隠していたこと
翌日、羽澄の指定した駅の最寄駅に降り立った由依はスマホを手に取り、彼からのメッセージを確認する。SNSの画面は変わらず、昨日の夜に交わしたやりとりが表示されていた。時刻は午後5時を回ったところ。三連休の中日ということもあり、今日会うというということは、きっとそういうことなのだろう。
今日、この時間にここにくる、それが由依の出した答えなのだ。
そわそわと、落ち着かない心を持て合していると、視界の端に待ち望んでいた人の姿が見えてきた。その人は由依の姿を見た途端、ほっと相貌を崩す。
「由依さん……来てくれたんですね」
もう2人には言葉など必要なかった。手を繋いだ2人は、夕日に染まった街並みを横切り、まっすぐに羽澄の部屋を目指す。なんとなく親しみのある通りは、初めて通るはずの由依にあまりにも馴染んでいた。
初めてじゃないような、不思議な感覚は普段の由依なら機敏に感じ取っていたであろう。しかし、羽澄との関係性が変わる、この瞬間にそんなことを考える余地はなかった。
エレベーターを降り、羽澄の部屋の前まで来た羽澄は、鍵を回そうとして、徐に動きを止める。そして、由依の方へ向き直り、「本当に、いいんですね?ここに入れば、もう戻れませんよ」と最終通達を下す。
羽澄と恋人になるのに、なんの後悔が生まれるのだろうか。それほどまでに慎重な羽澄が焦ったく、由依はその胸元に飛び込んだ。
「大丈夫だから……」
羽純が由依の細い肩を抱きしめる。もう、逃がさないとでも言いたげなほど、強い力で。そのまま乱暴に扉を開けて中に入る。時間を惜しむように、靴を脱ぎ捨て由依の腰に腕を回し、幼い子を抱き上げるように由依の体を持ち上げる。
そして、そのまま奥の部屋に進むと、そこは羽澄1人で住むには広すぎるほどのリビングルームが広がっていた。大人3人が余裕で座れそうなほどの大きなソファの上に由依を降ろすと、羽澄は由依の前に跪いた。唇が、微かに震えている。
「ずっと、由依さんに黙っていたことがあるんです……」
痛みを堪えるような、硬く強張った声。これから何を告白されるのか、そんなに苦しいものなのか、由依は羽澄の苦しみを拭ってやりたくて、彼の頬にそっと手を伸ばす。その思いが伝わったのか、羽澄は困ったように微笑むと、由依の手を包み込むように自身の手を重ねてきた。
テレビの棚に立てかけてある、写真の女性がにっこりと微笑んだ気がした。
次の瞬間、重ねていた手が瞬く間に形を変えていくのを感じ、由依の注意は目下の彼へと注がれる。由依の手に重ねられていた彼の手は、いや、彼の顔は、人間のものとは思えないほど毛深くなっていく。
「蓮くん……」
その変化はみるみると全身に広がり、羽澄は人と熊の中間のような容姿に変わっていた。いきなりの出来事に困惑するも、彼が人ならざるものであることは明らかであった。
由依は驚きと同時に、どこか納得したような、彼から感じていた違和感の正体はこれだったのか、とすっきりした気持ちになる。そして、信じがたい状況にいるはずなのに、心は凪いでいて、なんの違和感もなく彼の全てを受け入れていた。
「蓮くんは、熊さんだったんだね」
そう言い彼の胸に縋り付く。
羽澄は困惑しているようで、長い爪を気遣うようにそっと手のひらでかすかに由依の肩に触れる。由依を傷つけまいとする優しさに胸がきゅんと音を立てて崩れる。
彼への想いが溢れ出す。
(由衣さん……どうして?)
困惑めいた彼の声が脳内に響き、たまらず由依は一層強く彼の胸にしがみつく。ぐるるるるという猛獣の唸り声が聞こえるが、怖くはない。この獣は、私が大好きな優しい彼なのだから。
(怖いですよね……逃げていいんですよ)
自嘲を含んだその声は、己を蔑み軽蔑しているようだ。たくさん傷つけられ苦しめられ、変わりたくてもどうすることもできなくて、自分にも他人にも絶望した、そんな目。
現実世界であり得ないことだとか、羽澄が人ならざぬ者だとか、一体彼が何者なのか、そんなことはどうでもいい。
彼は姿形が違えども羽澄なのだ、私を信じてくれた優しい彼だから。
由依にはそれだけで彼が何者でも充分だった。
たくさん傷ついて、悲しみに声を上げることもできず、1人で苦しみに耐えてきたであろう彼の唇にそっと口付ける。
「蓮くんは蓮くんだから……どんな姿でも、大好きな蓮くんだよ」
困惑で歪んだ男の頬をそっと包み込む。
彼の滑らかな肌を包む黒くて艶やかな毛を指先でそっと触れる。びくり、と彼の肌が粟立つ。大丈夫だよ、怖くないよ、と語りかけるようにゆったりと優しく撫でる。徐々に、彼の強張りが解けていくのを肌で感じ、嬉しくなって、好き、大好きと譫言のように繰り返す。
人ならざる肌から伝わる熱は、いつもの羽澄の体温そのもの。胸の奥から愛おしさが込み上げてきて、思わずそのふさふさとした胸元に飛び込む。
羽澄は一瞬身体を強ばらせたものの、遠慮がちにぎこちなく抱きしめ返してくれる。
胸いっぱいに羽澄の匂いを吸い込み、彼がここにいること、こうして触れあえることに、泣きそうになるほどの幸福を感じる。
「私、動物の声が聞こえて、ほんとによかった……」
きっと、この力はこのためにあったんだ。羽澄が伝えてくれる全ての想いを受け止められるように、たくさんの愛の声を聞き逃さないように。
彼という存在に、酔い溺れそう。
「蓮くん、好きだよ」
首に手を回し、自分に近づけるようにグッと引き寄せ、唇を合わせる。たかが外れたように、羽澄は由依を抱き抱え、寝室へとなだれ込む。
蓮くんの熱で、私の全てを喰らい尽くしてほしい……。
由依はそう願うと、そっと意識を手放した。




