罪深き人よ、愛を誓おう
運転手の心臓発作だった。
灯里、由依を轢いた車はそのまま加速し大破するほどの衝撃で運転手は即死。病院に運ばれた2人だが、その小ささゆえなのか、比較的全身への傷が多かった由依とは反対に頭部を強打していた灯里はその損傷は大きく、病院に着いてまもなく死亡を確認され、4歳という幼さで旅立ってしまった。
その全てを目の当たりにしていた由依は小さな亡骸に縋りつきながら、そのまま気を失った。
そして、由依は昏睡状態となりそのまま目を覚さなかった。医師からは生命に関わるような怪我はなく、心因的なものだろうと診断された。
灯里を失った悲しみに浸る間も無く、灯里の葬儀が執り行われ、俺と由依の両親の3人で灯里を見送った。このまま由依もいなくなってしまうのではないか、誰も口にはしなかったがそんな恐怖に怯えていた。
日を追うごとにどんどん衰弱していく由依を見ていると目を離した隙に旅立ってしまうのではないかと、怖くて離れられなかった。
恐怖、悲しみ、不安、怒り。
どうしてこうなってしまったんだ、どうして灯里と由依だったのか。亡くなってしまった運転手を恨むことも責めることもできず、ただただ運命を呪うことしかできない。2人を救うことのできない、無力な自分を呪うことしかできなかった。
彼女が目を覚ましたと聞いた時、制止するお義母さんを振り払い、彼女の元へ駆け寄った。本当によかった、由依を失わなくてよかった、その一心で、彼女を強く抱きしめようとした、その時だった。彼女は恐怖に怯えた瞳で蓮を捉え、悲鳴を上げた。目の前で怯える彼女は、蓮の知っている由依ではなかった。見ず知らずの他人になってしまったのだ。
何が何だか、わからなかった。
途方に暮れる蓮を、由依の両親は主治医の元へ連れて行った。解離性障害、それが由依につけられた診断結果だった。由依は幸せだった日々も含め、全ての記憶を心の奥底に沈めて、傷つきボロボロだった自身の心を守ったのだ。
現実が受け入れられず、何度も由依の元へ通った。そして、自分が夫であること、愛する我が子と3人で暮らしていたことを、必死に訴えた。
思いが通じたのか、由依はあらゆるきっかけを導線に何度も記憶を取り戻しかけた。そして、その度に灯里を失ったあの日に心が戻り、パニックを引き起こし再び昏睡状態へと戻る、その繰り返しだった。
由依に無理に思い出させて我が子を失う耐え難いあの経験を再びさせてしまった蓮は、己の罪深さに苛まれていた。忘れておいた方が幸せではないのだろうか、自身のしていることは間違ったことだ、そんな気がしてしかたなかった。
そんな日が何度も続き、蓮は由依に会うのをやめた。ただ、遠くからずっと、由依のことを見守り、残りの人生を由依のためにかけようと誓った。由依の両親に協力してもらい、由依の生活を陰ながら支えた。灯里には母親を奪ってしまい、申し訳ないが、その分、蓮がたくさん愛し祈り続けることを約束した。そして、納骨の日、灯里が寂しくないよう、灯里のお骨を由依の祖父母が眠る墓石へ納めることにした。少しでも、由依のそばにいれるように、由依が心から慕っていた優しい祖母に灯里を導いてもらえるように、そんな願いを込めて。
それからしばらくして、由依の記憶が安定し出した頃、蓮は疎遠になっていた叔母夫婦に連絡をとった。叔父の会社が、蓮たちが勤めていた企業を買収するという噂が立っていたからだ。記憶の不安定な由依が安心して働ける環境を作るために、蓮は両親を見捨てた叔母夫婦へと頭を下げた。由依のためなら、なんだってする、そんな気持ちだった。
追い払われる覚悟で行ったのだが、叔母夫婦はあっさりと蓮の申し出に対してできる限り協力するという返事をした。あまりにもスムーズに事が進み困惑している蓮に、叔母の陽子から予想だにしなかった事実を述べられた。
頑なに叔母夫婦と連絡を取らなかった蓮をしんぱいして、由依はこっそりと陽子と連絡を取っており、叔母夫婦は灯里にも会った事があるというのだ。あまりにも衝撃的な事実に言葉を失った蓮を、陽子は言葉を選びながらこれまでの経緯を説明してくれた。
両親が駆け落ちし、破門になったきっかけは代々続く会社の後継問題だった。名家の子息と結婚をする予定だった母は、当時大学教授をしていた父と出会い、恋に落ちた。両親に説得するも、親族が皆他界し、天涯孤独だった父は、家柄的にも職業的にも、祖父にとって許しがたかったらしい。婚約者のメンツもあったのだろう、祖父は断固として2人の結婚を許さなかった。そして、駆け落ちし、蓮が生まれ3人でひっそりと、幸せに暮らしていた。あの、事故が起こる日まで。
事故の日、蓮は両親から仕事の関係で出かける、と聞いていたのだが、実際は祖父から呼び出されていたのだ。婿養子をとり、家を継いだ陽子たちに子が成せないとわかったからだ。一度は縁を切ったが、血は繋がっている蓮を養子として向かい入れようとした祖父に、両親は蓮を道具のようにみていると怒り、日が暮れるまで激しい口論が続いたと言う。話は並行戦で、すっかりやつれ果てていた両親は、その話を蓮に内緒にしたまま、その帰り道に事故で帰らぬ人となった。
