第13話 『選択』
夕暮れの路地裏は、まるで時間が凍りついたかのように、不気味なほどの静寂に包まれていた。
朝比奈英希は来栖憂をその身で庇うように立ち、背後から迫る特災府の隊員たちと、その先に佇む相沢を見据えている。隊員たちが装備を整える微かな擦れ音さえ、耳元で雷鳴のように大きく聞こえるほど、緊張は極限に達していた。
夕日に焼かれた路地の壁に、細長い影が伸びる。それは、彼らの未来の行先を暗示するかのように、深く、暗く、重たかった。
沈黙を破ったのは、やはり相沢だった。
「……どけ」
低く、感情を一切排除した声。その言葉には、かつて教育係として英希に注いでくれた温かみなど微塵も感じられない。
「……嫌です」
英希の拒絶もまた、静かだが震えていた。相沢の表情は変わらない。しかし、今の相沢が浮かべているのは、もっと深い、魂の底まで冷え込むような失望の色だった。
「朝比奈。お前は、今……何を守ろうとしている」
相沢の問いかけは、穏やかであるがゆえに英希の心臓を容赦なく抉る。
「……来栖です」
迷いのない返答を聞き、相沢は深く、深く息を吐いた。
「違う」
短い、しかし冷徹な否定。
「お前が守るべきは、一個人の命ではない。お前が守るべきなのは、この街で生きる『市民』だ。……その男一人を庇うことで、この街の何百万人もの命が脅かされる可能性を、お前は天秤に掛けているのだぞ」
その言葉が、英希の信念を根底から揺さぶる。
……分からなくなってしまった。俺が憧れていた英雄とは、何だったのだろう。人を救うとは、一体何なんだ。来栖一人を救うことで、もし取り返しのつかない悲劇が起きたら。自分は「英雄」ではなく、ただの「惨劇の引き金」になってしまうのか。
朝比奈の瞳が激しく揺れる。誇り高く掲げていたはずの信念が、現実という名の巨大な暴力の前に、消えかけの灯火のように揺らいだ。
そのやり取りを、壁に背を預けたまま聞いていた来栖憂の胸中は、複雑な感情で乱れていた。
朝比奈は、本当に自分を庇っている。さっきまで敵だと思い、恐れ、憎んでいたはずの男が、今、組織の掟を破ってまで自分の盾になっている。
「なんで……なんでそこまで……」
胸が苦しい。憂にとって、それは救いであると同時に、耐え難い重圧でもあった。自分のせいで、朝比奈が苦しんでいる。自分が存在しているだけで、朝比奈が尊敬しているであろう上司と対立させてしまっている。
——俺のせいだ。
自分さえいなければ、朝比奈はこんな苦渋の決断を迫られることはなかった。自分という存在そのものが、大切な誰かの人生を狂わせる「呪い」なのだと、改めて痛感させられる。
「……俺が。俺がいるから、朝比奈は……」
憂は小さく呟き、震える唇を噛み締めた。
「拘束具を装着しろ。対象を確保する」
隊員の一人が、感情を殺した事務的な声でそう告げ、銀色の拘束具を準備した。それは太陽の光を反射し、残酷なまでに美しく輝いている。
「止まってください!」
朝比奈は両手を広げ、なおも立ちはだかる。
「お願いします……!彼は故意に誰かを傷付けていません!」
誰も応えない。隊員たちはただ、命令を遂行する「機械」として朝比奈の横をすり抜けようとする。
その時。憂がふらりと立ち上がった。足はまだ鉛のように重く、呼吸は今にも途切れそうに乱れている。それでも、憂は朝比奈の影から一歩だけ前に出た。
「……もういいよ、朝比奈」
振り返った朝比奈に対し、憂は力なく、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「これ以上、巻き込めない。俺のせいで、これ以上お前が傷付く必要なんてないんだ」
「違う!来栖、下がってろ!」
二人の間に流れる、切実な拒絶と信頼。しかし、その瞬間だった。
——ズンッ。
地響きが、路地裏のコンクリートを突き抜けて伝わってきた。全員が呆然と顔を上げる。
ドォォォンッ!!
街の向こう側で、空を焦がすほどの爆発音が轟いた。巨大な黒煙がビルの狭間から噴き出し、夕焼けを死に体のような毒々しい色へと変えていく。
「なっ……!なんだ今の爆発は!」
隊員たちが一斉に黒煙の方を向く。無線機が、狂ったように悲鳴を上げ始めた。
『こちら第三統理班!応援を要請する!能力犯罪発生!爆発能力者が暴走中!死傷者多数、至急応援を——ッ!』
激しいノイズと、断末魔のような叫び。通信はそこで途絶えた。
路地裏には、凄まじい衝撃波が駆け抜け、彼らの足元を揺らした。誰もが立ち尽くした。自分たちの目の前の出来事が、あまりにも些細な争いに思えるほどの惨劇が、すぐそこで始まってしまったのだ。
相沢は一瞬だけ、黒煙を見つめた。その表情に感情の揺らぎはない。彼は素早く無線を執り、全班へ向けて声を飛ばした。
「全班、現場へ急行する!市民の救助と被害拡大の阻止が最優先だ!」
隊員たちが一斉に車両へと駆け戻る。相沢は、残された朝比奈を冷徹に見据えた。
「朝比奈、お前も来い。市民を守る、それがお前の仕事だ」
その言葉だけを残し、相沢は去っていった。
朝比奈は、黒煙の上がる空を見た。そして目の前にいる来栖を見る。来栖もまた、朝比奈を見つめていた。どちらを選ぶのか、その答えを出せる者は、まだ誰もいなかった。




