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第11話 『信頼』


 夕暮れの路地裏。舞い上がっていた黒い粒子は、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく消え去り、先ほどまで張り詰めていた殺伐とした空気だけが、冷たい残滓となってその場に沈殿していた。

 来栖憂は壁に背を預けたまま、その場から動くことができなかった。対する朝比奈英希もまた、憂を刺激しないよう、五メートルという一定の距離を保ったまま微動だにしない。

 路地裏には、街の喧騒が遠い夢のように響いている。二人の間に流れるのは、もはや恐怖や敵意ではない。互いの存在を測り合うような、形容しがたい静寂だった。

 憂は荒れた呼吸を何度も繰り返し、自分の震える右手を見つめた。能力の奔流は収まった。今はただ、自身の内側から溢れ出す冷たい余韻だけが、腕に巻き付いている。

「……ようやく、収まったか」

 英希が小さく息を吐いた。彼はゆっくりと、両足の力を抜き、その場に腰を下ろした。五メートル。この距離は、憂を怯えさせず、かといって不意の攻撃に備えることもできる、英希が選んだ最小限の「境界線」だった。

「……少し、落ち着いたか」

 憂は返事をしなかった。頷くことも、首を振ることもできない。ただ、英気の瞳を真っ直ぐに見つめ返すのが精一杯だった。その眼差しには、英希に対する警戒心とともに、今まで見たことのないもの——「自分を見捨てなかった人間への奇妙な困惑」が混ざり合っていた。

 英希は静かに微笑み、彼を安心させるように、探るようなトーンで切り出した。

「……一つだけ、聞かせてくれないか」

「……何を」

「君の名前だ」

 憂は一瞬、目を伏せた。これまで、自分は誰にも名前を名乗れなかった。能力者として覚醒したあの日から、自分はもう普通の人間ではなく、ただの「災厄」あるいは「怪物」として生きなければならないと確信していたからだ。だが、目の前の英希は違った。彼だけは、自分を「モノ」としてではなく、「人」として扱っている。

 少しの躊躇いの末、憂は絞り出すように口を開いた。

「……来栖」

 一度、言葉が途切れる。自分の名前を口にすることすら、今の自分にはあまりに不釣り合いな気がしたからだ。

「来栖……憂」

 英希はその名を、まるで大切なものを扱うかのようにゆっくりと反芻した。

「ありがとう、来栖」

 英希は自分の胸へ手を当て、少年らしい柔らかい笑みを浮かべた。

「俺の名前は朝比奈英希。」

 少しだけ照れくさそうに笑う。

「……よろしくな。」

 憂は思わず、大きく目を見開いた。驚愕だった。今まで、特災府の人間からは「保護対象」あるいは「実験体」のように扱われると思っていた。英希自身もまた、特災府の一員としては「隊員」という記号でしかなかったはずだ。

 それが今、互いの名前を呼び合った。たったそれだけのことが、二人の間に存在した見えない壁を、薄皮を剥ぐように溶かしていった。

     

 英希は膝に肘を乗せ、落ち着いた口調で語り始めた。

「改めて説明するよ。能力者は、その力が発現した時点で特災府へ登録されるルールになっている。理由は二つ。能力者自身を守るため、そして、予期せぬ事故から周囲の一般人を守るためだ」

 憂は黙って聞いていた。今の自分には、その言葉の正しさを否定する気力もなかった。

「君は登録されていなかった。だから俺は、能力反応を索敵した時、ただ新しく発現したばかりで困惑している一般人だと思ったんだ。……本当に、それだけだった」

「……」

「君の能力があんなに危険なものだと知っていたら、追いかけなかった……とは言えないかな。それが俺の任務だったから。でも、知っていれば、もっと違うやり方があったはずだと、今はそう思ってる」

 英希の誠実な言葉に、憂は自分の中の氷が溶けていくのを感じた。そして、ずっと溜め込んでいた不安を、せきを切ったようにこぼし始める。

「……能力が出た日から、ずっと引きこもってた。もう一週間だ」

 その声には、限界まで追い詰められた疲労しか残っていなかった。

「最初は、触れた水が濁るだけだった。でも、今は違う。食べ物も、植物も、俺が触れただけで全部、腐っていく。……能力が強くなっているんじゃない。俺が、怖くて……怖くて……」

 憂の肩が大きく震える。

「怖いんだよ。自分が何者なのか、どこまで壊してしまうのか。制御なんて、できるわけない」

 その一言に、英希は衝撃を受けた。能力が暴走しているのではない。恐怖が能力を暴走させている——。ようやく分かった。憂は加害者などではなく、自分の力に怯え、傷つき続けている「もう一人の被害者」だったのだ。

「誰も傷付けたくないんだ。なのに、俺がいるだけで全部、壊れていく。……こんなの、どうしたらいいんだよ……!」

 憂の悲痛な叫びは、英希の胸を深く抉った。

     

 沈黙が流れる。英希は憂の絶望を受け止めるように、少しだけ穏やかな笑みを浮かべた。

「多分だけど十八歳だよな?」

「……え、なんで」

「なんとなくだけど年齢くらい見れば分かるさ。俺も、同じ十八歳だよ」

 憂は驚きで顔を上げた。

「……え、同い歳?」

「意外か?もっと年上に見えた?」

「……なんか、大人だし落ち着いてるから」

 英希は苦笑した。

「そう見えるだけだよ。俺だって怖い。自分の無力さも、今のこの状況も。明日、何が起きるかも分からない。でも……。逃げたら、きっと後悔する気がするんだ」

 憂は、真剣な眼差しで自分を見つめる英希を見つめた。同じ年齢のはずなのに、なぜこの男はこんなにも強く、真っ直ぐに自分を直視できるのだろう。

 その時だった。英希の胸元で、無線機が激しく鳴り響いた。

『朝比奈!応答しろ!対象との接触を確認した!』

 英希が顔をしかめる。

『位置情報は確認済みだ。増援を向かわせた。対象を確保し、その場を動くな!』

 英希の表情が、冷たい現実へと引き戻される。

「……まずい」

「仲間か……!」

 憂の顔から再び色が消えた。その直後だった。路地裏の入り口で、タイヤがアスファルトを擦るような激しい制動音が響いた。

 キィィィィッ――!

 複数の足音。制服を着た特災府の隊員たちが、路地裏へ雪崩れ込んでくる。

「対象確認!動くな!」

 憂の身体が極度の恐怖で硬直する。再び能力が暴発しかけたその瞬間、英希は咄嗟に憂と隊員たちの間に立ちはだかった。

「待ってください!彼はまだ混乱しているんです!」


 英希の叫びが、夕暮れの路地裏へ空しく響き渡った。



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