第6話 『孤独』
それから一週間。来栖憂の生活は、外部との一切の接触を断つ「隔離」そのものとなっていた。
一度も大学へは足を運んでいない。カーテンは隙間なく閉ざされ、昼と夜の区別すら曖昧になったワンルームマンションには、重苦しい静寂と、有機物が発する腐敗臭だけが充満していた。
枕元に投げ出されたままのスマートフォンの画面が、何度も何度も点滅を繰り返す。画面の中には、憂の心を締め付ける通知が並んでいた。
『平田 日向』
『おい、来栖。大丈夫か? 一週間も休むなんてお前らしくないぞ。課題も溜まってるし、何かあったなら返事だけでもくれ』
通知はそれだけではない。リストの最上部には、もっと重い言葉が並んでいる。
『母』
『憂、大丈夫なの? ここ数日、連絡がないなんて普通じゃないわ。何かあったなら、お母さんに話して……電話くらい出てちょうだい』
憂は布団の中で身を縮め、画面を見つめることしかできない。指先は石のように固まり、動かすことさえ許されない。
返信はしたい。平田の心配に答えたいし、母の不安を取り除きたい。自分がどれほど親不孝なことをしているのかも、痛いほど理解している。それでも、指を動かして「大丈夫」と打つことさえ、今の自分にはあまりにも重すぎる罪のように感じられた。
「……無理だよ。何もかも、もう手遅れなんだ」
小さく呟き、憂はスマートフォンを布団の奥深くへ放り投げた。
テレビも点けていない。ニュースを見るのが、何よりも怖かった。もし、自分の身に起きた異変がすでに社会問題として報道されていたら?もし、自分の指先から溢れ出した腐敗が、どこかで大きな被害を生んでいたら? そんな想像ばかりが思考を支配し、リモコンに手を伸ばす勇気さえ奪っていく。
静まり返った暗い部屋で、憂はふらつく足取りで立ち上がった。テーブルの上には、無残に並んだペットボトルがある。どれも中身の水は黒く濁り、底には得体の知れない泥のような沈殿物が溜まっていた。
「……またか。これじゃ、喉も潤せない」
新しいコップへ水道水を注ぐ。しかし、コップを置いてからほんの数秒のことだった。透明だった水面に、小さな黒い斑点がポツリと現れ、それがまるで生き物のように広がっていく。やがて濁りは全体を侵食し、鼻を刺す強烈な腐敗臭が部屋へ充満した。
「くそっ……どうして……っ!」
憂はたまらずコップを流し台へ放り込み、蛇口を全開にして水を流し続けた。しかし、それだけでは終わらない。テーブルに置いていたパンには急速に青白いカビが広がり、昨日買ってきたばかりのリンゴは黒ずんで崩れていく。窓際の観葉植物でさえ、葉先から茶色く変色し、まるで命を吸い取られたかのように静かに垂れ下がっていた。
能力は、止まることを知らなかった。昨日よりも今日。今日よりも明日。自分の制御など無関係に、周囲の生を侵食していく。
「……もう、ここにもいられない」
壁にもたれ掛かり、憂は肩を震わせた。このままでは、家そのものが腐ってしまう。自分が生きているだけで、何かが壊れていく。その恐怖が、日に日に巨大な怪物となって自分を押し潰そうとしていた。
一方その頃。朝比奈英希は、制服の襟元を正しながら、新宿駅周辺を慎重に歩いていた。
耳と胸元には通信用の小型無線機、腰には特災府から支給された制圧装備。そして、常に周囲の気配を読み取るための「索敵」を静かに展開している。
街は、いつも通りの光景だ。屈託なく笑い合う学生、足早に横断歩道を渡る会社員、母親の手を引いて楽しそうに歩く子供。平和な東京の営み。その中に、自分だけが追い続けなければならない一人の青年がいる。
