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少しの不安

 楽しみにしていた、夏限定の催しであるくらげのコーナーは、爽やかな夏の夜をイメージさせる明るい月夜が広がっていた。風鈴が響く夏の夜をテーマにしているだけあって、流れてくる音楽には風鈴の音が使われており、そんな中にふわふわと舞い落ちるように泳ぐくらげの姿が、月を催した光に照らされ、なんとも幻想的な空間だった。

 海の生き物たちの展示をたっぷり堪能した2人は、館内に設置されているレストランで小休憩を挟み、この後のスケジュールを吟味する。


「館内はだいたい回れたと思うんですが…由依さん、他に気になるところはありますか?」


 受付でもらった三つ折りのリーフレットをテーブルに広げて、羽澄が問いかける。開かれたページを覗き込み、水族館側のオススメであろう吹き出しで説明が書かれたコーナーを目で追っていく。そして、ページの右上に書かれていたふれあいコーナーで視線が止まる。由依の視線を追っていた羽澄が、あっと声を上げる。


「そういえば、ふれあいコーナーはまだでしたね。えっと…サメやエイもいるみたいですね」


 羽澄の言葉に後頭部を殴られたかのような、鈍い衝撃が襲う。触るということは、声が聞こえる、ということだ。浮かれていたからだろうか、今の今まで、由依はそのことをすっかり忘れていたのだ。そして、触らなくても、近くに行けば聞こえるはずの声が、今日は全くと言っていいほど聞こえなかったことに気づく。

 自身の変化に戸惑う由依だが、無理もない。ここ最近は、動物の声を聞くということにネガティブな印象がなかったからだ。ココから聞こえてくる優しいあたたかな声は、由依の心から恐怖心を無くし、動物の声を聞く力を安定させていったのだ。

 それに、と由依は自分の心を強く励ます。ここの水族館の生き物たちは、皆のびのびとしており、きっと、声が聞こえたとしても穏やかなものだっただろう。だから、大丈夫だろう。脳裏に顔を見せた、過去に聞いた保護犬たちの恐怖の声を胸の奥底へ沈める。

 大丈夫、そう思うと好奇心が増してくる。もっと近くに、海の生き物たちを感じたい。


「行ってみたい…」


 気がついた時には、もう声に出ていた。羽澄はぽつりと呟いた由依の言葉を優しく掬い取る。


「うん、いいですね。行きましょう」


 羽澄の優しい眼が由依の瞳を捉える。彼の瞳に映る自分が、あまりにも嬉しげで由依は照れ臭くなり、飲みかけのカフェオレを飲み干した。


 ふれあいコーナーは館内とは違い、館内の展示を静と表すとしたら、ここは明らかに陽であった。子どもたちの賑やかな笑い声が飛び交い、老若男女様々な明るい話し声がそこらじゅうから聞こえてくる。皆、ここで感動のボルテージが爆発してしまったのだろうか。人々の話し声に負けぬように、少し声を張って羽澄に話しかける。


「すごい人だね」


「さすが夏休みシーズンですね。この人だかりだと、全部回るのは厳しいかも…由依さん、気になるブースはありますか?」


 逸れないようにと繋いだ手をしっかり握り直して、羽澄が由依に問いかける。

 先程レストランで見た、パンフレットのサメやエイの写真を思い出した由依は、「私はサメとエイに触ってみたいかな…羽澄くんは?」と問い返す。すると、いつものにっこりとした幼い笑顔が返ってきた。


「僕もそこ、気になってたんですよ。サメに触れるなんてびっくりですよね」


 高い背を一際大きく伸ばし辺りを見渡す。そして、ふれあいコーナーの1番奥に面する、大きなプール型の水槽を捉えて、あそこですね、と指し示す。水族館側もイチオシのコーナーなのか、なかなかの混み具合だ。


「少し待つかもしませんね…大丈夫ですか?」


 心配げな彼の問いかけに、もちろん、と元気よく応える。この男はかなりの心配性である。由依が儚く崩れるガラス細工か何かだと思っている節がある、と由依は困ったような嬉しいような複雑な気持ちになる。この歳になって心配されるというのは、むず痒いがありがたいことだと、羽澄が自分を大切に思ってくれていることを痛感する。

 由依の元気そうな声を聞いて、羽澄は安心したようで、サメとエイのコーナーに視線を移し向かいながら、「人は多いですが、割と回転が早そうですね」とそんなに待たなくても良いかもしれない、と言う。人の多さに怯み気味であった由依には朗報である。

 空いたスペースにスタッフの方が案内してくれるようで、由依たちは手洗いを済まし列に並ぶ。決して、口の前に手を持っていかないでください、という一際目立つ赤色で枠を取られた注意事項に緊張感が増してくる。背中を、優しくそっと、触れるだけ…自分に言い聞かせるようにぶつぶつ呟いていると、同じように不安そうな女の子が母親の声が聞こえてくる。


「あかり、優しくそっとね。そうしたら、サメさんも触っていいよって言ってくれるわ」


「ほんと?サメさんにもしもしできる?」


「ええ、できるわよ」


「でも、あかり、ちょっと怖い」


「大丈夫。パパとママもついてるからね」


 微笑ましい会話に由依の緊張もほぐれていく。可愛い会話の主を探そうとあたりを見渡すも、周囲には声の主らしき小さな女の子はいない。


 近くで聞こえてる気がしたんだけど……気のせいかな?


 由依が不思議に思いながら首を傾げていると、くすぐったそうな声が降ってくる。声の主を見上げると、羽澄が困ったような恨めしそうな面持ちでこちらを見つめていた。どうやら、無意識のうちに羽澄の手を握ったり緩めたり、指先を捏ね回したりと、羽純の手で遊んでいたらしい。


「ごめんごめん」


 羽澄の手を解放してやると、「弄ばれた気分です」となんともツッコミずらい感想を述べてくる。無意識のうちに誰かの手を触っていると、指摘されたことがなかったので自分が自分でないような不思議な感覚になる。


「あっ、僕たちの番ですね。行きましょう」


 そうこうしている間に順番が回ってきたようだ。スタッフの方に手招きされ、大きなプールの空いているスペースに向かう。

羽純→羽澄へ訂正中です。

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