第7話 『戦火』
翌朝。カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日が、瀬崎柊弥の網膜を静かに叩いた。
「……ん。」
柊弥は重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。身体を起こして真っ先に感じたのは、驚くほど軽やかな感覚だった。昨夜まで全身を苛み、意識を混濁させていた地獄のような高熱が、まるで嘘だったかのように綺麗に引いている。
枕元に転がっていた体温計を手に取り、スイッチを入れた。昨日、39度を超えていた数値は、もはや影も形もない。
「……少し重い風邪か。にしても、治るのが早すぎるな」
柊弥は苦笑しながらベッドから降りた。しかし、心のどこかに妙な引っ掛かりがある。昨夜見た、あまりにも鮮明な夢だ。燃え盛る街の熱気、鳴り止まない銃声の轟音、誰かの断末魔の叫び、そして鼻腔を突き刺すような生々しい血の臭い。
あれはただの悪夢だったのだろうか。それにしては、あまりにも感触がリアルすぎた。まるで、自分がつい数分前までその戦場にいたかのような——。
「……まあ、いいか。ただの夢だ」
柊弥は自分に言い聞かせるように呟き、洗面所へ向かった。鏡に映る自分は、昨日と変わらない。どこにでもいる二十一歳の、平凡な青年の姿だった。
職場へ着くなり、柊弥はいつものように明るい声で挨拶をした。
「おはようございます!」
「お、おはよう瀬崎。あれ、昨日休みだったけど、もう体調大丈夫なのか?」
直属の上司が心配そうに眉を寄せる。柊弥は小さく頷き、爽やかな笑みを浮かべた。
「はい、お気遣いありがとうございます! 朝起きたら熱もすっかり下がっていたので。もう大丈夫です」
「そうか? 無理はするなよ。最近は変な感染症も流行ってるみたいだしな」
「はい、気を付けます。ありがとうございます!」
周囲からの信頼は厚かった。若手ながらも丁寧な仕事ぶりで、誰よりも周囲をよく見て動く。新人が困っていればすぐに駆けつけ、誰かの残業には自然と手を貸す。そんな柊弥の存在は、職場にとってなくてはならないものだった。
午前中、書類の山を片付けていると、奥から上司の声が掛かる。
「瀬崎、悪いんだけどこの資料、午後イチまでにまとめておいてくれるか?」
「分かりました。すぐ取り掛かります」
「すまん、助かるよ」
「いえ、大丈夫です!」
笑顔で資料を受け取った、その時だった。
——パンッ。
耳元で、火薬が弾けるような乾いた破裂音が鳴り響いた。
「……っ!」
柊弥は心臓が跳ね上がるのを感じ、反射的に音のした方向へ振り返る。しかし、そこにはオフィスが広がっているだけで、誰もいない。
「どうした瀬崎? また顔色が悪いぞ」
「……いえ、なんでもありません。空耳です」
気のせいだ。そう自分に言い聞かせて仕事に戻る。だが、数分もしないうちに、またしても。
——ダァンッ。
今度は、もっと遠くから響く、重厚な銃声だった。柊弥は思わず窓の外を凝視する。そこには平和な街並みがあり、車が走り、人々が日常を謳歌している。
「……疲れてるのか、俺。こんな音、聞こえるはずないのに」
彼は小さく溜息をつき、震える指先を制するように握りしめた。
仕事を終え、夕暮れ時の街を歩く。スーパーで惣菜を買って帰宅し、重い玄関の鍵を閉めると、柊弥はそのままソファへ崩れ落ちた。
テレビをつけると、ニュース速報のテロップが流れていた。
『本日午後、都内で能力犯罪が発生。特災府が出動中――』
画面の中でビルが崩壊する映像を、柊弥はぼんやりと見つめる。
「能力者か……」
昨日までは、自分とは別の世界の、物語のような存在だと思っていた。しかし、今朝のあの目覚めと、夢の残響が、その境界線を曖昧にしている気がしてならない。
シャワーを浴びて心身を落ち着かせた柊弥は、ソファで静かに右手を眺めていた。昔テレビで見た能力者の特集を思い出す。能力はイメージするだけで使えると——。
「能力者になるなんて、そんな都合のいい話あるわけないか」
自嘲して立ち上がろうとした、その時だった。
カツン。
部屋の奥から、硬質な靴音が響いた。
「……?」
誰もいないはずの自室だ。柊弥は心臓を早鐘のように鳴らしながら振り返る。しかし、部屋は暗く、影が揺れるだけだ。聞き間違いか。そう納得しようとした矢先。
カツン。
カツン。
一定のペースで、確実に「こちら」へ近づいてくる。柊弥の鼓動が耳の奥で激しく鳴る。
「……誰だ。誰かいるのか?」
返事はない。ゆっくりと廊下の方へ視線を向けると、影の中から一人の「男」が姿を現した。
黒い軍服を纏い、肩には長い外套。胸元には、見たこともないような複雑な階級章が鈍く光っている。男の顔は深い影に覆われ、表情を読み取ることはできない。柊弥は恐怖で一歩、また一歩と後退した。
「……お前、誰だ。どうやって入った」
男は何も答えない。ただ、ゆっくりとした足取りで柊弥の目の前まで歩み寄る。その足音だけが、静寂に包まれた部屋に、まるで戦場のように響き渡る。
柊弥は逃げ出そうとした。だが、足が地面に縫い付けられたように動かない。恐怖以上に、男から放たれる圧倒的な「何か」が、彼の身体を金縛りにしていた。
男は柊弥の目の前でぴたりと止まる。
そして、静かに右手を持ち上げ、胸元へ添えた。
柊弥を見据えることはない。ただ、背筋をピンと伸ばし、かつての軍人のように、あるいは忠誠を誓う騎士のように。
男は一度だけ、柊弥に向かって深く敬礼をした。
「…………っ」
声は出ない。部屋には重苦しい沈黙だけが支配している。
男は何も語らず、深く敬礼した姿勢のまま、微動だにせず、ただ立ち尽くしていた。互いの視線が交差する。その瞬間、柊弥の脳内に、再びあの「燃え盛る戦場」の光景が鮮明に蘇った。
部屋には、時計の針が時を刻む音だけが静かに響いていた。




