呑まれ、落ちる
水槽は思ったよりも浅く、目の前にはエイやサメがゆったりと泳いでいた。おとなしい子たちなのだろう、泳ぐというよりは漂うに近くぷかぷかと波に身を委ねている姿を見ると、恐怖心が薄れ安心する。
特殊な訓練を受けているわけでもない一般人が触ってもいいくらいなのだから、攻撃的な種類のサメたちではないとわかっているが、サメというフレーズがもう怖いものと勝手に認識してしまっていた。
「思ったより滑らかですね」
恐怖心など全くない羽澄が目の前の小さなサメを優しく撫でて、意外そうに声を上げる。
すると、近くで見ていたスタッフの男性がにこやかに声をかける。
「尾ひれから頭にむかって撫でてみてください」
言われた通りに、今度はさっきと反対方向に触った途端、羽澄は目を輝かせる。
「サメ肌ですね…!」
羽澄の食いつきの良さに気をよくしたのか、男性スタッフが更に話しかけてくる。
「サメって一つ一つの鱗がすごく尖っているんですよ。その上、エナメル質でできていて硬い。そんな鱗が尾びれの方に向かってずらーっと並んでいるので、頭から触るか、尾びれから触るかで、こんなに違いが出るんですよ」
確かに、魚も鱗が一定方向に付いているから、頭から触るか尻尾から触るかで、引っ掛かる感じが違う。
「これが水の抵抗をぐっと少なくしてくれるんですよ。最近では競泳用の水着にも取り入れられたとか。じっくり触ってみてくださいね」
興味深そうに話を聞いていた羽澄にそう声をかけると、由依にも軽く会釈をして離れていく。
羽澄はもう一度、水槽に手を伸ばし優しくサメを撫でる。その姿がとても嬉しそうで、好きなことに没頭する少年のようで、由依の緊張を解いていく。不安がないわけではないが、それよりも触らせてもらいたい、という思いがむくむくと湧き上がってくる。
サメたちを驚かせないように、そっと水面に指を近づける。目の前をゆったりと泳ぐサメの背中を、まずは頭側から、そして、そのまま尾びれ側から。
優しく撫でるように手を左右に動かす。すると、その違いがはっきりと分かる。
猫に舐められたような、なんとも言えないざらざら感に由依はもう一度、尾びれ側からゆっくりと触る。
喜びと感動から口元に笑みが漏れる。その様子に、こっそりと見守っていた羽澄がほっと胸を撫で下ろす。口にはしなかったものの、不安が伝わっていたようだ。
サメ肌を堪能し、ふと視線を巡らすと、由依の立っている位置のすぐそばの水槽の端に、じっと動かずに佇んでいるエイの存在に気づく。
ぱちっと目が合った気がした。
不思議な感覚に導かれ、吸い込まれるようにすーっと手が伸びていく。水面に指先が触れ、その少し奥の、エイの背中へ。
その瞬間、バチっと何かが爆ぜる音が脳内に響き渡る。
寂しい。悲しい。置いていかないで。
エイの記憶、なのだろうか。
押し寄せる悲しみの波に埋もれた由依はそう認識するよりも前に、深く暗い闇の中に意識を手放していた。
何故だか、涙が溢れていた。




