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複製と単身

 向を押さえつけていたものは、影だった。正確に言えば、影のようなものだった。おぼろげな光が、輪郭をぼかしながら三人の影を作る。琉生のそれは、作り主の身体から直接生えるような形で存在していた。あたかも四本の腕を操っているかのような姿は、人外の一語に尽きるところであった。腕の部分だけが不可思議に伸びていて、実体化した手の部分が正確かつ純粋に向の自由を奪っている。それでも彼は、なんとか拘束状態を脱しようと全力で奮闘していた。何かに怯えるように、そして何かに操られているかのように。


「死ぬのがこわいか」

 意識の奥底まで沈むような声で、琉生は足元に語りかける。答えはすぐに返ってきた。

「怖いのは、死ぬことそれ自体ではなく。・・・おのれの役割を果たせないことだ。俺は、殺さなくてはならない」

 琉生の瞳の中に違う影でも見出しながら喋っているのか、向の視線は対象を捉えながらもその実、対象を見てはいなかった。対して琉生は、対象だけに意識を集中させて、何一つ見逃さないようにと正視していた。偽りの兆候は見られず、得体の知れない恐怖だけが視線を通して伝わってきた。『悪魔』になった者は人間の抱く世俗通念のほとんどから解放される。死さえも遠ざける事ができるが、代償として一つの強い思いに縛られる事になる。右肩に刻まれたそれは、一種の強迫観念となって彼らを支配する。向の恐怖もそれに起因する物である事を琉生は判っていた。そして、それを利用することにした。

「お前に会わせなければならない人がいる。明日、同じ時間にここに来い」

 向の身体の自由を奪っていた影は、琉生が手にしていた古書が光を失くすのと同時にただの影に戻っていった。向は視線を取り戻しながらも、茫然自失と顔に書いているかのような表情で琉生を見上げていた。


「俺が逃げるとは思わないのか」

 やっとのことで向が紡ぎ出した言葉は、素朴な疑問だった。

「会わせたいのは、お前の事を一途に思いずっと捜していた人だ。お前が来れば見逃してやってもいいが」琉生は追い討つように、続けざまに突き刺さるような言葉を投げつける。「来なければ、お前をどこまでも追いかけて殺してやるよ」


 無言の対峙が続いた。思考時間というよりは、互いの探り合いの時間のようだった。真意と深意の手繰り合いでもあれば、慰事なぐさみごとと意地の張り合いでもあった。しかし二人がそれをするには、互いの情報が少なすぎた。現時点では二人の間に、片や自分を殺しに来たと言いながら誰かに会わせようとしている奇怪な者と、片や情報を集めに足を運んだ先で偶然居合わせてしまった調査対象そのもの、という認識しか存在しなかったのである─前情報がある琉生の方が相手を理解していたのは言うまでもないが─。傲慢ごうまんが渦巻く部屋で、新たに出てきた言葉にもまた傲慢が満ち満ちていた。


「言っただろ・・・俺は殺さなくてはならない、と」向の身体が下半身から霧のように分解されていく。「だから、お前も殺す」

 声が届く頃には、向は文字通り霧散していた。足元から忽然こつぜんと消えた『悪魔』を捜すこともなく、落ち着き払った様子で古書を開いた。当然の結果として受け止めているのか、それとも場慣れしているだけなのかは定かではなかったが、琉生は冷静そのものだった。部屋をヴァイオレットに染めながら、一旦は閉じられたグリモアがまた発光を始める。明るくなったことで、黒い霧が固まって人の形へと変化していく先が眞央にもわかった。

「後ろっ!琉生さん!!」

 大鎌のような右腕の尖端を、声に反応した琉生が影で受け止めた。それは今度は盾の形へと変容していた。金属音がこだまし、束の間の小康状態が訪れる。

「そんな事もできるんだな」

「お前がやってる事と同じだよ」

 均衡状態を崩したのは琉生だった。

 デザイン性を取り払い、攻撃を受け止める事だけに特化した盾が突如として陥没し、向の右腕を包み込んだ。粘土細工のように自分の影を自在に操り、いとも簡単に相手の行動を最大限に制限してしまった。右腕を包み込んだ物体から鎖が伸びて、完膚かんぷなきまでに絞めつけるべく向の身体中を走っている。

「影に触れている限り、お前は逃げられない。無駄な足掻きはしないことだ」

 向の目から抵抗の色が消えないのを見て、琉生は軽く言い放った。

 そして自分の影で釘のような物を作り出し、『悪魔』の心臓を目がけて突き刺した。


 肉体を傷つける際に、血液の類は見られなかった。鎖の隙間を通すように打たれたそれは、胸部を穿うがっただけだったが、向の意識は消え去ってしまっていた。眼球から顎、四肢そして指先に至るまで全てが重力に従うまま、少しの動きも見せることがなかった。やがて穿たれて空洞となった部位から肉体は崩れていき、後に残ったのは砂のような粉末になった残骸だった。

「傲慢には傲慢か・・・」

 なぜか悲しげにそう呟いた琉生の真意を知ってか知らずか、眞央もそれにならった。そしてふと残骸に何かが埋もれていることに気付いた。

「あれ、何ですか?」

 出てきたのは革の表紙がくしゃくしゃになってしまっている手記だった。ページをめくって中身を流し読みした後に、琉生はそれを大事そうに上着の胸ポケットへとしまい込んだ。

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