第12話 『信念』
夕暮れの路地裏へ、不協和音のような硬質な足音が殺到した。
キィィィィッ——と、アスファルトを噛むような急ブレーキ音を響かせ、黒い機動車両が路地の入り口を塞ぐ。その瞬間、迷いのない動きで次々と飛び降りてきたのは、重武装を施した内閣特異統理対策総理府の隊員たちだった。
「対象確認!これより確保行動へ移行する!」
「逃走ルートを遮断せよ!周囲に一般人がいないか再確認しろ!」
無機質で、冷徹な統率。彼らの視線は来栖憂という一個の人間ではなく、「排除すべき脅威」に向けられていた。
その様子を目の当たりにした憂の身体が、氷水に浸かったかのように強張る。
「……っ!」
心臓が喉まで競り上がってくる。やはりそうだった。あの路地裏で朝比奈が語った、穏やかな「保護」という言葉なんて、ただの耳当たりのいい嘘だったんだ。
結局、自分は捕まる。昨日までと同じ、終わりのない監獄へ連れ戻されるんだ。
再び胸の奥から込み上げてくるのは、純粋な恐怖。先ほどまで感じていた、朝比奈という青年に対するかすかな期待が、まるで脆いガラス細工のように粉々に砕け散っていく。
「待ってください!」
憂の前へ、朝比奈英希が立ちはだかった。隊員たちの行く手を遮るように、彼は両手を広げて叫ぶ。
「総監長からは、保護命令が出ているはずです!拘束なんて聞いていない!どうして、そんな強硬な手段を取るんですか!」
先頭を走っていた隊員が、一歩も引かぬ足取りで朝比奈の目前へ迫る。
「どけ、朝比奈。これは保護のための最小限の処置だ」
「拘束が、保護ですか!?」
「対象は『災級危険能力者』だ。その能力の性質上、安全を担保するためには隔離と拘束が不可欠だと判断された。これは上層部の正式な決定だ」
その事務的な言葉は、朝比奈の胸へ毒を塗り込んだ刃のように深く突き刺さった。
保護。その言葉に、自分はずっと淡い希望を抱いていた。苦しんでいる能力者を救い、彼らがまた普通の生活に戻れるよう支えること。それが、英雄に憧れてこの門を叩いた自分の「保護」だったはずだ。だが、現実にあるのは隔離、管理。自分たちがやろうとしていることは、救済ではなく、ただの「社会からの排斥」だったのか。
朝比奈の拳が、悔しさで白くなるほど強く握りしめられる。
「……ほらな」
憂は自嘲気味に笑った。その笑みには、涙が混ざっている。
「……やっぱり、そうだよな。お前も、あの特災府も、結局は同じだ」
憂の声が震える。信頼しようとした自分が馬鹿だった。この力を持っている限り、自分に居場所なんてないんだ。最初から分かりきっていたことじゃないか。
「違う、来栖!違うんだ!」
朝比奈はすぐさま振り返り、憂へ必死に訴える。
「これは俺の知っている保護じゃない!話を聞いてくれ!」
「もういいよ……」
憂の声は、もはや絶望に塗りつぶされていた。
「結局、俺はただの道具なんだろ。お前も、その手先なんだ。……裏切られた気分だよ」
せっかくほどけかけていた警戒心が、憂の中で以前よりも強く、重い鉄の扉となって閉ざされていく。
「拘束具を。これ以上、時間をかけるな」
隊員の一人が、小型ケースを開く。中から取り出されたのは、異様な輝きを放つ銀色の拘束具だった。
それを見た瞬間、朝比奈の思考が停止する。
「拘束具……? そんなもの、必要ありません!」
「必要だ。対象の能力の性質上、身体的接触の遮断は安全確保のためには必須。これは上層部の命令だ」
朝比奈はその拘束具を見つめたまま、動けなかった。隊員の手にある銀色の拘束具を凝視した。
鈍く光を反射する無機質な金属。その冷徹な輝きを見た瞬間、幼い頃に見た光景が、まるで呪いのように脳裏で鮮やかに蘇った。
瓦礫の山から震える子どもを優しく抱き上げる、特災府の隊員。涙をこぼす能力者の肩を抱き、言葉をかける英雄たち。あの時、テレビ画面の向こうで輝いていたのは、紛れもなく「正義」の象徴だった。
