闇の中
遠くで、声がする。
よく知っているような、それでいて、全く知らない人のような、か細い女性の声。
涙を孕んだ声はこちらの胸が痛くなるほど、悲痛で満ちている。
声の主だろうか、遠くに女性の姿が現れる。長い髪を振り乱しながら、必死に何かを必死に抱きしめている。
離れたくない。
置いていかないで。
女性は必死に、胸元に抱き抱えた何かにそう訴える。その苦しげな声に、由依は思わず駆け寄ろうと腰を上げる。
その瞬間、足元が揺らぎ崩れ落ち、由依の体は宙に放り出された。周囲がどんどん黒に呑まれ、女性のいる場所だけが島のように残る。
深い闇の中に吸い込まれていくかのように、由依の体はどんどん地下深くへ引き寄せられていく。
何故だか、由依に恐怖心はない。なおもぼんやりと女性を見つめながら、その悲しみに応えるように一緒に涙を流す。
その悲しみ、よく知っている気がする……。
由依は闇の中へ、もう一度意識を手放した。
ハッと目を覚ますと、そこは見知らぬ白い天井で、すぐ傍には心配そうな眼差しの羽澄が由依の顔を覗き込んでいた。
「羽澄くん?ここは……?」
身体を起こそうとすると、羽澄が慌ててその背中を支える。
「救護室です。由依さん、ふれあいコーナーで倒れてしまって……」
ふわふわとした記憶を手繰り寄せる。
そうだ、エイに触れたら声が聞こえてきて、そのあまりにも強い思いに圧倒されて、意識が遠のいたのだ。慌てる羽澄に、由依は気分不良と訴え、近くにいたスタッフに案内されて由依を救護室に運んできたらしい。そこの記憶が全くないのだが、ちゃんと受け答えをしていたようだ。
「顔があまりにも真っ青で……。どこか痛いとことか、苦しいとこはありませんか?」
とりあえず、救護室で休み症状が回復しなければ、病院へ行こうとしていた、という羽澄はとても心配そうな面持ちで由依の頬を撫でる。
「大丈夫。心配かけてごめんね」
そう笑いかけるも羽澄の不安は拭えていないようだ。動こうとする由依をまっすぐな視線で制す。
由依としてはよく経験していたことだから、倒れた後は「またか〜」と意外とケロッとしているのだが、間近で急に体調の悪くなる様を見ている身としては心配でたまらないのだろう。
しかし、動物の声が聞こえて脳がヒートしちゃった、なんて伝えることもできず、「大丈夫だよ!元気元気!」と再度訴えることしかできなかった。
その時、カーテンが開かれて救護室のスタッフらしき女性が、由依の様子を伺いにやってきた。女性は由依の顔色が戻っていることに安堵したようだが、念のためと近くの病院を紹介してくれた。由依は女性に御礼を伝え、反対する羽澄を半ば強引に連れて救護室を出た。なんとなく、救護室の病室然とした雰囲気が苦手なのだ。
もう少し休みましょう、と羽澄のは硬い表情のままで、近くのベンチに由依を座らせた。自販機でスポーツドリンクを買い、由依に手渡す。その冷たさに由依はほっと息をついた。
「無理をさせてしまって、すみません……」
スポーツドリンクを口にした由依の横に座り、身体を由依に向け、深く頭を下げる。
「えっ?!いや、そんな……!」
慌てる由依の手を覆うように握り締め、羽澄がもう一度、言葉を紡ぐ。
「俺がついていたのに、無理をさせてしまって……本当に自分が不甲斐ないです」
悲痛な顔で謝る彼を見ていると、ぎゅっと胸が切なくなる。羽澄の純粋な心が、まっすぐな言葉が、苦しい。
違うよ、羽澄くんのせいじゃないよ。そう言いたいのに、彼にどう思われるか怖い、という自分勝手な思いが邪魔をする。
その一方で、全てを曝け出したい、何一つ隠し事をせず、全てを打ち明けたい。そんな衝動が胸元へ湧き上がる。
体調が悪かったんじゃないよ、羽澄くんが無理をさせた訳でもないよ、ただ、動物の声が大きくなりすぎて悲しみに押しつぶされそうだっただけで、あなたは何も悪くないよ。
そう、声に出したくて、彼の苦しみや後悔を拭い去ってあげたくて。
でも、臆病な私がストップをかける。
変なやつと思われるかもしれない。過去に打ち明けた人の顔を思い浮かべる。
信じてもらえないだけなら、それでいい。
嘘つき、そう吐き捨て、仲良かったはずの友人が軽蔑で歪んだ顔をして去っていくのを幾度となく見てきた。もう誰にも言わないでおこう、そう幾度も思ってきたのに。
でも……。
由依は、羽澄の顔を見上げる。いつもは優しさに満ちている瞳が、不安と後悔、悲しみに占拠されている。
私のせいで、彼が悲しむのは嫌だ。




