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第8話 『副官』


 部屋の中には、壁に掛けられた時計の秒針が刻む、乾いた音だけが響いていた。

 カチ……カチ……カチ……。

 その規則的なリズムが、今の瀬崎柊弥にとっては拷問のように感じられた。彼は微動だにすることもできず、ただ目の前に立つ奇妙な男を凝視していた。

 男は一切動かない。右手を胸元へピタリと添え、深く敬礼した姿勢のまま、まるで時間の止まった石像のように立ち尽くしている。

 三十秒、一分、二分……。

 無機質な時間がただ過ぎ去っていく。男は瞬き一つせず、胸が上下するような呼吸の気配さえ感じさせない。その存在そのものが、この部屋の日常から完全に乖離しているようだった。

「…………っ」

 柊弥は乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。彼は恐怖を必死に押し殺しながら、恐る恐る一歩だけ前へ出た。男は動かない。もう一歩、近寄ってみる。それでも、男はただひたすらに敬礼の姿勢を崩さない。

「……おい、聞こえてるんだろ?」

 小さな声が、空虚な部屋に吸い込まれた。返事はない。沈黙が重くのしかかる。柊弥は勇気を振り絞り、男の顔を覗き込もうと近づいた。しかし、男の顔は深い影に覆われ、目も鼻も口も、人間の形すらも判別できない。そこにあるのは、ただの「影」だった。

「なんなんだ、お前は……」

 震える指先を伸ばし、男の肩へ触れようとする。指先が触れた瞬間、柊弥は思わず悲鳴を上げそうになって手を引っ込めた。

「っ……!」

 冷たい。あまりにも冷たすぎた。人肌の温もりなど微塵もない。まるで、冬の山奥で何日も放置された遺体に触れたような、死の匂いを孕んだ異様な冷たさだった。

「なんなんだよ、お前……! 俺に何の用だ!」

 問いかけても無駄なのは分かっている。逃げるべきか、警察を呼ぶべきか。いや、それ以前にこの異常事態を誰に信じてもらえるというのか。思考は堂々巡りし、恐怖だけが濁流のように膨れ上がる。

 意を決して、柊弥は男の胸を両手で強く突き飛ばした。

「どけよ!」

 男の体躯は揺らぐはず——そう思った直後、男は静かに、滑らかに一歩だけ後退した。身体は一切崩れない。突き飛ばした反動を完全に殺し、まるで最初からそうする予定だったかのように、何事もなかったかのように再び右手を胸元へ添え、厳かに敬礼を捧げた。

「…………もう、いい。勝手にしろよ」

 柊弥は力なく肩を落とし、ソファに深く沈み込んだ。

「……どっか行ってくれ」

 何気なく、ただ追い払うために漏らした言葉。すると、男は初めてその敬礼を解いた。踵を返し、一言も発さずに廊下へと歩き出す。そして、そのまま暗闇の中へ吸い込まれるようにして消えていった。

「帰ったのか……?」

 静まり返る部屋。柊弥は恐る恐る廊下へ出た。暗い玄関、トイレ、洗面所。どこを調べても、男の姿はどこにもない。

「なんだったんだ……あれは……」

 極度の緊張から解放され、強烈な疲労が押し寄せる。柊弥は着替えもせず、そのままベッドへ倒れ込むようにして、深い眠りへと落ちていった。

     

 翌朝。目覚まし時計の耳障りな音で強制的に意識を現実に引き戻される。柊弥は大きく欠伸をしながら上半身を起こし、ぼんやりと部屋の隅を見渡した。

「……あ」

 思考が、一瞬で凍りついた。

 部屋の隅に昨日と同じ場所。黒い軍服を纏い、外套を翻した男が、またそこに立っていたのだ。そして変わらず、静かに敬礼を続けている。

「えぇ……っ!?」

 あまりのことに思考が停止し、声が裏返る。

「いやいや、おい!どこか行ったんじゃなかったのかよ!」

 返事はない。ただ、黙々と敬礼を続けるだけだ。柊弥は頭を抱え、ベッドの上でうずくまった。この奇妙な同居人は、彼が何を言おうとも消える気配すらないようだった。

     

 その日は休日だった。昨日から何も喉を通していなかった柊弥は、空腹に耐えかねて重い腰を上げた。

「……腹減った。簡単なものでいいか」

 冷蔵庫から野菜を取り出し、包丁の柄を握る。その瞬間だった。

 ガシッ!

「えっ!?」

 右手首が強力な力で掴まれた。いつの間にか隣に移動していた男が、包丁へ伸びた手を静止させている。冷たい鉄のような握力だった。

「……離してくれ。料理をするだけだろ」

 男は動かない。ただ、真剣な眼差しで包丁を見つめている。

 その無言の圧力に、柊弥はハッとした。「危ない」と伝えているのか。包丁を持つな、と。

「……分かったよ。危ないって言いたいんだろ」

 柊弥が包丁から手を離すと、男は静かに手を放した。

 その時、玄関のインターホンが鳴った。

「宅配か?」

 柊弥が玄関へ向かおうとすると、男が一歩だけ早く移動し、玄関の前で柊弥の進路を塞いだ。

「どいてくれ、出るから」

 男は無表情に、一歩だけ横へスライドし、進路を空けた。

 宅配便を受け取って部屋へ戻ると、男は元の位置へ戻り、何事もなかったかのように敬礼を再開していた。

     

 昼になっても、夕方になっても、男は影のように寄り添い続けた。

 テレビを見ていても、コーヒーを淹れていても、洗濯物を干していても。男は一定の距離を保ちながら、柊弥の一挙手一投足を見守っている。

 何度目かの溜息を吐きながら、柊弥はソファの近くにいる男の影に向かって話しかけた。

「お前……一体、何者なんだよ。なんで俺に付きまとうんだ」

 男は喋らないし表情も見えない。だが、柊弥が少しでも危険な動きをすると察知し、先回りして制止する。それ以外は、ただ静かに付き従うだけ。

 その姿は、かつて歴史書で読んだ、君主を守るために全ての感情を捨てた「軍人」のようだった。柊弥はふと、その徹底した忠誠心に苦笑を漏らす。

「……まるで、副官みたいな奴だな。俺の影武者か何かか?」

 その言葉にも、男は一切反応を示さない。

 しかし、柊弥が「副官」と呼んだ瞬間、男は一度だけ敬礼を解き、柊弥に向けて深く、かつてないほど厳粛に、一礼を捧げた。

 それ以上は何もしない。ただ静かに、再び敬礼の姿勢へ戻る。

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