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愛は散っても桜は咲く。  作者: 百夜


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九章

退院の日から、それほど日は経っていなかった。

梅雨が完全に明け、本格的な夏が街を一気に塗り替えたその日、僕と咲楽は約束通り、地元の神社の夏祭りへと向かった。夕暮れ時の境内は、すでに多くの浴衣姿の参拝客や家族連れで賑わっており、赤や黄色の提灯が、またたく間に濃くなっていく夜の帳を仄赤く照らし始めていた。


人混みの少し外れた鳥居の近くで、僕はカバンの紐を掴んだまま、所在なく立ち尽くしていた。周囲から漂ってくるソースの焦げた匂いや、風鈴の涼しげな音、子供たちの歓声が、僕の鼓動をどこか落ち着かなくさせる。あの病院のテラスから二週間。本当に彼女は元気になったのだろうか。そんな一抹の不安を胸に抱きながら、僕は行き交う人々の中に、彼女の姿を探していた。


「おまたせ~!」


雑踏の向こうから、僕を呼ぶ澄んだ声が響いた。

ハッとして視線を向けると、人混みを縫うようにして、こちらへと走ってくる人影があった。トントン、カラコロと、履き慣れない下駄の音をせわしなく響かせながら、その少女は僕の目の前でピタリと足を止めた。少し息を切らしながら、地面を小さく踏み鳴らす。


そこにいたのは、いつも学校で見ている制服姿とも、病院での淡いパジャマ姿とも全く違う、目にも鮮やかな浴衣に身を包んだ咲楽だった。


紺地に淡いピンク色の金魚が泳ぐデザインの浴衣は、彼女の白い肌を驚くほど引き立てていた。いつもは無造作に下ろされている短い茶髪は、今日のために少し編み込まれてアップにされており、細い首筋と、白磁のようなうなじが露わになっている。提灯の温かい光がその横顔を柔らかく縁取り、彼女が呼吸をするたびに、胸元の帯が小さく上下していた。


「どう? 浴衣、にあう?」


咲楽は少しはにかむようにして、かわいげに両手をパッと横に広げた。そして、首をほんの少し右側に傾け、上目遣いで僕の反応を窺ってきた。彼女の頬は、走ってきたせいで少し上気しているのか、あるいは別の理由からか、ほんのりと朱色に染まっている。


僕は、言葉を失った。

彼女のその姿が、あまりにも眩しくて、そしていつもと違いすぎて、網膜に焼き付いた色彩を脳が処理しきれずにいた。僕は自分の視線が彼女の顔、首筋、そして広げられた小さな手のひらへと目まぐるしく彷徨うのを感じ、慌てて視線を斜め下の、彼女の足元に咲く小さな雑草へと逸らした。


「……う、うん。似合ってる」


僕は右手の親指で、自分の右の頬をポリポリと引っ掻きながら、蚊の鳴くような声で答えた。ポーカーフェイスを維持しようと必死だったけれど、自分の顔の温度が急激に上昇していくのが、はっきりと自覚できた。彼女の浴衣姿に目が慣れるまで、僕は彼女の顔を真っ直ぐに直視することなんて、到底できなかったのだ。


「それだけ?」


咲楽は不満そうに唇を少し尖らせると、逸らされた僕の視線を追いかけるようにして、さらに一歩、歩み寄ってきた。下駄の先端が僕のローファーのつま先に触れそうなほどの距離。彼女は身体を少し屈め、僕の顔をさらに下からのぞき込むような目線で見てきた。その大きな瞳の中には、僕を困らせて楽しもうという悪戯心と、ほんの少しの、本物の期待が混ざり合ってきらめいていた。


沈黙が二人の間に流れる。

すぐ近くを通り過ぎる若者たちの笑い声が遠く聞こえる中で、僕の耳には、ドクドクと不規則に脈打つ自分の心臓の音だけがうるさく響いていた。これ以上、この生殺しのような沈黙に耐えることはできなかった。僕は一度、深く息を吸い込み、逃げ場をなくした視線を、覚悟を決めて彼女の真っ直ぐな瞳へと戻した。


「……か、かわいいよ」


それは、僕のこれまでの人生における、最大級の勇気を振り絞った言葉だった。

言い終えた瞬間、心臓が爆発するかと思うほどに跳ね上がる。


「っ……!」


僕の言葉を聞いた瞬間、咲楽の動きが完全に止まった。

彼女の大きな瞳が、驚いたようにさらに丸くなる。次の瞬間、彼女の顔は、耳の裏まで届きそうなほどの勢いで、文字通り真っ赤に染まっていった。僕をからかうはずだった彼女の余裕は、その一言によって完全に消し飛んでいた。彼女は広がっていた両手を慌てて胸の前に縮め、カバンの紐をぎゅっと握りしめて、視線を激しく泳がせた。


(な、何よそれ……! 私から言わせたのに……恥ずかしいいいいい!! もう、バカ春樹! なんでそんな真面目な顔で言うのさ……! でも、そっか……この服装、かわいいんだ……。よかった、頑張って着付けてもらって本当に、本当によかった……!)


