第2話 『覚醒』
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、網膜を心地よく刺激する。来栖憂は重い瞼をゆっくりと持ち上げ、小さく欠伸を漏らした。
「……ん、あれ?」
身体を起こして、憂は首を傾げた。昨晩、自分を苛んでいた地獄のような高熱が、まるで嘘のように消え失せている。額に手を当ててみても、肌はひんやりと冷たく、体温は平熱そのものだった。それどころか、昨日までの倦怠感がどこかへ吹き飛んだように、視界は異常なほどクリアで、思考も鋭く冴え渡っている。
「夢か……いや、体温計は確かに動いてたよな」
枕元に転がる体温計を手に取る。ディスプレイには、昨夜の数値がメモリとして残っていた。39.8度。あれだけの熱を出して、一晩でこれほど爽快に目覚めることなど、到底考えられない。
「まあ、元気ならそれに越したことはないか」
憂は首を軽く回し、気を取り直して大学へ向かう準備を始めた。
大学のキャンパスへ足を踏み入れると、同じ講義をとっている友人の平田が、憂の顔を見て目を丸くした。
「おいおい、来栖。お前、昨日『死にそうな熱が出た』ってLINEで言ってたろ? そんな顔色でよく来られたな」
「いや、それがさ、今朝起きたら何故か完璧に治ってて。自分でもびっくりだよ」
「えー、マジで? 嘘だろ。お前、実は超人か何か?」
平田が冗談めかして肩を叩く。憂は苦笑してその手を避けた。
「超人なんてそんな……ただの風邪の引き始めだったんだろ。一晩寝たら免疫が爆発したってことにしておいてくれ」
「うわ、うらやましい。俺なら絶対二日は寝込んでるわ。まあ、元気そうで何よりだけどさ」
憂は笑って流したが、内心では少しだけ、その言葉が胸に引っかかっていた。「超人」という言葉。それは、昨夜寝る直前に自身が抱いていた、かすかな期待と重なる。
講義中も、憂の意識はどこか上の空だった。窓の外を見やれば、能力者が起こした事故の清掃作業を急ぐ特災府の車両が見える。かつて憧れた英雄の姿。——自分の中に、彼らと同じ力が眠っているのではないか? そんな、馬鹿げた妄想が頭から離れない。
講義を終え、夕暮れ時の街を歩いて帰宅する。玄関のドアを閉め、鍵をかけた瞬間、憂はドサリとソファに身を投げ出した。
「……疲れた。やっぱり体調が戻ったとはいえ、病み上がりなのは変わらないか」
天井を見つめる。昨夜感じたあの奇妙な熱、そして身体の奥底から湧き上がるような得体の知れない感覚。憂はゆっくりと上半身を起こし、テーブルの上に置かれたコップに視線を向けた。
「試してみるか。もし、本当に——。」
もし自分に能力があるのなら、昨日の高熱は「覚醒」の予兆だったのではないか。そんな、ありもしない可能性を確かめたくて堪らなくなった。憂はコップに水道水を注ぎ、それを両手で包み込むようにして見つめた。
「イメージしろ……何かを、動かす……変える……」
テレビで見た能力者は、誰もが流れるように力を使っていた。詠唱も、複雑な儀式も必要ない。ただ「そうなることを望む」だけで力は発動する。
——水よ、浮いたり、変化しろ。
祈るような気持ちで、憂は指先に意識を集中させた。数秒が経過する。何も起きない。部屋を包むのは、冷蔵庫のモーター音だけだ。
「……だよな。こんな都合よくいくわけないか」
憂は自嘲気味に笑い、立ち上がろうとした。その時だった。
「——っ!?」
指先が、ビリビリと痺れるような感覚に襲われた。手の中で、コップの水がボコボコと不自然な泡を立て始める。透明だった水面がみるみるうちに濁り、毒々しい紫色の膜が表面を覆っていく。
さらに、鼻を突き刺すような強烈な悪臭が部屋中に充満した。まるで、下水と腐肉を混ぜ合わせたような、有機物が腐敗した匂い。
「なんだ、これ……っ!」
反射的にコップを放り出す。コップはテーブルの上で倒れ、汚水が床に広がった。床板がジリジリと変色し、異臭はさらに強さを増す。憂は口を覆い、必死に洗面所へ駆け込んでうがいをした。胃の底からせり上がるような吐き気を抑え込みながら、憂は震える指先でスマホを掴んだ。
「落ち着け……落ち着け…」
「検索……細菌、操作、能力……」
震える指が画面をスクロールする。出てくるのは、能力犯罪者たちの残忍な手口と、それに対処する機関の記録ばかり。その中で、一つの専門用語が憂の目を射抜いた。
『病原体操作能力:細菌・ウイルスなどの病原体を生成・操作する能力
区分:災級指定
管理:要監視対象能力
——
※詳細情報は閲覧権限が必要です。』
「……これだ」
画面を握りしめる手が、今度は恐怖で震え始めた。自分が求めていた「能力」とは、こんなものではなかった。ビルを燃やすような派手な炎や、風を操るような爽快感など、ここには存在しない。人を助けることより先に、人を傷つけてしまうかもしれない力。
「なんで……なんで俺が……」
憂は床に座り込み、うずくまった。部屋中に充満する腐敗臭が、自分の内側から出たものだと思うと、たまらなく怖かった。
「もし……。」
憂はゆっくりと自分の両手を見つめる。
「もし誰かに触れてしまったら。」
「もし家族に触れてしまったら。友達は、大学ですれ違う人達は……。この力は、本当に自分の意思だけで制御できるのか…?」
外からは、帰宅する人々の賑やかな声や、遠くで聞こえる電車の音が聞こえてくる。昨日までと同じ、平凡な世界。けれど、今の憂にとって、その日常こそが何よりも遠いものに感じられた。
「嫌だ……こんなの、能力なんて……ただの『災厄』じゃないか」
誰にも言えない。この力は、誰かに知られれば、自分は間違いなく「犯罪者」として扱われるだろう。憂は暗い部屋の中で、ただ膝を抱え、自分の手を見つめることしかできなかった。その手は、もう昨日までの自分のものではなかった。
窓の外では、残酷なほど美しい夕焼けが、静かに街を飲み込もうとしていた。