あれこそが、自分の目指した理想の姿だったはずだ。
なのに今、自分たちの手にあるものは何だ。
誰かの明日を救うための温かい手ではない。ただ、その尊厳を奪い、魂を封じ込めるための冷酷な鉄の枷。
理想と現実のあまりの乖離に、朝比奈の呼吸は浅く乱れた。あの日の英雄は、今の自分を一体どんな目で見ているのだろうか。この銀色の光は、正義の灯火ではなく、ただ人を縛り付けるための鎖に過ぎなかった。自分が守ろうとしていた理想は、音もなく崩れ始めていた。
「——朝比奈」
低く、どこまでも落ち着いた声が路地裏を支配した。
隊員たちが一斉に道を開く。その奥から、相沢が静かな足取りで現れた。その表情には、怒りや哀れみの、一切の感情が刻まれていない。
「隊長……!」
「命令を破ったな、朝比奈」
「しかし、無線で管制に報告しました!統理班の要請も取り消して、彼と対話を……!」
「それでもだ」
相沢は淡々と、逃げ場のない真実を告げる。
「管制が何と言おうと、お前は俺の隊の人間だ。隊長である俺の命令を最優先すべきだった。軍に所属する兵士が、独断で敵陣をうろついてどうする」
「……隊長!」
「どけ」
短い言葉。しかし、その一言に込められた重圧に、朝比奈は一瞬だけ気圧された。それでも、彼は拳を震わせながら動こうとはしない。
「……嫌です」
相沢は、声を荒らげることはしなかった。ただ、数秒間の静寂がその場を支配する。相沢は動くことなく、射抜くような眼差しで朝比奈を見つめ続けていた。
その瞳に宿っていたのは、激しい怒りや罵倒ではなかった。もっと深く、冷ややかな「失望」だった。期待していたはずの教え子が、己の信条を前にして脆くも組織の規律を裏切ったこと。その事実に、相沢は言葉を失ったかのようにただ沈黙を貫いた。
「……そうか」
短く、乾いた一言。
その吐息のような響きを聞いた瞬間、朝比奈の胸は耐えがたいほどの痛みに締め付けられた。
怒鳴り散らされる方が、よほど楽だったはずだ。激しい叱責ならば、理屈で言い返せたかもしれない。しかし、相沢が放った静かな絶望は、朝比奈の心にある「誇り」そのものを真っ向から否定するような重みを持って、逃げ場を奪い去っていった。
「どけ、命令違反は問わない。今すぐ対象から離れろ」
相沢の瞳が、静かに、そして鋭く細められる。周囲の空気が、凍てつくような冷たさに支配された。
憂は、過呼吸で息を整えることさえできなくなっていた。
隊員、拘束具、車両。逃げ場はない。自分の手の震えが、今までにないほど激しくなり、指先からドロリとした黒い粒子が噴き出す。
「止まれ……っ、嫌だ、頼むから……!」
制御が完全に崩壊しかけたその瞬間、朝比奈英希が憂の目の前に深く踏み出した。憂と隊員たちの間を、自らの身体で完全に遮断するように。
「待ってください!」
隊員たちが動きを止める。相沢は、朝比奈の背中を、ただじっと見つめていた。
「彼は混乱しているんだ!今拘束したら能力が暴走して、隊員の命にも関わる!ただの殺し合いになる!」
朝比奈は振り返らない。憂を護る盾のように、相沢と特災府に向き合い続ける。
「……何をするつもりだ、朝比奈」
相沢の静かな問い。朝比奈はゆっくりと息を吸い、腹の底から、震える声で叫んだ。
「……これは。俺の知っている保護ではありません!」
路地裏に、朝比奈の叫びが響き渡った。
誰も口を開かない。
憂は、呆然と目の前の背中を見つめていた。先ほどまで自分を追っていた人間が、今、組織の掟を破り、自分のために命を懸けて立ちはだかっている。
夕暮れの薄光が、二人の影を長く、そして重なり合うように路地へと落としていた。朝比奈英希の背中から伝わる、決して折れない強い意志。それは、絶望に支配されていた憂の心の中に、今までになかった灯火を静かに点そうとしていた。




