第15話 『日常』
二日前——。
ジリリリリリリッ!
鼓膜を直接叩きつけるような、鋭利で容赦のない目覚まし時計の音が、静かなワンルームマンションの空気を切り裂いた。
「……んあぁ、うっせぇなぁ……」
瀬崎柊弥は布団の中で小さく唸り声を漏らし、乱雑に手を伸ばしてアラームを止めた。寝癖で爆発した髪をそのままに、彼はふらふらと上半身を起こす。窓の外は既に明るいが、カーテンの隙間から差し込む光は、まだどこか眠気を誘うような柔らかさを含んでいた。
「あー……朝か」
彼は大きく背伸びをして、骨を鳴らした。ぼんやりとした視界の中で、何気なくいつもの習慣通り、部屋の隅へ視線を向ける。
そこには、朝の光を浴びて黒光りする、昨日と全く変わらぬ光景があった。
全身を硬質な軍服に包み、長い外套を翻した男。表情を深い影の中に隠したまま、彼は朝日を全身に受け止めるように立っている。右手を胸元へピタリと添え、姿勢を微塵も崩すことなく、柊弥へ向けて敬礼を続けていた。
「……」
昨日の今日だ。少しは驚いてもいいはずなのに、不思議と恐怖心は薄れていた。柊弥は長い溜息を吐き、布団から這い出す。
「はぁ……まだいたのか。お前、いつまでそこに立ってるつもりだ?足腰、疲れないのかよ」
返事はない。当然だ。男は昨日と一言一句変わらぬ姿勢で、ただ無言の敬礼を捧げている。それが彼にとっての朝の儀式であり、彼に許された唯一の存在証明なのだと、柊弥は勝手に納得することにした。
洗面所へ向かう。鏡の前に立ち、顔を洗おうと蛇口を捻ると、ひんやりとした水が勢いよく飛び出した。顔を濡らし、鏡越しに後ろを振り返ると、そこには男が数歩後ろで立っている。まるで柊弥の背中を、何者からも守ろうとするかのような距離感で。
「……別に、顔洗うくらい一人でできるっての」
独り言に反応はない。顔を拭い、髪を整え、スマホを手に取っても、男の視線は決して柊弥から逸れることがない。一定の距離を保ち、影のように寄り添い続ける。
(俺が、得体の知れないこいつを『副官』と呼んでいるのは……やっぱり、こいつがそう見えるからだな)
柊弥はスマホをいじりながら、胸の中でそんな風に分析していた。歴史書で読んだ、君主に仕える忠実な副官。主の隣へ控え、命令一つで戦場を駆け、主の身に危険が迫れば迷わず命を差し出す——そんな、意志の塊のような存在感。
「まあ……名前も分かんねぇしな。お前が副官で、俺が……主君、か?」
自嘲気味に呟くと、副官は相変わらず敬礼したままだ。その実直さに、柊弥は少しだけ苦笑を漏らした。
朝食は、手早く焼いたトーストと、適当に作ったスクランブルエッグ。テーブルに座り、テレビのスイッチを入れる。部屋には朝のニュース番組の軽快な音楽が流れた。
柊弥がパンを口に運び、咀嚼する間も、副官は隅で直立不動だ。その様子を眺めていると、さすがに一人で食べているような気がしなくなる。
「……お前、飯は食わないのか?……あ、そうか。食わねぇよな、そんな格好してたら」
返答はない。彼が動くことも、口を開くこともない。
「そうだよな。聞くだけ無駄か。……まあ、遠慮するなよ」
冗談めかして言ってみるが、副官はやはり無言の敬礼を突き通す。柊弥はパンの縁を齧りながら、何とも言えない奇妙な同居生活の始まりを噛み締めていた。
昼前、どうしても気になった柊弥は、コーヒーを飲みながら副官を観察することにした。
「なぁ……瞬き、してるとこ見たことねぇな」
近付いて顔を覗き込んでみる。やはり深い影の向こうに表情はない。耳を澄ませて、男の胸元に耳を寄せる。……心音も、呼吸音も、何も聞こえない。
「……本当に人間なのか?お前、魂とか入ってるのかよ」
男は沈黙を貫く。
柊弥は少しだけ悪戯心を出して、指をパチンと鳴らして指示を出してみた。
「そこ、座れ」
すると、男は一切の迷いを見せず、その場へすっと腰を下ろした。
「……じゃあ、立て」
指示と同時に、男は再びスッと立ち上がる。
「うわ……犬じゃねぇか。おもしろすぎるだろ……」
思わず笑いが込み上げる。命令に対して、一切の感情を挟まず、ただ純粋に遂行する。その健気さというか、愚直さに、どこか愛着すら感じ始めていた。
「……まぁ、なんだ。ありがとな。よく分かんねぇけど、守ってくれてるんだろ?」
ふと思いついた感謝の言葉。それを口にすると、副官はいつものように敬礼をしようとして——一瞬だけ、動きを止めた。
そして、静かに、本当に僅かだけだが、男が頭を下げたように見えた。
「……え」
柊弥は目を丸くする。今のは敬礼じゃない、もっと人間らしい、感謝を受け入れた合図のように見えた。副官はすぐに元の姿勢に戻るが、その背中がほんの少しだけ柔らかく感じられた。
「……悪い奴じゃないのかもしれないな。一緒にいれば、情も湧くってものか」
午後のニュースでは、連日報じられる能力犯罪の話題が続いていた。
『近頃、能力犯罪の発生件数は増加傾向にあり、政府と特災府の連携が……』
画面には、瓦礫の山となったビルと、消防隊員たちの必死な活動が映し出されている。炎と煙の中で、力を使おうとする能力者たちの姿。瀬崎はそれをぼんやりと眺めながら、自分の右手のひらをじっと見つめた。
「能力者、ねぇ……。数日前までの俺なら、対岸の火事だと思ってたよ」
彼は小さく肩を竦める。自分もまた、目覚めたばかりの「何か」の一部なのだという事実。それを隠し通すのは、まるで火遊びをしているような危うい生活だ。
「……まあ。普通に生活できるなら、それでいいか」
そう呟く瀬崎の横で、副官だけはニュース画面には目もくれず、ただ静かに窓の外を見つめ続けていた。彼が見ているのは外の景色か、それとも、いずれ訪れるはずの「戦い」の予兆か。
そんな副官の背中を見ながら、柊弥は穏やかな日常が、いつまで続くのかという小さな不安を、コーヒーの苦味と共に飲み込んだ。