その結果、はからずとも蓮を養子に向かい入れることになった陽子は、両親の命を奪ったのは自分たちなのだという罪悪感が強く、蓮に合わせる顔がなかったという。蓮に恨まれているはずだ、自分が子を成せていれば、そんな自己嫌悪の日々だった。その数ヶ月後、祖父が亡くなり、蓮が家を出て行った。一生恨まれながら生きよう、それが蓮への罪滅ぼしだ、そう思い過ごしてきたある日、一通の手紙が届いたそうだ。蓮の婚約者を名乗る女性から、蓮と結婚する事、直接会って報告できなかった無礼を詫びる内容だった。
陽子は蓮の現状が知りたくて、ちゃんと幸せになって欲しくて、すがる思いでその手紙に返信を書いた。そして、何度も手紙のやり取りをして、蓮との関係性のこと、全ての責任は自分たちにあることを告白していたそうだ。由依は責めることも慰めることもせず、陽子の思いを受け止め、もし今後陽子たちと蓮が関係性を構築し直したくなった時に、協力させて欲しいと申し出たそうだ。
素直になれない蓮を心配し、そして、陽子たちの不器用さに、双方がすれ違っているだけだと感じたのだろう。それから、灯里が産まれてから一度、陽子の元へ会いに来てくれたと聞かされた時は、困惑しすぎて黙り込んでしまった。
自分たちの為に心を砕いてくれた由依に、今度は自分が力になりたい、そして、灯里の死を一緒に悼ませてほしい、と今度は陽子たち夫婦が蓮に頼んでいた。
あの人はどこまでもまっすぐで、想像の上をいく……。自分が見てきた、あの優しくてたくましい由依を思い出し、蓮は涙を押し殺した。
叔母夫婦の力を借りてから、由依を取り巻く環境は一気に変わった。蓮の教育係となった頃の記憶で止まった由依が、何一つ変わらずに働けるオフィスには事情を知った数名の社員たちで固め、蓮もまた、ただの後輩としての立ち位置で仕事に就いた。由依をサポートしながら仕事をこなすそんな日々が幾度となく繰り返されて行った。
そんなある日のことだった、足を痛めた陽子に変わってココを散歩させていた蓮が、たまたま由依と遭遇したのは。
ココは陽子の愛犬であり、由依が灯里とともに陽子に会いに行った際に懐いて遊んでいたらしい。そんな、ココの喘息のことを言われた時、心臓が凍り止まってしまうかと思った。
当初、あまり動かないココの呼吸の変化にいち早く気づいたのが由依だったのだ。由依がきっかけで、ココの喘息がわかりそこからみるみる回復していったそうだ。ココは今は薬で安定してる。それなのに、喘息だと由依が口にしたのは、少しでも記憶が戻ったのかもしれない、とはやる気持ちを抑えられなかった。
もしかしたら、今度こそ……あれほど由依が二度と苦しまないように、記憶を取り戻さないように距離を取ろうと固く誓っていたにも関わらず、もう一度由依と手を取りたい、一緒に灯里の弔いたい、また夫婦として歩みたい、そんな自分勝手な欲望に抗うことができなかった。
由依の記憶が戻ることを期待してしまったのだ。
それからはたかが外れたように、由依と共に過ごした。二度目の由依との恋は、過去に戻ったかのように楽しく幸せだった。毎日が眩しくて……苦しかった。灯里の存在をなかったことにしているようで、苦しかった。罪悪感が募ると共に、どうして灯里は死ななくてはいけなかったのか、その残酷すぎる運命を呪った。
やっぱり、由依に思い出してほしい。灯里と生きた眩い日々をともに語り合いたかった。
由依が水族館で倒れた時は、灯里が由依の中にしっかりと根付いているのだと確信した。幼い頃、エイに触れた瞬間に声が聞こえると灯里は蓮たちに訴えたのだ。由依自身も散り散りになった記憶を集め、灯里との思い出を反芻し思い起こそうとしているのだと思った。
もう、自分を抑えられなかった。
自分のことを、これまで一緒に歩んできた日々を思い出してほしい。灯里というかけがえのない宝を授かった素晴らしい日々を、大切な宝を失った深い悲しみを共に分かち合いたい。そして、夫婦揃って灯里を弔い、家族として由依の隣に立つことを許してほしい。そんな自分勝手な願いのままに、由依に近づき距離を縮めていった。
そんな思いとは裏腹に、由依が思い出を取り戻す度に、全てを思い出したとしたら、由依はどうなってしまうのだろうかという、漠然とした恐怖がどんどん影を深めていった。事故当初の全てを拒否し、心を殺したように閉ざしていたあの頃の由依の姿を思い出しては、寝れない日が続いた。
由依がいなくなってしまうことが、由依が壊れてしまうことが、なによりも怖かった。
そして、またもや愛しい我が子を亡くす残酷な経験をさせるのか。そんな酷なことを自分は望んでいるのだと、怖気付いた。
そんな罪深い意識と、由依をただただ求める純粋な欲求との狭間で、とうとう自分1人で思い悩むことに疲れ、由依を自宅に招いてしまった。家族3人で暮らしていた、あの家に。
由依が灯里と3人で撮った写真に気づいた時、俺は緊張で震える手を握りしめた。由依が戻ってきてくれる期待と、由依が壊れてしまう恐怖が高まっていくのが、心臓の痛みが物語っていた。
そんな蓮の残忍さを由依が気付き、それを熊と表現したことには驚いた。由依を恐怖の底へ落としうる、凶暴で残酷な存在であることを突きつけられた気がした。
それでもなお、蓮を愛すると言ってくれた由依。由依は過去の記憶を失いながらも、身の裂けるような深い悲しみを背負いながらも、蓮を受け入れてくれたのだ。
そんな由依が愛しくて、たまらなかった。