「総監長が『最優先保護対象』と指定した人物…か」
英希は人混みを歩きながら、小さく溜息をついた。昨日の会議での幹部たちの冷徹な言葉が、今も耳から離れない。彼らは「処分」という言葉さえ口にしていた。それでも、総監長が保護を選んだ意味が、英希にはまだ分からなかった。
「あんなに危険な能力を…なんで……」
答えは分からない。だが、相沢隊長のあの複雑な表情を思い出すと、ここには単なる能力者保護以上の、何か深い事情が隠されているのだと直感した。英希は雑踏へ視線を向け、目を凝らす。
「見つけたら、ちゃんと話そう。力ずくで捕まえるなんて、そんなことはしたくない」
まずは対話だ。彼の事情を聞き、特災府へ来てもらう。それが自分の任務であり、彼を救うための第一歩だと信じて。
夕方。憂は帽子を深く被り、マスクで顔の半分を隠して近所のスーパーへ忍び込んだ。冷蔵庫は一週間近く空っぽで、喉の渇きと空腹にはもう限界だった。
誰とも目を合わせない。誰にも触れない。そう心に刻み、人混みを避けるようにカゴへ商品を入れていく。水、パン、カップ麺。最低限の食料だけ。早く、早くここを出るんだ。
セルフレジは混んでいた。憂は空いている有人レジを選び、商品は台の上へ置いた。その時だった。
「……あれ?お客様、これ」
店員の女性が困惑したように首を傾げた。憂がカゴから出したレタスの葉先が、店員の目の前でみるみるうちに黒く変色し、泥のように溶けていく。隣に置いたイチゴも、瞬く間に白いカビに覆われた。
「え……?」
憂の顔から血の気が引き、意識が途切れた。能力が、漏れてしまった。周囲の客たちが異変に気づき、ざわめき始める。
「なんか、変な匂いしない?」
「え、何あのレタス……腐ってるの?」
視線が突き刺さる。憂は何も言えず、その場から逃げるように駆け出した。
「ちょっ、お客様!お会計がまだ……!」
呼び止める声も耳へ入らない。憂はスーパーを飛び出し、夕暮れの街を、呼吸が裂けるほどの速度で走り続けた。
その頃、スーパーから数百メートル離れた歩道を歩いていた朝比奈英希が、ふと足を止めた。
「……!」
脳内で警報が鳴るような感覚。昨日の路地裏で感じた、あの湿り気を帯びた異質な反応。英希はゆっくりと振り返る。人混みの向こう側、息を切らし、帽子を目深に被った青年が、こちらを凝視していた。
「いた……!」
憂もまた、自分の背後にいる男の正体に気づき、動きを止めた。人混みの中で二人の視線が交差する。重い沈黙。英希は飛びかからず、冷静に耳元の無線機へ手をかけた。
「こちら朝比奈。保護対象、視界内にて確認しました」
——数日前、少し離れた場所で。
見知らぬ青年が、闇の中で苦しそうに寝返りを打っていた。全身から吹き出す嫌な脂汗。肩で大きく息をし、何かから逃げるように身体を揺らしている。
「あ……あぁっ……!」
彼は夢を見ていた。燃え上がる街、空を裂くような爆発音、耳を塞いでも鳴り止まない銃声。赤く染まった大地と、誰かの最期の悲鳴。
「——ッ!!」
青年は弾かれたように上半身を起こした。冷たい自室の空気が肌を刺す。周囲を見回しても、そこには静寂だけがある。
「……なんだ。今の夢……」
額の汗を拭い、荒い呼吸を整え、枕元へ転がっていた体温計を手に取った。
昨夜から続く倦怠感。小さくため息を吐き、脇へ挟む。
ピッ——。
静かな電子音が部屋へ響く。
『39.7℃』
小さく眉をひそめた。
「……風邪、か。」
青年はそう呟くと、ゆっくりとベッドへ身体を沈めた。
だが——。
心臓はまるで何かに追われているかのように、ドクンドクンと激しい鼓動を刻み続けていた。




