第10話 『対話』
夕暮れの路地裏。街の喧騒はどこか遠くの出来事のように薄れ、代わりに二人の荒い息遣いだけが支配する閉鎖的な空間が生まれていた。
来栖憂は、背後の冷たいコンクリートの壁に寄りかかり、その場に力なく座り込んでいた。肩で大きく息をするたび、先ほど転倒した際に擦りむいた腕の傷口が、ずきずきと鈍い痛みを訴える。涙で視界が歪む中、五メートル先に立つ青年の姿がぼんやりと揺れていた。
朝比奈英希。
互いに一歩も動かない。いや、動けないという方が正しいだろうか。路地裏という限られた空間の中で、重苦しい沈黙だけが糸を引くように続いていた。
路地裏に時計などあるはずもないのに、不思議なほど時間だけが粘着質に引き延ばされていく。憂は必死に乱れた呼吸を整えようと努め、英希はそれを見守るように、しかし威圧感を与えないよう細心の注意を払って静止していた。
やがて、沈黙を破ったのは英希の穏やかな声だった。
「……もう、追いかけないから」
憂はその言葉に反応しない。壁にもたれ掛かったまま、警戒を露わにした瞳で、ただじっと英希を睨みつけ続けている。英希は少しだけ目を伏せ、彼を安心させるように、ゆっくりと、しかし確かな言葉を紡いだ。
「だから……話だけ、聞いてほしいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、憂の表情がわずかに歪んだ。
「……嘘だ」
掠れた声。積み重なった恐怖と絶望が混ざり合った、震える声だった。英希は真っ直ぐに憂を見つめ返し、言葉に熱を込める。
「本当だ。嘘なんてつかない」
「じゃあ……じゃあ、なんで!」
憂は唇を血が滲むほど強く噛み締め、声を荒らげた。
「なんで追ってきたんだよ!俺が、何をしたって言うんだ!」
「……保護するためだ」
英希の即答に、憂は呆れたように乾いた笑い声を上げた。自分を追い詰めておいて何を言うのか、と言わんばかりの冷笑だった。
「保護……?笑わせるなよ。捕まえて、特災府の実験台か何かにするつもりだろ」
「違う。俺はそんな命令は受けていない」
英希の迷いのない否定に、憂は一瞬だけ言葉を失う。しかし、すぐにまた強がりで表情を覆った。
「それをどうやって信じろって言うんだよ!初めて会った時、お前は俺を追いかけただろ。俺が何者か分かってたからだろ!」
その言葉に、英希は痛いところを突かれたように視線を落とした。数秒の沈黙が流れ、やがて英希は重苦しそうに、しかし誠実に息を吐いた。
「……あの時は、悪かった」
憂の表情が凍りつく。追ってきたはずの相手が、謝罪をするなどとは夢にも思わなかったからだ。
「俺は、その時警邏中だった。未登録能力者を感知する索敵能力を使っていて……そこに君の反応を見つけた。俺はただ、能力に目覚めたばかりで困っている人がいると思って近付いた。君がどんな能力を持っているのか、その時は何も知らなかったんだ」
英希の言葉は、憂の中にあった「朝比奈への強い警戒心」を少しずつ溶かしていった。彼は、自分を脅かす存在としてではなく、ただの迷い人を探すような感覚で追いかけていたのだ。
「でも……それは言い訳にしかならないな」
英希はゆっくりと、憂の瞳を射抜くように見つめた。
「怖かったよな。何も分からないまま力に目覚めて、突然追い回されて……本当に、怖がらせてごめん」
その謝罪は、路地裏の淀んだ空気に深く溶け込んでいった。憂の肩が、微かに震える。目の前の青年は、追ってきた相手なのに、今は頭を下げている。そんな展開など、一度も想像したことがなかった。自分を「怪物」としてではなく、一人の「人間」として見てくれている。その事実が、憂の張り詰めていた心の防壁を、少しだけ崩した。
その時だった。英希の胸元の無線機が、無機質な電子音を立てて鳴り響いた。
『朝比奈、応答しろ。対象の確保状況を報告せよ』
英希は無視しようとしたが、無線機は止まらない。
『朝比奈。応答しろ。なぜ動かない』
憂の顔色が、恐怖で再び真っ青に変わる。
「……仲間……!」
再び蘇る恐怖。逃げようと立ち上がった憂の身体が、極度の緊張と恐怖で激しく震え出す。
「来るな……!近づくなよ!」
憂の手の指先から、ドロリとした黒い粒子が滲み出した。能力が暴走の兆しを見せている。
「やめろ……!誰も、傷つけたくない……!」
自分の意思とは裏腹に、周囲を侵食し始める黒い粒子。憂は自分の腕を必死に抑え、その場に留まらせようと苦闘する。
英希は一歩も引かなかった。逃げもせず、構えることもせず、ただ黒い粒子を真正面から見つめ、静かに立っている。
「……なんで、逃げないんだよ!」
「大丈夫だ」
英希の、力強い声が響く。
「逃げない。ここで君と話すんだ」
憂は呆然と朝比奈を見つめた。自分ですら恐ろしいと思う、この悍ましい力を。真正面から突きつけられても、彼は動じない。震える憂の指先へ、必死に意識を集中させる。抑え込め。自分を、この醜い粒子を……。
憂の必死の抗いに応じるように、黒い粒子はゆっくりと勢いを失い、夕暮れの空気の中に煙のように溶けて消えていった。
静寂が戻る。英希は最後まで、微塵も動かなかった。憂の瞳から、我慢していた一粒の熱い涙が、頬を伝って落ちた。
この力を見ても、逃げなかった人間がいた。
彼が初めてだった。憂は涙を拭うことも忘れたまま、ただ朝比奈を見つめ続けていた。




