溺れる
由依の住むマンションの前につくと、羽澄はすっかり血色を戻した由依の頬に手を当て、ほっと息をつく。
「今日はゆっくり休んでくださいね」
労わるような羽澄の手に胸をときめかせたのも束の間、その手をすぐに離し羽澄は「じゃあ、また」と来た道を引き返そうとする。あまりにも呆気ない様子に由依は思わず、羽澄を引き止める。
「あの、よかったら上がってく?お茶でも……どう?」
名残惜しさにそう引き留めようとしたが、羽澄はゆっくり首を横に振った。きっと、いいよと言ってくれるだろうと思っていた由依は、予想外の返答に肩を落とす。浮かれすぎだ、と自分の言動が恥ずかしくなって縮こまっていると、羽澄は困ったような小さな笑みを浮かべて、由依の手を掬い取るように両手で握り、由依と視線を合わせる。
「お誘い、すごく嬉しいです。でも、由依さんが思っているほど、僕は安全な男じゃありません。僕に、由依さんのこと、大事にさせてください」
熱を帯びた視線に言葉が詰まる。
陸に打ち上げられた魚のように、息ができない。羽澄の祈るような視線から逃れられない。
「由依さんのことが好きです」
はじめて、言葉としてまっすぐな好意を伝えられ、由依の思考はショート寸前だった。いい年した大人なのに…、いや、大人だからこそ、少年のようなまっすぐな熱が眩しすぎて溶けてしまいそうになる。
恋に、彼に、溺れていた。
震える唇で、わたしも、と口にしようとするも言葉にならない。人は眩しすぎるものに直面すると、言葉を失うのだな、と動揺する胸の奥で微かに思う。
羽澄は声を失った由依に耳を寄せる。艶のある、深い胸の奥底に響く声。
「もし、由依さんも同じ気持ちなら…明日、もう一度会ってもらえますか?今度は僕の家で」
下から支えるように手を繋いでいた羽澄の指先が、由依の手を握り締めたまま、行き場もなくこぢんまりとおさまった彼女の手の甲を名残惜しそうにさする。
「実家と順番が逆になっちゃったんですけど、今度は僕が住んでいるマンションの方です。そしたらもう、遠慮はしません」
彼はそう言うと潔く由依の手を解放した。目の前にいる彼が、いつも知っているはずの羽澄でいて、でもどこか知らない人のような、そんな微かな違和感が心によぎる。しかし、由依の意識はもう、彼の告げた明日の中。彼への恋慕が由依の思考を麻痺させていく。微かな違和感は弾けて消えた。
「それじゃあ、また」と言い残した羽澄の背中を、その背が見えなくなってしまってからも、壊れた時の中でぼんやりと眺めていた。




