞくっとして変な声が漏れそうになるのを必死に抑え、菜穂は心の中でぎゃあぎゃあ悲鳴をあげて、オリオン王のだだ漏れの色気と戦っていた。
(何で、この王様、無駄に色気ムンムンなのよー! こうしてくっ付いていると甘くて美味しそうな……ううん、何だかとっても良い匂いがするし……ずっとこうしていたくなるような……って、私ったら何考えているの!)
菜穂はオリオン王から漂ってくる甘い香りに一瞬うっとりと酔いしれ、力抜けたように王に寄りかかろうとしたのだが、すぐにハッと我に返ると首をぶんぶんと大きく左右に振った。
「ナホは甘い香りがするな……」
オリオン王も菜穂と同じ事を考えていたのか、突然、菜穂の首筋に顔を埋めてきた。
「……っ!?」
菜穂がビクッと驚いてかすかに身体を揺らすと、王は確かめるようにクンと菜穂の匂いを嗅ぐ。
「やはり、美味そうな……とても良い匂いだ。ずっとこうして、お前を抱き締めていたくなる……」
「えっ!?」
(何? 王様も私と同じ事、思っていたの!? うわっ、お互いに変なフェロモンでも出してるのかな? ……っていうか、私、無意識に王様を誘っているとか……? ないない、絶対にない……と思いたい……。そうよ、きっと王様が美形過ぎて理想の骨の持ち主だから、私、それに酔っちゃうのよ! あ、でも……王様が私を美味しそうっていうのは変じゃない? うーわー、もう、何が何だか分からないよー!)
菜穂は、頭の中で必死にいろいろと考えたが満足いくような答えが見つからず、結局、考える事を放棄した。
「まずい……このままでは……」
そんな中、菜穂の首筋に顔を埋めたままのオリオン王は、ぼそっと呟くとようやく顔を離す。
菜穂は、首にあたっていた温かいものが離れて、ホッとしたようなちょっと寂しいような妙な感覚を覚えた。
ふと、顔を動かしてオリオン王を見ると、王もまた、熱い眼差しで菜穂をじっと見つめていた。
視線が絡まった瞬間、菜穂はカッと体中が火照るような感じがして、両手で頬を押さえて顔を隠すように慌ててうつむく。
(何、今の!? 無償に王様にスリスリしたくなってきた……うーわー、私、これじゃあ、変態じゃないの!)
ぴったり王様に絡まって抱き着きたくなるのを必死に抑え、菜穂は、何だかもんもんする妙な感情を持て余していた。
「うー……」
悩み唸っているそんな菜穂を見つめていたオリオン王は、ふっと笑みを零す。
「やはり、ナホは愛らしい……」
オリオン王は、チュッとリップ音をたてて菜穂の額にキスをした。
「!?」
菜穂がびっくりして固まった瞬間、菜穂は、オリオン王の隣に用意されていた椅子にそっと下ろされる。
「えっ?」
菜穂は、あっさりと王の膝の上から下ろされたので、逆に、頭の中が疑問符でいっぱいになり、怪訝そうに首を傾げた。
そんな菜穂の様子を見て、オリオン王がニヤリと口角を上げる。
「何だ……もっと私の上に乗っていたかったのか?」
「ちっ……違います! ただ、あっさり離してくれたので、拍子抜けしたというか……だって、王様、私が嫌がることを喜んでするような所がありますから……」
「これ以上、くっついていたら狼になりそうだったのでな……。それとも、襲って欲しかったのか?」
「襲っ!? 誰が! 王様、このままずっと離れていて下さい。永遠にくっつかないでいいですから……」
「プッ……クククククク……」
言葉に反応して赤くなったり青くなったりと表情で雄弁に語る菜穂を眺めていた王は、堪えられない様子で噴き出すと可笑しそうに笑い出した。
「やはり、ナホは面白い……。お前といると、退屈しないですみそうだ」
菜穂は、そんなオリオン王をムッと口をへの字にして見つめていた。
「私は、おもちゃではありませんから!」
「そうだな、ただのおもちゃではない。私の大事な玩具だ」
「なっ!?」
一瞬絶句した菜穂がすかさず言い返そうとすると、オリオン王は、菜穂の唇を人差し指でそっと塞ぐ。
「ナホ、もっとお前で遊びたい所だが、そろそろ食事にしないか? 昨日、こちらに来てからずっと眠っていたのだから、空腹だろう?」
「ご飯……」
オリオン王の申し出に、菜穂は意識がお腹へと向かった。その瞬間、きゅーぐるぐるぐる……とそれは大きな腹の虫が催促するように鳴いた。
「こ……これは、そのっ……」
菜穂は、慌ててお腹を押さえながら恥ずかしさで真っ赤になる。
(何でここで素直にお腹が鳴るのよー! もう、私のバカバカ!)
「フッ……すぐに食事にするとしよう……」
オリオン王の言葉に返事をするかのように、再び菜穂の腹の虫がタイミングよくキュウッと鳴く。
楽しげに口元を緩ませたオリオン王は、この後、お腹をかかえて笑い転げることとなった。




