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第29話 元婚約者からの指名


ハインツ魔導工業。

王都南工業区にある本社工場は、王国でも最大級の魔導具製造拠点だった。家庭用照明。暖房器。輸送設備。工場用制御装置。王都で使われる魔導具の多くに、ハインツの名がある。


その正門前で、エレナは一度だけ足を止めた。十一年間。何度も訪れた場所だった。婚約者として。


そして今日は、事故調査官として。


「エレナさん」


隣にいたミアが小声で呼ぶ。


「大丈夫ですか?」


「何が?」


「いえ、その……」


ミアは言葉を選ぶ。


「元婚約者の会社なので」


「だから来ました」


エレナは身分証を取り出す。


「利益相反の確認は局長と済ませています」


「そういう意味じゃなくて」


「なら問題ありません」


正門を通る。工場の一角は停止していた。事故が起きたのは、第三製造棟。大型魔導制御器の組立ライン。通常は一日に百台近くを生産する。今は機械音がない。従業員も少ない。


「クロフォード調査官」


声に振り返る。ヴィクトル・ハインツが立っていた。事故の夜以来だった。濃紺の上着。いつも通り整っている。だが目の下には、わずかに疲労が見える。


「ハインツ様」


エレナは仕事上の礼を取る。一瞬。ヴィクトルの表情が止まった。以前なら。ヴィクトル。そう呼んでいた。


「……その呼び方になるんだな」


「調査中ですので」


「そうか」


それ以上、彼は言わなかった。ミアが二人を交互に見る。エレナは気づかないふりをした。


「事故の概要をお願いします」


ヴィクトルの表情が仕事のものへ変わる。


「昨日、午後三時十二分。第三製造棟の自動搬送ラインが突然最大出力へ移行した」


「作業員の操作は?」


「していない」


「停止装置は?」


「押した。だが停止まで十四秒かかった」


十四秒。工場設備としては長い。


「負傷者は?」


「一名。腕を骨折した。命に別状はない」


「設備の損傷は?」


「搬送器三台。制御盤一基。組立台二台」


「火災は?」


「なし」


エレナは記録する。


「なぜ私を指名したんですか?」


ミアが僅かに顔を上げる。ヴィクトルは少しだけ黙った。


「事故調査局に担当者を指定する権限はないと聞いている」


「ありません」


「だから正式には、君を希望しただけだ」


「理由を聞いています」


ヴィクトルは工場の奥を見る。


「今、王都で起きている事故を調べているだろう」


エレナの手が止まる。


「どこまで把握しています?」


「公表されている範囲だ」


「ARCANAのことは?」


「知っている」


ミアの表情が変わる。エレナはヴィクトルを見る。


「なぜ?」


「事故設備に入っていた」


工場内部へ案内される。壊れた制御盤。その外装はハインツ製。だが内部には、複数の古い交換部品が使われていた。グレンがすでに分解を始めている。


「これだ」


小さな制御補助器。刻印。ARCANA。


「いつ交換した部品です?」


エレナが尋ねる。工場の設備責任者が答える。


「七年前です」


「新品ではない?」


「中古再生品です」


「なぜARCANAを?」


「同規格の部品が必要でした。現行品へ完全交換するにはライン全体の改修が必要で」


「再生部品の使用は珍しい?」


「いいえ」


その言葉に、エレナの視線が止まる。


「どの程度?」


責任者がヴィクトルを見る。ヴィクトルが答えた。


「かなり多い」


「ハインツ工場だけですか?」


「違う」


ヴィクトルは淡々と続ける。


「王国中だ」


ミアが息を呑む。


「ARCANAは倒産後、部品在庫が大量に市場へ流れた。規格が広く普及していたから、修理用として二十年近く使われ続けている」


エレナはARCANA部品を見る。王宮。新築邸宅。郵便馬車。魔法学院。なぜ、あちこちに存在するのか。その答えの一部が出た。


「流通量は?」


「正確な数字はない」


「推定は?」


「数万点」


ミアが小さく声を漏らす。


「そんなに……」


エレナはヴィクトルを見る。


「なぜ今まで問題にならなかったんです?」


「それを君に調べてほしい」


「会社側で原因調査は?」


