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第16話 『同行』


 翌朝。

 ジリリリリリリッ!

 心臓が跳ね上がるような、耳障りな目覚まし時計の音が、ワンルームマンションの静寂を容赦なく引き裂いた。瀬崎柊弥は布団の中で顔をしかめ、不機嫌そうに手を伸ばしてその騒音を黙らせる。まだ身体の奥底に眠気の澱が残る頭を掻きながら、彼はゆっくりと上半身を起こした。

「……んあぁぁ、今日は仕事か……」

 窓の外から差し込む光は穏やかだが、それ以上に身体が重い。そんな日常の鬱屈を抱えながら、柊弥は習慣的に部屋の隅へ目を向ける。

 そこに、彼はいた。

 昨日と何一つ変わらない姿で、影を纏った男が静かに敬礼して立っている。

「……。」

 もうここまでくると呆れてくる。むしろそこにいない方が違和感を覚える自分が少し嫌になる。

「……おはよう」

 自分でも驚くほど、自然に言葉が出ていた。男は何も答えないし、答えるはずもない。ただ、鏡のように自分を見つめ、姿勢を正したまま動かない。

     

 洗面所に向かい、蛇口を捻る。冷たい水が掌に溜まる。顔を洗おうと屈み、鏡越しに後ろを振り返ると、そこには必ず男の姿があった。

 顔を洗うときも、着替えるときも、ネクタイを締めるために鏡を凝視しているときも、彼は影のように後ろに控え、微動だにしない。

「……おい、お前。もうちょっと離れててもいいんだけどな」

 さすがに苦笑せざるを得ない。どんなに距離を取ろうとしても、彼が動けば副官もまた、精密な機械のように正確な距離感で追従してくる。まるで自分という存在と一対の影のように。

 簡単な朝食を済ませ、腕時計を嵌めて柊弥が立ち上がった瞬間、副官もまた音もなく立ち上がった。一寸の狂いもない連動。柊弥はしばし呆然と彼を見つめた。

「……なぁ。お前、ほんとに行く気か?」

 靴を履き、玄関のドアノブに手を掛ける。ガチャリと鍵を開け、扉を開く。外に出ると、副官も当然のように一歩前へ出て、柊弥の背後に位置を取り、胸元に手を添えて敬礼をした。

「いや……あのさ、敬礼だけじゃ何も伝わんねぇって!!」

 朝の静かな住宅街に、柊弥の間の抜けたツッコミが響いた。近所の住人が不審そうにこちらを見た気がした。副官は相変わらず無言だ。

 溜息を一つ。彼は悟った。こいつを置いていこうとしても、どうせ壁を通り抜けたりして付いてくるのだろうと。

「……はぁ。もう好きにしろよ」

 柊弥は頭を抱えながら、諦め混じりに歩き出した。副官は一歩後ろ、ちょうど主君を守る騎士のような完璧な位置取りで、静かに追従する。

     

 朝の通勤ラッシュ。新宿駅へ向かう人波は、濁流のように激しい。

 すれ違う会社員、部活へ急ぐ学生、犬を連れた老人。誰もが忙しなく行き交う中、柊弥はある事実に気づいて立ち止まった。

 副官は、自分の真後ろを歩いている。それなのに、誰一人として彼にぶつからない。誰も彼を避ける素振りを見せない。まるで、最初からそこに誰もいないかのように。

「……え?」

 後ろを振り返る。副官は敬礼して立っている。通行人は何食わぬ顔で、まるで副官の体をすり抜けるように歩いていく。

「見えてないのか……一般人には……」

 背筋がゾクリと冷えた。この存在は、自分にしか視認できない幻影なのか、あるいは精神に干渉する何かなのか。

 柊弥は確かめたくなった。近くのコンビニへ入り、ペットボトルのお茶を手に取る。レジへ向かう際、わざと副官を横に立たせたまま精算した。店員は笑顔で会計を済ませ、副官の存在には一切の関心を示さない。

「……やっぱりか。一般人には、見えてないんだな」

 小さく呟く。その事実は、この同居人が自分にとってより一層、特異な存在であることを突きつけていた。

     

 会社へ到着すると、さすがにオフィス内まで引き連れるのは躊躇われた。

「おい、ここからはさすがにダメだぞ。会社だぞ?」

 副官はいつもの敬礼。

「いや、だから敬礼じゃ分かんねぇって!……昨日はちゃんと従っただろ。『座れ』とか言ったら座ったし…」

 柊弥は少しだけ考え、社屋の入り口を指差した。

「……ここで待て」

 副官は入り口の脇に立ち、その場から一歩も動かなくなった。背筋を伸ばし、周囲を威圧するようなオーラを纏って直立する。

「……うわ。完全、衛兵じゃん。犬っていうか、マジで軍人だな……」

 柊弥は苦笑しながら社内へ入った。

 午前中の仕事中も、落ち着かなかった。資料をまとめ、メールを打ち、電話応対をしていても、窓の外の入り口に立っているはずの彼の姿が頭から離れない。

 昼休みになり、休憩室から外を眺めると、副官は相変わらず直立不動で立っていた。

「……休憩くらいしろよな」

「瀬崎、どうした?外に何かあるのか?」

 同僚に声を掛けられ、瀬崎は慌てて視線を逸らす。

「……あ、いや、何でもない。ちょっと外の空気が気になってさ」

「そうか?あんま無理すんなよ」

 笑顔で誤魔化し、席へ戻る。

「……ほんと、何なんだよ」

     

 退勤後、会社を出ると副官はまだそこにいた。

「一日中立ってたのか?バカかよ……」

 副官は当然かのように敬礼した。

「だから敬礼じゃねぇってば……」

「やっぱり軍人っていうより、犬みたいだな、お前。」

副官は静かに敬礼する。

「……。」

瀬崎は吹き出した。

「わんころ。」

「うん、お前は今日からわんころ。」

 呆れながらも、不思議と悪い気はしなかった。歩き始めると、また影のように付いてくる。

 帰宅し、ソファに倒れ込むと、テレビからはまた能力犯罪のニュースが流れていた。

そこにはまだ、力を使うことへの微かな恐怖と好奇心が残っている。テレビの向こう側では、能力犯罪者によって引き起こされた大火災が、建物を無残に食い潰していた。

炎に包まれるビル、逃げ惑う人々、そして炎の中に突撃していく特災府の隊員たちの姿。あまりにも現実離れした惨状に、瀬崎は無意識のうちに、自分の両手へ視線を落としていた。

「……もし」

ぽつりと、掠れた声が部屋の静寂に落ちた。

「もし俺が、この力を——制御しきれなくなって」

両手を握りしめ、彼は視線を部屋の隅へと移す。そこには、ただ静かに佇む「副官」の姿があった。

「わんころが、暴れ出したら……。俺も、あのニュースの中に映っている犯罪者たちと同じように、誰かを傷つける側に回るのか?」

その問いは、誰に届けるためのものでもなかった。窓の外で吹き荒れる風の音だけが、瀬崎の不安を嘲笑うように通り過ぎていく。

返事はない。

副官はただ、夕闇に溶けゆく街並みを厳しい眼差しで見据えたまま、その影をより一層深く濃くしていくだけだった。

 隅に立っている副官を見る。

「はぁ……考えたってしょうがないか」

 そう呟く瀬崎の近くで、副官は反応を示さない。しかし、その瞳だけは違った。彼はニュース画面の惨状には目もくれず、ただ静かに窓の外、夕焼けに染まる街を凝視していた。

 その視線は鋭く、まるで遠くで何かが起きるのを待ち構えているかのように。

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