第17話 『出陣』
夕暮れに染まり始めた街は、一見すれば昨日までと何も変わらない、安穏とした日常の残像だった。テレビから流れるニュースキャスターの無機質な声だけが、静かなワンルームマンションの空気を冷ややかに揺らしている。
『近頃、能力犯罪の発生件数は依然として増加傾向にあり——』
瀬崎柊弥はソファへ深く身体を預けたまま、テレビ画面に映る無機質な数字をぼんやりと眺めていた。その隣では、副官が相変わらず窓の外へ視線を向けたまま、微動だにせずに立っている。
「……なあ」
柊弥は冷蔵庫から取ってきた缶コーヒーのタブを弾き、一口含んでから声を掛けた。
「さっきから、何を見てるんだ?外には何もないだろ」
返事はない。副官は敬礼を維持したまま、ただじっと一点を見つめている。いつもなら話しかけたらすぐに応えるはずの彼が、一度もこちらを見ようとしない。その異様なまでの集中力に、柊弥の背筋に冷たいものが走った。
「……。」
嫌な予感がして、柊弥も立ち上がり、副官の視線の先を追った。
住宅街、行き交う車、信号待ちをする人々。平和そのものだ。
「……何もないじゃ……」
——その瞬間だった。
ドォォォォォンッ!!
腹の底を抉るような、地鳴りを伴う凄まじい爆発音が鼓膜を突き破った。窓ガラスが悲鳴を上げて激しく震え、部屋全体が大きく揺らぐ。棚の上に置いていたマグカップが床に叩きつけられ、無残に砕け散った。
「なっ……!?」
柊弥は咄嗟に窓へ駆け寄る。数キロ先、ビル群の向こう側から、巨大な黒煙が毒々しいキノコ雲となって空へ立ち昇っていた。
『速報です!速報です!』
テレビ画面が緊急用の赤い背景に切り替わる。
『新宿区にて能力犯罪が発生!大規模な爆発を確認しました!現在、特災府が現場へ急行しています!付近の住民は直ちに……!』
緊急速報の叫びは、最後まで聞こえなかった。
副官が、猛獣のように動いたからだ。
「……っ!」
彼は敬礼を解き、何も言わず、ただ一言も発さずに玄関へ向かった。その歩調には、躊躇が一切ない。まるで何かに導かれるように。
「おい!どこへ行くんだ!」
柊弥は叫ぶが、副官は止まらない。バタンと玄関の扉が開く音と共に、彼は外へ飛び出していった。
「ちょっ、待てよ!待てって!!」
柊弥は財布とスマホを掴み、裸足に近い状態で部屋を飛び出した。エレベーターを待つ時間さえ惜しく、階段を駆け降りて外へと飛び出す。
夕暮れの住宅街は、爆発音の衝撃で騒然としていた。
「今の音、何だ……?」
「ビルじゃないか? 黒煙が上がってるぞ!」
「特災府だ!あっちだ!」
住民たちが不安そうに空を仰ぎ、パニックの予兆が街を覆い始めている。その喧騒をかき分け、副官は一直線に走り続けていた。柊弥は必死に食らいつく。心臓が痛い。足がもつれそうになる。それでも、副官の背中だけは、夕陽に照らされても決して霞まなかった。
——ギギギギギ……。
頭上で異音がした。爆発の衝撃で固定が緩んでいたのだろうか。ビルの側面に取り付けられた巨大な金属製看板が、重力に負けて傾き始めている。
柊弥は前だけを見て走っていたため、頭上で起きている死の予兆に気づかなかった。
——バキンッ!!
鈍い音を立てて固定具が弾け飛ぶ。数トンはある巨大な看板が、柊弥の頭上へと真っ逆さまに落下を開始した。
「え——」
見上げた時には、空を覆うほどの金属の塊が迫っていた。逃げる時間はなく、死を覚悟したその瞬間。
副官が、初めて立ち止まった。
彼は右手を静かに腰へ伸ばす。その瞬間、彼の掌から溢れ出した漆黒の粒子が、大気を渦巻くように収束していった。
「ッ!!」
その手の中に、一振りの「軍刀」が具現化する。
副官は迷いなく一歩だけ踏み込み、腰を落とし、そして……。
——ギィンッ!!
街中の空気が凍りつくような、あまりにも鋭く、研ぎ澄まされた斬撃音が響いた。
一閃。
それだけだった。
落下してきた巨大な金属看板は、中心から真っ二つに両断され、何事もなかったかのように左右へ逸れてアスファルトを激しく叩きつけた。
ドォォォンッ!
粉塵が舞い上がり、周囲にいた通行人たちが悲鳴を上げて散らばる。柊弥は、その光景を呆然と見つめることしかできなかった。自分の目の前で、何が起きたのかさえ理解できない。
「……わんころ、今……」
柊弥の喉が引き攣る。副官の手から、軍刀が粒子となって霧散していく。
「……わんころ、お前…戦えるのか……?」
副官は無言だ。瀬崎の無事だけを、冷徹なまでの眼差しで一瞬確認すると、再び黒煙の立ち昇る方角へ身体を向けた。そこには、彼が守るべきもの、あるいは彼が戦うべき相手が待っているかのように。
「おい、待て!どこへ行くんだ!」
柊弥の問いかけを無視し、副官はまた走り出した。
遠くでは今も、爆発の余波でサイレンが鳴り止まない。炎、叫び声、混沌。そんな地獄のような現場へ向かって、副官は一直線に駆けていく。
柊弥もまた、恐怖と高揚感の狭間で、その背中を追いかけた。
これが、自分の隣にいた「副官」の正体なのか。
黒煙が空を覆う中、柊弥は副官の背中だけを見つめていた。もう、昨日までの日常には戻れない。




