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第5話 『記録』


 翌日。

 昨夜から降り続く雨が、庁舎の大きな窓を静かに、執拗に叩きつけていた。

 昨夜の出来事が決して夢ではなかったことを証明するように、更衣室の鏡に映る朝比奈英希の表情は冴えない。彼は自分の制服の袖口をじっと見つめた。そこには、昨日の接触で無惨に腐食し、ボロボロに朽ち果てた跡がそのまま残っている。

 英希は重い動作で新しい制服へ着替えると、変色した袖を証拠保管袋へ丁寧に、そして慎重に収めた。

 能力によって損傷した物品は、すべて特災府へ提出し、調査を受けることが義務付けられていた。透明な袋越しに見える黒く朽ちた布地を見つめながら、英希は胸の内に溜まった澱のような不安を吐き出すように、小さく息を漏らした。

「……本当に、あれは一体何だったんだ」

 衣服をここまで、まるで年月を凝縮したかのように一瞬で朽ちさせる能力など、座学でも資料でも一度も見たことがない。昨日自分が目にしたものは、果たして純粋な『能力』と呼べるものだったのか。それとも、能力という言葉では決して説明できない、もっと悍ましい「何か」だったのか。

 答えが出ない問いを抱えたまま、英希は証拠保管袋を強く握りしめ、報告室へと向かった。

 そして、ふと脳裏をよぎる。昨日地下書庫で見せた、相沢のあの凍りついたような表情を。

「……結局、あの資料には何が書いてあったんだ」

 誰に聞くでもなく独り言を呟き、英希は足早に廊下を抜けた。

     

 報告室の扉をノックして開くと、相沢は既にデスクに深く腰掛け、沈黙の中で待機していた。

「来たか」

「おはようございます」

「……制服は持ってきたな」

「はい」

 相沢は証拠保管袋を受け取ると、中身を確認するように静かに机へ広げた。その腐食した袖をじっと見つめたまま、彼は小さく、しかし重々しく頷いた。

「改めて、昨日の状況を報告しろ」

 英希は姿勢を正し、記憶を整理して言葉を紡いだ。

「昨日十五時二十四分、新宿駅西口周辺にて未登録の能力反応を確認しました。対象は十八歳前後の男性です。遅発性能力者と判断し、保護のため接触を試みました。しかし対象は極度の混乱状態にあり、私を見るなり反射的に逃走しました。追跡中、能力が暴発。空気の異常、黒い粒子、腐食現象を確認しました。私の慣性制御では、その浸食を完全に防ぎきれませんでした。予想ですが、恐らく『腐敗能力』ではないかと思われます。」

 相沢は、最後まで無言で英希の報告を聞き入っていた。英希が報告を終えて机の前に立つと、相沢はゆっくりと袋を開け、中の布切れを指先でなぞった。

 しばらくの沈黙。部屋には雨音だけが響いている。やがて相沢は、絞り出すように小さく息を吐いた。

「……やはり昨日見た通りだ」

「隊長?」

「……ついて来い」

「え?」

「説明は後だ」

 相沢はそれだけ言い捨てて部屋を出ていった。英希は戸惑いながらも、慌ててその背中を追うしかなかった。

     

 二人は再び地下階の重い扉を通り、冷え切った地下書庫へ入った。

 相沢は迷うことなく最奥の棚へ歩いていく。そして昨日と同じ、古びた革張りのファイルを静かに取り出した。表紙の中央には、拒絶するように赤い文字で『極秘』と刻まれている。

 相沢は一瞬だけ資料へ視線を落とす。

 ————————————————

 能力名:病(病原体操作能力)

 1980年:関東能力災害

 能力者の暴走により数百万人が犠牲

 対象:■■■■

 処分:死亡

 区分:災級

 ——————————————

 昨日読んだ凄惨な記録を反芻するように目を閉じると、彼はそれを静かに胸に抱えた。

「……行くぞ」

「隊長」

 英希はたまらず口を開いた。

「昨日の資料……あれには、一体何が書かれていたんですか」

 相沢は視線を上げることなく、淡々と答える。

「昨夜、一人で最後まで目を通した。……俺一人で判断できる内容じゃない。だから今から、総監長へ正式に報告する」

 その一言だけだった。英希はそれ以上何も聞くことができなかった。昨日も、今日も、本当の意味でその脅威を知っているのは相沢だけなのだという事実に、英希は言いようのない重圧を感じた。

     

 数十分後。二人は庁舎の最上階、重厚な扉の前に到着していた。

 扉が開くと、会議室には総監長を中心に数名の幹部が沈痛な面持ちで着席していた。相沢は一礼し、資料と腐食した制服を机の中央へ並べた。

「報告します」

 総監長は静かに、しかし威厳を込めて頷いた。

「聞こう」

 相沢は、昨日の経緯を一切の感情を排して説明した。未登録の遅発性能力者、逃走、そしてあの黒い粒子と腐食現象。英希の能力でも防げなかったことまで、すべてを話し終えると、部屋は耐え難い沈黙に包まれた。

 総監長は腐食した制服へ手を伸ばし、袖を持ち上げては、静かに机へ戻した。そして今度は資料を開き、数秒間、一行一行を噛みしめるように目を通した。

「…………」

 総監長は深く目を閉じ、長いため息をついた。

「……相違ない」

 その一言に、英希は思わず顔を上げる。

「相違……ない、ですか?」

 その時、一人の幹部が静かに口を開いた。

「総監長。過去二例はいずれも甚大な被害を出しています。危険です。対象は直ちに処分すべきかと」

部屋の空気が一瞬で張り詰め、英希は思わず息を呑んだ。

総監長は幹部へ視線を向けることなく、静かに口を開く。

「……だからこそだ。」

「処分ではなく、保護する。」

「え……?」

「対象を、本日付で『最優先保護対象』へ指定する」

 英希は少しだけ肩の力を抜いた。危険な能力ではある。だが、特災府は見捨てない。助けようとしている。その事実に、英希は微かな安堵を覚えた。

「朝比奈」

「はい!」

「対象を発見した場合、単独での接触は固く禁ずる。発見次第報告し、保護を最優先とせよ」

「了解しました!」

 英希は力強く返事をした。しかし、その横で相沢だけは静かに俯き、何かを耐えるように拳を強く握り締めていた。

     

 一方その頃。来栖憂はカーテンを閉め切った暗い部屋で、一人膝を抱えて座り込んでいた。

 机の上には、何本ものペットボトルが並んでいる。どれも触れた瞬間に濁り、腐敗してしまったものばかりだ。

「……止まれよ。もう止まってくれ」

 何度願っても、能力は憂の意思とは無関係に、静かに、そして確実に存在し続けていた。

 スマートフォンが小刻みに震える。大学の友人・平田からの着信だった。憂はその画面をじっと見つめる。指先は恐怖に震え、動かない。やがて着信は切れ、メッセージが通知された。

『体調大丈夫か?』

『無理すんなよ』

『みんな心配してるぞ』

 憂は返信画面を開いたまま、何も打てずに何度も閉じた。

「……ごめん……ごめん」

 誰にも届かない怯えた謝罪だけが、静かな部屋の淀んだ空気の中へ溶けていく。

 窓の外では、容赦のない雨が静かに降り続いていた。



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