咲楽の脳内は、未曾有の大パニックに陥っていた。

胸の奥から湧き上がる、心臓を鷲掴みにされるような激しい羞恥心と、それ以上の圧倒的な嬉しさが混ざり合い、彼女の思考は完全にショートしていた。自分の顔がどれほど赤くなっているか、想像するだけでさらに体温が上がる。


「い、いこう? ……何、たべるー?」


数秒の激しい動揺の沈黙の後、咲楽はロボットのようにぎこちない動きで前を向くと、引きつったようなカタコトの声で言った。彼女は僕と目を合わせないように、不自然に大きな歩幅で、だけど下駄のせいで少しヨロつきながら、参道の奥へと歩き出した。僕はその少し赤い背中を見つめながら、小さく息を吐き出し、彼女の後を追うように足を動かした。


立ち並ぶ屋台の放つ熱気と、白熱灯の強い光が、参道を色鮮やかに照らし出していた。

焼きそば、たこ焼き、かき氷――。様々な匂いが鼻腔を突き、浴衣を着た人々の波が僕たちの間を割るようにして流れていく。咲楽は下駄の扱いにまだ慣れていないのか、時折小さく足元をふらつかせながらも、僕の少し右側を並んで歩いていた。


二人の間には、先ほどの照れくささの余韻が冷めやらぬまま、静かな沈黙が続いていた。

僕は歩きながら、なんとかこのぎこちない空気を打破しようと、必死に頭を回転させていた。普段、自分から話題を提供するなんてことは皆無に等しい僕が、彼女のために無理にでも言葉を探している。視線を右側の屋台の看板へ向け、それから彼女の横顔へと移し、意を決して口を開いた。


「……よく、夏祭り行くの?」


出たのは、ありきたりな、いかにも話を繋ぐためだけの不器用な問いかけだった。


「うん! 毎年友達と来てたよ。……春樹は?」


咲楽は待ってましたとばかりに、僕の方へと顔を向けた。歩きながら、僕の顔の表情を隅々まで覗き込むようにして聞いてくる。その瞳からは、先ほどまでの激しい動揺は少しだけ収まっているようだったけれど、まだ頬の赤みは完全には引いていなかった。


「……小学生以来、かな」


僕は少し気恥ずかしさを覚え、視線を前方の、人混みの頭の上へと逸らしながら答えた。他者との関わりを避け、部屋で本ばかりを読んでいた僕にとって、お祭りという大勢の人間が集まるイベントは、いつしか僕の選択肢から完全に排除されていたのだ。


「へー。じゃあ、すっごく久しぶりなんだね!」


咲楽は合点がいったように小さく頷くと、僕の顔を見て、今度は柔らかく、どこか愛おしそうな微笑みを浮かべた。彼女の視線が、僕の言葉の裏にある「孤独な過去」を優しく包み込んでくれるような、そんな温かさを感じた。


「うん」


だけど、僕の返事はそこで途切れてしまった。

「うん」の二文字の後に、どうやって会話を広げればいいのか、僕の拙いコミュニケーション能力では、どうしても次の言葉が見つからなかったのだ。

またしても、僕たちの間に沈黙が訪れる。参道の喧騒が、その沈黙を埋めるように大きく響く。僕は「何か言わなきゃ」と焦れば焦るほど、自分の視野が狭くなっていくのを感じていた。彼女の病気のこと、病院のテラスで交わした『愛』の定義のこと、電車の検索画面で見た『もう一度会いたい』という言葉――。様々な重い思考が頭をもたげ、僕の歩調が自然と少しだけ遅くなる。


そんな僕の迷走に気づいたのか、あるいはただ目ざとく何かを見つけたのか、咲楽が突然、僕の少し前でピタリと足を止めた。そして、左手をまっすぐに伸ばして、ある一つの屋台を指さした。


「あ! ベビカスだ!」


彼女の声は、先ほどまでの静けさを一瞬で吹き飛ばすほどに、弾んでいた。


「……え?」


僕は完全に自分の考え事に没頭していたせいで、彼女が発したその妙な略称が、一瞬だけ頭に入ってこなかった。歩みを止め、怪訝そうな表情で彼女の指先の先を見つめる。


「あ、ベビーカステラね!」


咲楽は僕の鈍い反応に少し呆れたように笑うと、くるりと僕の方を振り返って、言い直した。彼女の短い髪が風に揺れ、首筋の白さが再び提灯の光に照らされる。


「……知ってるよ、それくらい」


僕は自分の思考が完全に読まれていたような気がして、少しむすっとした口調で答えた。

僕がそう言うと、咲楽は「あはは、分かってるってば!」と楽しそうに笑いながら、迷うことなくその屋台の列の最後尾へと並んだ。僕も彼女から離れないように、そのすぐ後ろへと自然についていく。


