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核心と確信

 調査報告書と書かれた紙の束の上を、志奈の細い指先がゆっくりと滑っていく。装飾の気配が見られない柔らかな色をした爪は、鏡のようにただ光を受けては返した。

 志奈は、木製の扉で仕切られ『社長室』と木彫りのプレートで主張された部屋にいた。清潔感を全面に押し出したかのように汚れ一つ見当たらない室内は、メディアなどに取り上げられる富豪邸宅しかり強烈に視覚的な訴えをするほど絢爛けんらん豪華というわけでもないが、椅子や書斎机のような大きな物から、壁時計やちょっとした調度品のような細かな物に至るまで気が配られ、極めて良質な品々が使われていた。これが社長室という空間だけではなく、事務所全体にまで─部下の使う物まで─目を行き届かせているというから、並々ならぬ思いが込められていることがうかがい知れる。その思いの矛先でもある、座り心地の至極を目指すべく厚みをもった椅子が、静かに志奈の体重を飲み込んでいた。志奈は重心を後ろに傾けると、何もない空間にただ一人浮かんでいるような錯覚に陥った。そして夢想した。手に持った紙から文字が動き出し、映像となって頭に流れていく─。



 向と同僚の男性は生まれた時から育った環境が同じだった。彼らは大学への進学では別々の道を歩むことになり、一旦は疎遠になったが偶然にも就職した会社が同じだったこともあり、数年振りの再会を喜んだ。しかし同僚の男性はある悩みを抱えていた。それは青年期にありがちな、自分は何者で何をなすべきかと問う自己同一性の模索だった。ある文豪のいう疾風しっぷう怒濤どとうの時代が到来し、自問や葛藤を経て心を揺らした先に彼が辿たどり着いたのは、死だった。

 彼は自分自身の人生から逃避するために、向に残酷かつ自分本位な頼み事を言い渡した。

 自分を殺して欲しい、と。


 手記は彼のもので、日記のようなものを欠かさず書いていたようだが、ページも後半になると直線的ではなくかなり蛇行した文字で、「殺してくれ」と日付毎に同じ言葉が繰り返し書かれていただけだった。同じ職場でもあり近しい存在だった向は、手記に書かれるよりも高い頻度でその言葉を聞かされていたであろうことは想像に難くない。

 彼の要求を飲む以外に手立ては幾らでもあるのではないかと考えたが、どれも功を為さないものばかりだった。やがて向は一種の自己暗示のようなものに突き動かされるようになった。近しい存在であった彼を殺し、主観的に犯行対象を選別しては殺した。本人の意思などまるで存在しないものであるかのように振る舞い、自らが救世主であるという誇大な思い込みで武装した。向の目には、それしか武器がないようにしか見えなかったのである。悪魔へと変貌したのは、それが契機であるということしか分かっていないようである。

 彼の遺体は、氷で敷き詰められた棺桶のようなものが職場の倉庫で見つかり、そこから発見された。普段誰も使わないような備品の側に隠すように置かれていたため発見が遅れたようだ。近くの通りに落ちていた柄の取れた刃物から採取された血液が彼のものであることがわかり、それが凶器であったことも判明した。



「全くもって理解できないわ」

 不機嫌そうな様子で吐き捨てられた言葉が、志奈の現時点での率直な感想だった。話の筋どうこうではなく、当事者達の心情を読み取る点で理解できないというのが彼女の結論なのだろう。実際に近しい経験をしたものにしか理解できない感覚、それが言葉に奥行きを与える。志奈にとって事件の背景とやらは、報告書という紙切れに書かれた単なる文字であって、文字でしかなかった。



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