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第9話 『接触』


 夕暮れの雑踏の中、朝比奈英希の落ち着いた声が、無線機を通じて静かに響いた。

「こちら朝比奈。保護対象、視界内にて確認しました」

 胸元の無線機から、即座に冷徹な返答が戻ってくる。

『了解。現在位置を送信しろ。付近を警邏中けいらちゅうの統理班へ応援を要請する。即座に包囲網を構築せよ』

 英希は、人混みの向こう側に立つ青年——来栖憂から、片時も目を離さなかった。帽子を深く被り、必死に肩で息をしている姿は、一週間前にあの路地裏で遭遇した時よりも、明らかにやつれ、憔悴しきっている。彼は今にも壊れそうなほど、張り詰めた糸のような危うさを漂わせていた。

 英希は数秒だけ沈黙し、何かを深く思案した。そして、意を決したように小さく息を吸い込み、無線へ口を開く。

「……いえ。統理班の要請は取り消してください」

『朝比奈?何を言っている』

「自分一人で接触を試みます。……これ以上の増員は不要です」

 無線の向こうが一瞬、驚きで静まり返った。

『理由を述べよ。対象は極めて危険な特異能力者だぞ』

 英希は、逃げ場を探してキョロキョロと視線を彷徨わせる憂の姿をじっと見つめながら、静かに答えた。

「対象は前回接触時、極度の混乱状態に陥っていました。複数人での包囲は、対象を過剰に刺激し、再び能力を暴発させる恐れがあります。現状、対象からこちらに対する明確な敵意は確認できていません。ここは対話の時間を優先させるべきです」

 再び短い沈黙。やがて無線の向こうから、深い溜息混じりの声が返ってきた。

『……分かった。お前の判断を信じよう。だが、油断するな。十分注意しろ』

「了解しました」

 無線が切れる。英希は周囲の騒音から意識を切り離し、静かに一歩を踏み出した。

     

 一方、来栖憂は遠くから男の動きを注視していた。制服姿、無線機、そしてどこか事務的でありながらも研ぎ澄まされたその態度。憂にとって、その男は今の自分を地獄へと引きずり込む「執行人」そのものだった。

「……また、あいつだ。仲間を呼んでるのか……!」

 全身から血の気が引く。心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴り響き、もう逃げ場はないという絶望感が視界を真っ暗に塗りつぶす。そう思った瞬間、憂の身体は本能的な恐怖に支配され、勝手に動き出していた。

「——っ!」

 憂は踵を返し、夕方の混雑する人波へと飛び込んだ。

「待ってくれ!」

 背後から朝比奈の声が飛ぶ。しかし憂は振り返らない。

「話だけでも聞いてくれ! 傷つけるつもりはない!」

「来るな!近づくなよ!」

 憂は叫び返し、群衆をかき分けながら必死に走った。買い物客、部活帰りの学生、仕事終わりの会社員たち。夕暮れの繁華街は、逃げる憂にとって迷路であり、追いかける英希にとっては壁だった。

「頼む、立ち止まってくれ!」

「嘘だ!捕まえて、どこかへ連れていくんだろ!」

「違う!話を聞きたいだけなんだ!」

「そんなの、信じられるわけないだろ!」

 憂の悲鳴に近い声が、街の喧騒に虚しく吸い込まれていく。なぜ自分だけがこんな目に遭うのか、なぜ自分だけがこの呪われた力を抱えてしまったのか。行き場のない怒りと恐怖が、憂の喉を焼き尽くしていた。

     

 憂は角を勢いよく曲がった。その瞬間だった。

「わぁっ!」

 幼い声。幼稚園児くらいの小さな男の子が、母親の手を離して急に飛び出してきたのだ。

「っ……!」

 避けきれない。そのまま突っ込めば、男の子をなぎ倒してしまう。その瞬間、憂の右手の指先から、嫌な予感を孕んだ黒い粒子が滲み出た。能力が意志とは無関係に暴発しかけている。

「まずい……っ!」

 このままぶつかれば、あの子を腐らせてしまう。あの子の未来を、自分のせいで台無しにしてしまう。憂は反射的に全身を捻り、自分から地面へ飛び込んだ。

 硬いアスファルトに肩から叩きつけられる。激痛が走り、長袖シャツの袖が裂けて皮膚から血が滲む。

「おにいちゃん!」

 男の子が驚いた様子で駆け寄ろうとする。

「ダメよ!」

 母親が慌てて男の子の腕を強く引き寄せ、背後に隠した。

「大丈夫ですか!?」

 英希が角を曲がり、その様子を息を呑んで見ていた。憂は痛みに顔を歪めながらも、男の子が母親に守られているのを確認すると、わずかに安堵したように小さく笑った。

「……平気……です。ごめん……なさい」

 それだけ言い残すと、憂は血の滲む腕を押さえながら、ふらつく足で再び立ち上がり、走り出した。

     

 少し遅れて角を曲がった朝比奈は、その一部始終を呆然と目撃していた。

 地面に残る生々しい擦り傷。心配そうに遠ざかる親子。そして、再び痛みを堪えて逃げていく来栖の背中。

「あの人……今の、わざと転んだのか?」

 英希は立ち止まる。もし本当に、周囲を破滅させるほど危険で無慈悲な能力者なら、あんな咄嗟の場面で自分を犠牲にするはずがない。迷わずあの子を突き飛ばし、足掛かりにしてでも逃げていたはずだ。

 だが、来栖は違った。能力が漏れることを何よりも恐れ、自分から死に近い衝撃を選んだ。あの刹那の判断に、彼の中に眠る「人としての良心」を、英希は確かに見た気がした。

「……なぜ、こんな人があんな能力を」

 英希は立ち止まった。

息を整えながら、逃げていく保護対象の背中を見つめる。

——これが、本当に俺のなりたかった姿なのか。

能力の有無に限らず人々を救い、誰かの笑顔を守る。

そんな「英雄」に憧れて、この特災府へ入ったはずだった。

なのに今、自分が追い詰めている相手は、誰かを傷付けることを望む人間には見えなかった。

ただ、怯えながら逃げ続ける、一人の青年だった。

俺は今、あの人を救おうとしているのか。

それとも——追い詰めているだけなのか。

 胸の奥で、確固たるはずだった「正義」が、微かに揺らぐのを感じる。それでも、追わなければならない。彼を、そして街を守るために。

     

 憂は細い路地へと飛び込んだ。体力はもう限界を超えていた。呼吸は乱れ、視界の端が白く飛んでいる。

「はぁっ……はぁっ……もう、無理だ……」

 壁へ肩をぶつけ、そのまま背中を預けるようにして崩れ落ちた。震えが止まらない。涙が視界を滲ませる。もう走れない。どこへ行こうと、自分はただの呪いのような存在でしかないのだ。

 数秒後、路地の入り口に朝比奈が姿を現した。しかし、以前のように急激な距離を詰めることはしなかった。二人の距離は、五メートル。

「……頼む。話だけでも聞いてくれ」

 英希の声には、先ほどまでの「任務」のような響きはなく、一人の人間としての必死さが込められていた。

 憂は何も答えない。ただ壁にもたれたまま、肩を震わせて呼吸を整えている。濡れた瞳で朝比奈を見つめるその眼差しには、恐怖と、そしてわずかな困惑が宿っていた。

 夕暮れの路地裏。二人の間にあるのは、物理的な距離ではなく、あまりにも深い、埋めがたい断絶だった。

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