屋台の鉄板の上では、小さな球形のカステラが、カチャカチャと小気味よい音を立てて次々とひっくり返されていた。焼き立ての、甘い蜂蜜と小麦粉の香ばしい匂いが、辺り一面に立ち込めている。その匂いを嗅いでいるだけで、なんだか胸の奥の強張りが少しだけ解けていくような気がした。


「うぁ……。めっちゃおいしそう!!」


咲楽は列に並びながら、鉄板の上で弾む黄金色のカステラをじっと見つめ、文字通り目をキラキラと輝かせていた。彼女の視線は、カステラの動きを熱心に追いかけており、その表情は、おもちゃ屋の前に立つ子供のように純粋だった。彼女が本当にこの瞬間を、このお祭りを心から楽しんでいることが伝わってきて、僕はその横顔を、ただ静かに見つめていた。


列はスムーズに進み、僕たちの番がやってきた。咲楽はカバンから小銭を取り出すと、店員さんにお金を支払い、温かい湯気が立ち上る紙袋を受け取った。


「ありがとうございまーす」


彼女は店員さんに向かって、お行儀よく、だけど嬉しさを隠しきれない笑顔で丁寧にお礼を言うと、紙袋を大事そうに両手で抱えながら、列の横へと抜けた。人混みから少し外れた、大きな木の根元の静かなスペースへと、僕たちは自然と足を進めた。


「うまーい! ……あ、春樹もいる?」


咲楽は紙袋の中から、まだ湯気が立っている小振りのベビーカステラを器用に一つ指先で脱まみ取ると、それを口の中へと放り込んだ。もぐもぐと不器用に口を膨らませて咀嚼しながら、彼女はもう一つのカステラを指先でそっと包むようにして掴み、それを僕の口元へと差し出してきた。


彼女の指先が、僕の唇のすぐ数センチ手前で止まる。カステラから立ち上る、甘くて温かい蒸気が、僕の鼻先をくすぐった。彼女の大きな瞳が、早く食べてみて、と促すように僕の目を真っ直ぐに見つめている。


「……僕は、いいや」


僕は、自分の声ができるだけ落ち着いたトーンになるように意識しながら、静かに首を横に振った。

本当は、彼女が差し出してくれたそれを食べてみたい気持ちがなかったわけではない。だけど、ここで彼女の手から直接それを受け取って食べるという行為が、あまりにも親密すぎて、僕の許容量を完全に超えていたのだ。もし食べたら、自分の顔がまたあの教室の時のように、限界まで赤くなってしまう。それが怖くて、僕はわざと冷静を装って断る道を選んだ。


「ちぇー。つまんねーのー」


咲楽は僕の冷ややかな拒絶に対して、露骨に不服そうな表情を浮かべた。

だが、どこか楽しそうにしていた。目を細め、唇を尖らせていた。そんな彼女を見ているとなんだかうれしかった。


引き留めた僕の言葉に、咲楽がどんな表情を浮かべたのか、僕は正確に確認することができなかった。なぜなら、彼女が僕の方を完全に振り返る直前、参道の喧騒の中から、ひときわ威勢のいい乾いた音がパン、パンと響いてきたからだ。


「あ! あれやる!」


咲楽の意識は、一瞬にしてその音のする方へと吸い寄せられていた。

さっきまでの少し拗ねたような、そして切なげな空気はどこへやら、彼女は浴衣の裾を小さく揺らしながら、ある一つの屋台を勢いよく指さした。電球の剥き出しの光に照らされたその場所には、コルク銃が何丁も並べられ、棚の奥には様々な菓子や玩具が整然と並べられていた。昔ながらの射的屋さんだった。


「一回でお願いしまーす!」


咲楽は下駄の音をカラコロと弾ませながら屋台の前に進み出ると、カバンから取り出した小銭を、木製のカウンターの上へ滑らせるようにして差し出した。その瞳は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように、好奇心で爛々と輝いている。


「あいよ。……おやおや、お兄ちゃんもやるかい? 女の子にいいところを見せるチャンスだぜ?」


ねじり鉢巻を巻いた、日焼けした顔の屋台のおじさんが、カウンターの上のコインを無造作に拾い上げて硬貨入れへと放り込みながら、僕に向かってニカッと白い歯を見せた。


「やろうよ、春樹! 二人でやった方が絶対楽しいって!」


咲楽がカステラの袋を僕の手に押し付けるようにして預け、僕の顔を横から覗き込んできた。そんな風に真っ直ぐな目で誘われてしまっては、僕に拒絶する選択肢など残されているはずもなかった。


