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きっかけ

 由依と初めて会ったのは、大学生の時だった。時折、キャンパス内ですれ違う彼女は、いつも凛としていて落ち着きを払っており、たった3学年先輩なだけなのに、自分よりうんと歳上の大人に見えた。それでも、最初はなんの接点もなく、ただ時折見かける先輩でしかなかった。その他大勢の中の一人、そんな由依との距離が近くなったのは由依が4回生になった頃である。何気なく立ち寄るようになった図書館でよく顔を合わせるようになったからだ。

 会話をすることもなく、ただ時折目があって会釈する程度、他人以上知り合い未満、そんななんてこともないよくある関係。しかし、何度も見かけるうちに不思議とつい目で追っていた。なんでこの人はこんなに釈然としているのだろうか、と彼女の為人が気になったからだ。

 いつも微笑を浮かべて物腰の柔らかな口調なのに、人を見透かし射抜くような強い意志を持った瞳。最初は強そうな人と思っていたのだが、彼女を目で追うようになって気づいたことがある。


 彼女は意外と弱い人間であるということ。


 課題に追い込まれていたのか、はたまた何か悲しいことがあったのか、疲労が蓄積した表情は今にも倒れてしまいそうで、瞳には薄らと涙が浮かんでいた。いつも弧を描いている唇も驚くほどへの字に曲がっており、まるで幼い子どもが泣くのを我慢しているようだった。目にしたことのない彼女の表情に、珍しいなと遠くから見ていると、彼女の友人らしき人物が現れた。

 すると、先ほどの表情が嘘のように、すっといつもの柔和な表情に早変わりし、大人びた顔つきで何やら友人を慰めているではないか。さっきまでの落ち込みはなんだったのかと思うほど、見事な早変わりである。

 しばらくして、友人が席を立つと頬に手を当て、無理やり口角をあげて不器用な笑みを作る。

そんな事が度々続いた。どうやら、彼女は弱みを人に見せられない人間らしい。完璧だと思っていた大人な女性は、実は鎧を纏いまくっている年相応の女の子なのだと気づいた時、彼女の素顔に触れた気がした。

 

 その虚像はあまりにも脆くて弱くて、それでいて、とても強いと思った。


 それからというもの、ふと気づくと彼女を探しては、見つけるとまるでお気に入りを見つけた子どものように飽きもせずにずっと眺めては、他の誰かに彼女の弱さを悟られやしないかと、急に不安になって彼女の周りの男性を警戒するようになった。そして、ろくに喋ったこともない先輩に対して、いったい自分は何をしているのだろう、と呆れて訳もわからず自己嫌悪に陥った。

 由依にとっては、自分はその他大勢の他人の1人であるにも関わらず、近づいてくる他人に一丁前に独占欲を抱いている自分が恐ろしかった。

 きっと、これは恋じゃない。自分が見つけたから、自分のものだと錯覚しているだけだ。彼女を見ていると、自分が自分ではなくなるような恐怖心が芽生えてきて、彼女とこれ以上、距離が近づかないようにした。彼女と自分の人生が交差すれば、もう蓮は溢れる衝動を堪え切れないだろうから。この想いをこれ以上募らせないように、ただ、遠くから彼女を見ていた。

 脆くて強い彼女への憧れを、綺麗な思い出にした。


 しかし、運命というのは恐ろしいものだ。


 恋と呼ぶにはあまりにも稚拙な思いを、彼女の卒業という形で終えた蓮は、就職へ向けて学業に打ち込んだ。打ち込めば打ち込むほど、就活と修論でボロボロの彼女の姿が脳裏に浮かび、堪らなくなった。

 あの時、彼女はどんな気持ちだったんだろう、面接で何か心にもないことを言われてたんじゃないだろうか。彼女のもとに駆けつけて、あなたはすごい、よく頑張ったねと抱き締めたくなった。

 そんな日々の中で思いがけない奇跡が、蓮の元に舞い降りてきた。気になっていた会社主催のOB訪問の中に、あの変わらない柔和な笑みを浮かべた、少し大人びた彼女がいたのだ。

 あまりにも突然の出来事に、驚きを隠せずあからさまに顔を見て固まってしまった蓮に、彼女は気分を害した様子もなく、それどころか嬉しそうな声を上げた。


「よく図書館で勉強してたよね?うちの会社に興味持ってくれたんだ、嬉しいな」


 そう笑いかける彼女に、全身の血液が一気に沸騰したように熱を帯びる。


 仕舞い込んで、忘れ去ろうとしていた熱が、過去最高記録となり、逃れる術を持たない蓮を一気に飲み込む。もっと彼女のことを知りたい、彼女に自分のことを知って欲しい、苦しくなるほどの彼女への憧れは貪欲な感情と成り替わり、今までかけてきたはずのストッパーが驚くほどあっけなく崩れ去ってしまった。


 和気藹々と様々な質問が飛び交う中、無害な当たり障りのない後輩を演じながら、虎視眈々と狙いを定める。一度諦めたはずの、恋というには甘すぎる憧れを、今度こそ確かなものにする。

 彼女を、久野由依をちゃんと好きになりたい、そして、彼女の隣に立ちたい。そのためには、必ずこの会社に合格する。

 驚くほど不純な動機で確定してしまった目標だが、由依という人間とともに働くことは必ず自身の財産となるという確信があったから、今後の目標が定まったことへの高揚感と満足感でいっぱいだった。


 その日から面接に向けて万全な準備を重ね、四年生になる頃にはすでに内定をもらうことができた。だがそれだけでは、由依は蓮に異性としての興味を持ってはくれないだろう。それでなくても、由依に少しでも頼りになる人間と思われたいと、役に立ちそうなことはとことん追求して、安心して卒業できるように卒論も全力で取り組んだ。周囲には就職先も決まって、卒論も目処が立っているのに、何をそんなに必死になっているのかと呆れられたが、会社で少しでも早く由依の隣に立てるよう、それだけを目指にしてきた。


 そして、ようやく入社の日。

 緊張しながら受け取った辞令には、由依と同じ部署名が記されていた。運命が味方をしている、そんな風に思えて仕方なかった。しかし、奇跡はこれで終わりではなかった。

 はやる胸を抑えながら向かった部署で、指導係として紹介されたのが由依だった。ずっと憧れていた由依と一緒に働けるだけでなく、指導係なんて、1番近い位置にいる後輩になることができるなんて、嬉し過ぎて興奮を抑えることができなかった。その日から、着々と由依の恋人の座を狙って、外堀を埋めていった。

 由依に懐いている後輩という認識がフロア中に広まった頃には、彼女自身も、仲の良い後輩の1人として自身の懐に入れてくれるようになった。彼女との距離が近づき、動物が好きなこと、意外とお酒に強いこと、少し気にしいなところ、繁忙期になると机が荒れだすこと、そして、誰かを助けようと自分のことを後回しにしてしまうところ。たくさんのことを知った。中には意外な一面もあったし、驚くこともあったけれど、それでも彼女は、あの日蓮の憧れた彼女のままで、弱くて脆くて、でもとてつもなく強くてあたたかい彼女が変わらずにそこにいた。

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