「している」


「結果は?」


「ARCANA部品の破損はない」


エレナの眉が動く。


「正常?」


「少なくとも外観と基礎試験では」


また。同じだった。事故現場にARCANAがある。だがARCANAそのものが壊れているわけではない。


「ヴィクトル」


口にしてから。一瞬だけ空気が変わった。仕事中、呼び方を戻すつもりはなかった。だが問いが先に出た。ヴィクトルも気づいたようだったが、何も言わない。


「この事故で、ハインツ側に重大な設計問題が見つかる可能性があります」


「分かっている」


「製品回収になる可能性も」


「分かっている」


「操業停止も」


「それも分かっている」


エレナは彼を見る。


「それでも、私に調べろと?」


ヴィクトルは即答しなかった。工場の向こう。停止した生産ラインを見る。数百人の従業員。取引先。王都中へ供給される魔導具。会社が止まれば影響は大きい。


「会社を守る方法なら、事故を小さく扱う方が簡単かもしれない」


ヴィクトルが言う。


「でも」


エレナは待つ。


「会社を守るために事故原因を隠したら」


ヴィクトルの声は低かった。


「次に死ぬ人間を、会社が殺したのと同じだ」


ミアが黙る。エレナも数秒、何も言わなかった。


十一年間。彼を知っているつもりだった。数字に強い。責任感がある。会社を最優先する。だからこそ、エレナに仕事を辞めてほしいと言った。それは変わっていない。


ただ、会社を守るという言葉の意味は。エレナが考えていたより、少し違ったのかもしれない。


「分かりました」


調査鞄を開く。


「事故原因を調べます」


ヴィクトルが頷く。


「頼む」


エレナは制御盤へ向かう。


手袋を外す。残響視。事故から一日。まだ痕跡は濃い。通常の魔力。搬送命令。速度制御。その途中。一瞬だけ。異常な周期。王宮のシャンデリアとは違う。郵便馬車とも違う。だが、何かが似ている。


「セオ」


「見えました?」


「弱い周期残響があります」


「ARCANA部品から?」


エレナは首を振る。


「断定できません」


制御盤全体を見る。そして一つ気づく。事故直前、出力が上がる前に古いARCANA部品を通過した魔力が、ほんの僅かに揺れている。破損ではない。異常動作とも言い切れない。ただ、二十年前には存在しなかったほど高い出力の魔力が、その部品を通っている。


「ヴィクトル」


「何だ」


「この工場の魔力源を最後に更新したのは?」


設備責任者が資料を確認する。


「二年前です」


「出力は以前のものと比べて?」


「約一・七倍」


エレナはARCANA部品を見る。


二十年以上前に作られた部品。当時とは違う魔力源。王宮も、郵便馬車も。新しい高出力魔力源が使われていた。だが、まだつながらない。学院事故では、ARCANA部品は安全装置だった。新築邸宅でも直接原因ではない。


「エレナさん」


ミアが尋ねる。


「また新しい魔力源とARCANAですか?」


「そう見えます」


「じゃあ、やっぱり原因は――」


「まだです」


エレナは即座に止めた。


「もしARCANA製部品と新型魔力源の組み合わせが本質的に危険なら」


工場内を見回す。


「もっと早く、もっと大量に事故が起きているはずです」


数万点。二十年間。なのに、表面化している事故は、今になって増えている。


「そこが合いません」


エレナは記録紙に一行だけ書いた。


ARCANA製旧部品。現代型高出力魔力源。共通。ただし因果関係、不明。


「まず、この部品が本当に異常なのか確認します」


グレンが顔を上げる。


「外すか?」


「はい」


「壊す試験も?」


「必要なら」


ヴィクトルが答えた。


「好きにしてくれ」


エレナが見る。


「貴重な部品ですよ」


「事故原因より貴重な部品はない」


即答だった。エレナは少しだけ目を細める。


「では遠慮なく」


取り外されたARCANA製補助器が、証拠箱へ入れられる。


封印。記録。その小さな部品が、次の調査でエレナたちが積み上げてきた仮説を、一度すべて壊すことになるとは、この時点では、まだ誰も知らなかった。


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