静観と秤動
『悪魔』という言葉が志奈の口から出た途端、琉生と眞央の顔に刹那的な強張りが見えた。一息いれつつも志奈はそのまま話を続けた。
「ある繁華街のカメラが偶然にも、向が自分の右肩のグリフォンの紋章をショーウィンドウで確認するような仕草をしている瞬間を捉えていたの。触れただけで彼の着ていたスーツの右肩の部分だけが消えて、そのあと同じように触れただけで元に戻ったそうよ。」
画質が悪いカメラによるその映像を見た人は大抵自分の目を疑い、どこかにトリックが隠されているのかもしれないと思うかもしれないだろう。しかし琉生にとって自身の行動を決める判断材料は、それだけで充分だった。
「傲慢の悪魔か・・・」
「彼の部屋も調べたんだけど、連続殺人の被害者らの生前の行動を監視したらしき写真が、壁じゅうにびっしりと貼ってあってね・・・。事件にも何らかの形で関係していると見て間違いなさそうね」
「連続殺人に共通する手口は、人体を貫通するほどの大型の刃物を使われていることと、殺人現場周辺に血でとられた手形が残っていたことだったよな」
「えぇ」
「依頼は向を捜すというより、処理してほしいといったところだろうな」
「そうよ」
さも当たり前かのように、処理という言葉を使う琉生からは、悪魔となってしまった彼に対する同情も温情も感じられなかった。データ上のトラブル、ただの誤差としか思っていないのかもしれない。そんな冷めた物言いを平然と受け流す志奈もまた、同様の感情しか持ち合わせていないのであろう。二人の話の顛末を聞いていた眞央だけが、自身の抱いた感情が間違いであったのかとでも問うように、行き場を求めて視線を彷徨い続けさせているように見えた。
「これが警察から横流ししてもらった事件の資料と向の部屋の鍵よ。あとは好きにやってくれていいから」
志奈は、国家機関との怪しいつながりを修飾することもなく言いのけた。むしろ殺人事件に関する情報をこれだけ詳しく知っていて、関係がないという方がおかしいという話だろう。探偵という職業自体が、その機関との何かしらの関係を持つ色が濃いのを抜きにしても、事業家と政治家系の娘の間に生まれた特異なステイタスを以ってすればその程度の人脈なら訳ないといった程だった。
説明だけしておきながらほぼ丸投げにされた品々を受け取って二人が席を立とうとした間際に、志奈がわざとらしく一言付け加えた。
「あぁそうだー、忘れてた。処理する前でも後でもいいから、ウチの依頼人に会わせてあげてね。信用問題にも関わるし、ねっ」言いながら連絡先のような物を手渡す。「色はつけておくから!」
「そういう事は先に言え!」
肝心な事を敢えて後で話すのが志奈の悪癖のうちの一つである─悪癖のうちの一つというからには、他にも持っていることは明瞭かつ明快に自明である─。琉生にとって人間の諸事解決は、悪魔との対峙より労力を使う仕事なのである。人嫌いなわけではない、というよりむしろ人嫌いではないからこそといった方が正しいだろう。
「後って・・・え・・・えっ?」
一人だけ会話に入り切れていないのは、例によって例のごとく眞央だった。そんな様子を急かすように一瞥しただけで足早に事務所を後にしようとする琉生を、彼女はまたワンテンポ遅れて追いかけていた。
「これからどうするんですか?」
眞央が話しかけた先には、事務所から帰ってきた後というもの事件の資料と睨み合いを続けている琉生がいた。相も変わらず日差しを避けるようにカーテンは少しの隙間だけを残して閉められているため、時刻が十二時に差しかかろうとしているというのに書斎は薄暗いままだった。僅かに差し込む光が、一筋の線となって部屋の一部だけを明るく照らしている。日光を避けるという特徴は、吸血鬼という種族がもつアイデンティティの一つであるらしいが、琉生自身がそうであるという事実はない。ましてや近頃十代の少女を中心に爆発的人気を誇っている吸血鬼小説に魅せられたわけでもない。単なる趣味というのが一番簡素な答えで、真意を隠すのに一番都合のいい答えである。
「向の部屋には、一番最近までの事件被害者の写真があった。つまり彼自身が部屋に定期的、ないしは不定期で出入りをしている事になる。グリモアを使えば、彼の捜索自体はすぐ済むだろう」
「志奈さんからの依頼の事を考えていたんですね」
「あぁ・・・」
本来の依頼人である作間美幸。悪魔となった恋人との対顔が果たして彼女の本意であるだろうか。身を案じての依頼であったことからして、本意でない事に疑いの余地はない。それより志奈の意図が掴めない事に、琉生は頭を悩ませていた。言葉通りであれば何も考える必要はないのだが、人間の言葉というものはそう簡単には作られていないことを琉生は重々承知していた。追究すればするほどに深みにはまる、そういう代物だと認識していた。
ふと、志奈とは仕事上の付き合いが始まったのもつい最近の事で、試されているのかもしれないという考えに行きついた。琉生は顎に親指と人差し指を添える仕草をしながら、ぼんやりと何もない天井を眺め、考えるフリをしていた。それは全く意味を成さない行動だった。琉生は、選択という名の一本道を歩いている自分の姿を夢想していた。




