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第14話 『約束』


 轟音はなおも街を震わせ、大気を引き裂いていた。

 遠くで立ち昇る黒煙は、夕焼けの鮮烈なオレンジを無残に塗りつぶし、不気味なほどの質量を持って空へと広がっていく。それは、この街で今まさに何かが「死」に向かっていることを告げる、最悪の狼煙だった。

 班員たちは一瞬だけ呆然と立ち尽くしたが、次の瞬間には職業的な思考回路が切り替わったかのように、迷いのない動きを開始していた。

「全班、現場へ急行!」

 相沢の鋭く、研ぎ澄まされた号令が狭い路地裏を制圧するように響く。

「救助班は負傷者の救出を最優先! 避難誘導班は市民を安全圏へ誘導しろ!消火班は延焼を食い止めろ!」

「「了解!」」

 返答は一糸乱れなかった。先ほどまで来栖の確保へ向かっていた班員たちは、今度は大勢の市民を救うため走り出していく。それぞれが自らの役割を果たすため、一斉に走り出した。迷いはない。彼らの胸にあるのは、これこそが、特災府という組織の、光と影を内包した「本来の姿」だった。

     

 相沢は黒い車両のドアへ手を掛けた。しかし、乗り込む直前、彼はふと動きを止めた。無言のまま、ゆっくりと背後を振り返る。

 その視線の先では、来栖憂の前へ立ちふさがったままの朝比奈英希が、激しく肩を揺らして荒い息を吐いていた。

 数秒の静寂。爆発の轟音すら、ここでは遠くの出来事に思えた。相沢は静かに、しかし突き放すような口調で口を開いた。

「最後に言うぞ、朝比奈」

 その声に怒りはなかった。ただ、一人の若者の行く末を憂う、教育係としての重みだけが宿っていた。

「お前の仕事は、市民を守ることだ。それ以外に、俺たちが選ぶ道はない」

 冷たい言葉を投げ捨て、相沢は車両へと乗り込んだ。

 エンジンが獣のように唸りを上げ、数台の黒い車両はサイレンの悲鳴を上げながら、一斉に爆発の火種へ向かって走り去っていく。路地裏には、朝比奈と、取り残された来栖憂だけが沈黙の海に取り残された。

     

 焦げ臭い風が路地裏を吹き抜ける。遠くで聞こえる悲鳴や救急車のサイレンが、今のこの静寂を皮肉なほど際立たせていた。

 朝比奈は黒煙を見つめ、再び来栖へ視線を戻す。

 来栖もまた、朝比奈を見つめていた。その瞳には、先ほどまでの激しい恐怖とは異なる、どこか遠くを眺めるような諦念ていねんと、微かな優しさが混ざり合っていた。

「……行けよ」

 来栖が小さく呟いた。それは突き放す言葉ではなく、彼なりの決別だった。

「俺なら……大丈夫だから。だから、行けよ」

 本当は、大丈夫などではない。死ぬほど怖いし、一人の孤独に押し潰されそうだ。それでも、来栖は朝比奈を送り出さなければならないと直感していた。自分のせいで、この青年の純粋な夢まで汚したくなかったからだ。

「……」

 朝比奈は拳を強く握りしめる。爪が掌に食い込み、痛みが神経を麻痺させるほどに。頭の中で相沢の言葉がこだまする。市民を守れ。英雄なら、本当にそうするのだろうか。でも、俺の守りたかった「市民」は、この路地裏で震えている来栖憂と、どこが違うんだ。

 彼はゆっくりと、確かな決意を持って一歩を踏み出した。

「……来栖」

 名前を呼ばれ、来栖が顔を上げる。

「絶対に戻る」

 短い言葉だった。しかし、その声には一切の迷いがない、重厚な決意が宿っていた。朝比奈は「……ごめん」と呟き、一歩だけ来栖へ近付いた。抱きしめることはできない。だが、その距離には確かに、二人の間に芽生えた小さな信頼があった。

「どこにも行くな。俺を信じて、待っていてくれ」

 来栖の瞳がわずかに揺れた。返事はない。それでも朝比奈は、それ以上何も言わなかった。

 彼は踵を返し、黒煙の立ち昇る地獄のような街へ向かって、一気に駆け出した。その背中は、夕暮れの街の影に溶け込むようにして、あっという間に見えなくなった。

     

 再び訪れた静寂に来栖は一人、路地裏へ取り残された。

 風が吹き、黒い焦げた匂いが鼻を突く。今なら逃げられる。この街から消え去り、二度と誰とも関わらず、ただ自分という存在を隠して生きることはできる。

「信じる、か……」

 小さく呟く。その言葉は、自分でも信じられないほど弱々しく、頼りなかった。これまで誰一人として信じられなかった。能力を持ってからは、なおさら。

 それでも、朝比奈だけは逃げなかった。自分の名を呼び、謝り、そして「戻る」と約束してくれた。

 来栖はゆっくりと立ち上がる。朝比奈が走り去った方向を見る。そこには、街を飲み込むような黒煙が広がっている。

 そして彼は、ゆっくりと反対方向を見る。逃げるなら今しかない、誰もいない。自由だ。来栖は静かに1歩を踏み出した。その1歩が朝比奈との約束へ向かったのか。それとも、再び孤独を選ぶためだったのか。その答えは、まだ誰にも分からない。

 

 二日前——。

 ジリリリリリリッ!

 鼓膜を突き破るような目覚まし時計の音が、静かな部屋に容赦なく鳴り響く。

 瀬崎柊弥は布団の中で顔をしかめ、小さく唸り声を漏らしながら重い体を起こした。

「……んぁあ、朝か」

 重い瞼を擦りながら、何気なくいつものように部屋の隅へ視線を向ける。

 そこには、昨日と何一つ変わらない光景があった。黒い軍服を身に纏い、長い外套を翻した男が、まるで最初からそうであったかのように、微動だにせず立っている。

 男は右手を胸元へ添え、一点の乱れもない姿勢で、瀬崎へ向かって静かに敬礼を続けていた。

「……」

 柊弥は数秒間、その光景を呆然と見つめたあと、溜息とも諦めともつかない長い息を吐いた。

「はぁ……まだいたのか。お前、いつまでそこにいるつもりだ?」

 男は何も答えない。朝日を浴びて黒光りする軍服の影で、彼はただ沈黙を守りながら、朝の儀式のように敬礼を繰り返していた。


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