第4話 『報告』
庁舎の重厚な自動扉が、シュルリと音を立てて閉じる。冷たい空調が効いたロビーを歩く英希の足音だけが、不気味なほど鮮明に響いた。
すれ違う職員たちが、一様に英希の姿を見て足を止める。彼らの視線は、英希の黒い制服の袖口へと注がれていた。そこは生地の繊維が原型を留めず、まるで何十年も酸に晒されていたかのようにボロボロと崩れ落ち、黒ずんでいたからだ。
「おい、朝比奈。その袖……どうしたんだ?」
同僚の一人が眉をひそめて近寄ってくる。英希は困ったように肩をすくめた。
「……さあ。自分でもよく分からないんだ。ただ、ある能力者と接触した時に、制服がこうなってしまって」
「能力者?まさか、お前がやられたのか?」
「怪我はないよ。本当に、制服だけが……」
英希は苦笑いを浮かべたが、心の中では冷や汗が止まらなかった。衣服を朽ちさせるような能力など、座学では一度も習っていない。あの一瞬、自分の身に起きた現象は、何かの間違いではないかという疑念が頭を離れない。
報告室の照明は、どこか白々しく感じられた。相沢はデスクに背を向け、窓の外の闇を見つめたまま動かない。
「巡視の報告を求めよう、朝比奈」
相沢の低い声に、英希は直立不動で答える。
「はい。本日十五時二十四分、新宿駅西口周辺の路地裏にて、未登録の能力反応を確認しました」
「……詳細を」
「十八歳前後。能力発現から日が浅い、いわゆる『遅発性』の能力者です。保護を試みましたが、本人は強い混乱状態にあり、説得に応じることなく逃走を図りました」
英希は、先ほどまでの恐怖を思い出しながら、慎重に言葉を選ぶ。
「隊長、あの能力は……尋常ではありませんでした。空気が歪み、足元の水たまりが真っ黒に濁ったんです。物理的な力とは全く違う、何というか……生命そのものを蝕むような感覚を覚えました」
相沢はゆっくりと振り返り、英希の制服の袖に視線を落とした。
「この腐食痕。これは……お前が直接、その『黒い粒子』を浴びた結果か」
「はい。慣性制御を試みましたが、粒子が細かすぎて防ぎきれませんでした。ただ、もしあれが直接肌に触れていたら……と思うと、今も背筋が凍るような思いです」
相沢は無言で袖の腐食した部分を指先でなぞった。指先に伝わる感触を確認するかのように、何度も確かめる。
「……防ぐ手立てのない、浸食。もしこれが感染性の能力だとしたら、被害は一過性では済まない」
相沢の独り言のような呟きに、英希は息を呑んだ。
「隊長、何か心当たりがあるのですか?」
相沢は答えなかった。ただ、深く鋭い眼差しで、腐食した布を見つめ続けている。それは、長年この特災害府で数多の能力者を見てきた相沢ですら、一度も見たことのない、異常な「痕跡」だった。
その頃。自宅のワンルームマンションで、来栖憂は死ぬような思いをしていた。
逃げ切ったという安堵は、瞬く間に激しい自己嫌悪と恐怖へと塗り替えられた。部屋の中は、憂が触れたもの全てが腐り落ちていくような腐敗臭に満ちている。
「……消えろよ、もう消えてくれよ」
憂は流し台の前で、先ほどまで持っていたペットボトルを何度も強く握りしめた。だが、その度に、中の水は瞬時に濁り、黒い斑点が広がっていく。自分の体温、触れた手の温度すら、能力を暴発させるスイッチになっているのだ。
「誰にも……誰にも触れられない……」
憂は洗面台の鏡に映る自分を見た。やつれた顔、充血した目。昨日までそこにあった「平凡な大学生」の面影は、今や見る影もない。
「俺は、化け物になったのか?」
部屋の外から、隣人の足音が聞こえる。憂は息を止めた。もし、この壁を通じて、隣の部屋まで自分の放つ「腐敗の波動」が届いてしまったら? そんな妄想が頭をよぎり、憂は床を掻きむしった。
「嫌だ……誰かを傷つけるなんて、絶対に嫌だ!」
叫び声は、誰に届くこともなく空虚な部屋に吸い込まれた。憂は膝を抱え、自分の手を見つめる。その手は、昨日までと同じはずなのに、今や世界を病ませる猛毒の源泉と化していた。
深夜の庁舎、地下階。——第六地下資料室。
相沢は英希を引き連れ、厳重なセキュリティで閉ざされた書庫へと足を踏み入れた。
「ここには、特災府が設立されて以来の記録が全て収められている」
相沢は迷うことなく、埃を被った書棚の奥へと歩を進めた。その背中は、普段よりもどこか重々しい。
「隊長、ここは……?」
「新人が立ち入る場所ではない。だが、あの能力を野放しにはできん」
相沢は一冊の分厚いファイルを引き抜いた。それは他のファイルとは明らかに異質で、古びた革の表紙には『極秘』と赤文字で刻印されていた。
パラ、とページをめくる。相沢の瞳が、文字を追いかけるごとに険しくなっていく。その手が不意に止まった。
「…………。」
相沢の表情から血の気が引いていく。普段どんな能力犯罪者を前にしても微動だにしない男が、初めて言葉を失っていた。
「隊長……?」
英希が恐る恐る声を掛ける。しかし相沢は返事をしない。
開かれたページを見つめたまま、小さく息を呑む。
「……そんな馬鹿な。」
その呟きは、静まり返った書庫の中へ重く沈んだ。
英希には何が書かれているのか見えない。
だが、一つだけ分かったことがある。今日、自分が遭遇したあの能力は、ただの未登録能力者ではない——。
相沢は静かにファイルを閉じると、英希へ背を向けた。
「…帰るぞ。」
「え……それだけですか?」
「今はまだ、お前が知る必要はない。」
その言葉だけを残し、相沢は薄暗い廊下を歩き出す。
英希はもう一度だけ、閉ざされた書庫を振り返った。
あのファイルには、一体何が記されていたのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