「……じゃあ、一回」


僕は小さくため息をつきながらも、ポケットから財布を取り出し、おじさんにお金を渡した。


「あいよ! 太っ腹だねえ!」


おじさんの元気な声が境内に響き渡る。カウンターの上には、ずしりと重みのある木製のコルク銃が二丁、並べられた。


「よしっ、まずは私からね!」


咲楽は銃を両手で持ち上げると、「はっ」と短く気合いの入った声を漏らして、銃口を棚の奥へと向けた。

彼女の視線が、一瞬にして真剣なものへと変わる。小さなキャラメルの箱、カラフルなガムのパッケージ、そして棚の最上段に鎮座する、一等の景品――。

その一等の的は、木で作られた、かなり大きな直方体の塊だった。その重厚な佇まいは、軽いコルク弾をぶつけた小細工くらいでは、ビクともしないであろう圧倒的な存在感を放っていた。倒すのは、素人目に見てもかなり難しそうだった。


ポン、と気の抜けた音が響き、咲楽の放った第一発目のコルク弾は、的のはるか上を虚しく通り抜けていった。


「あ、あれ!? おかしいな……もう一回!」


彼女は何度も銃を構え直し、狙いを定めて引き金を引いた。キャラメル、ガム、そして一等――。しかし、彼女の放った弾は、あるものは的の手前で失速し、あるものは掠りもせずに風を切り、結局、一個の景品も落とすことはできなかった。


「うわああん、全滅だあ……」


咲楽は銃口から薄く立ち上る硝煙の匂いの中、大げさに肩を落としてみせた。そして、すぐに僕の方へと向き直ると、上目遣いで僕の手元にある銃を指さした。


「春樹ー。一等、取って! あのデカいやつ!」


彼女は僕の腕を軽く小突くようにしながら、最上段の木製の直方体をじっと見つめた。その瞳には、僕ならやってくれるかもしれない、という無邪気な期待が満ちあふれていた。


「えー……。僕も、こういうの苦手なんだ。……まあ、やってみるよ」


僕は困ったように苦笑しながらも、渡された銃を両手でしっかりと構えた。

周囲の雑音が、すっと遠のいていくような感覚。僕はゆっくりと深く息を吸い込み、そして吐き出した。身体の軸を意識して足を肩幅に開き、下半身をコンクリートの地面にしっかりと固定する。銃床を右肩に当て、左目で照準器の隙間からのぞき込む。

一等の直方体の、ちょうど中心よりも少し上の部分。重心のバランスが崩れやすい一点に、僕は狙いを定めた。


(ここだ――)


向きは完璧に固定された。指先をじわりと引き金にかける。

鼓動に合わせて照準が微かに揺れるのを待ち、呼吸を完全に止めたその瞬間、僕は引き金を引いた。


パチン、と鋭い音が弾け、コルク弾が真っ直ぐに一等の的へと飛んでいった。


カツン、と乾いた音がして、僕の放った弾は確かに一等の直方体の角に当たった。

的は一瞬、グラリと頼りなく揺れた。しかし、その圧倒的な自重を支えきり、元の位置へと何事もなかったかのように収まってしまった。倒すまでには、あとほんの少しの衝撃が足りなかった。


「おしいー!! かすったよ、今! 凄くおしかった!」


咲楽は僕のすぐ隣で、ぴょんぴょんと跳ねるようにして大はしゃぎしていた。自分のことのように悔しがり、そして興奮している彼女の姿を見て、僕は「やってよかったな」と、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。


「残念だったねえ、お兄ちゃん。でも、筋は悪くなかった。……よし、おまけだ! こんなかから、好きなの一個選んでな!」


屋台のおじさんが、カウンターの下からいくつかの景品が入ったカゴを取り出し、ポンと僕たちの前に置いた。そこは三等の景品が並ぶエリアだった。


「んー……。咲楽、どれがいい?」


僕はカゴの中の玩具を眺めながら、隣の彼女に視線を向けた。

正直に言って、僕自身には欲しいものなんて何もなかった。それに、この射的をやったのは、最初から彼女の喜ぶ顔が見たかったから、ただそれだけだったのだから。


「え? いいの……?」


咲楽は驚いたように、その大きな瞳をさらに丸くして僕を見つめてきた。カゴに向けられていた彼女の視線が、まっすぐに僕の目の奥へと注がれる。自分が一等を落とせなかったのに、僕が景品を譲ろうとしていることが、彼女にとっては予想外だったのかもしれない。


「うん」


僕は特に気負うこともなく、あっさりと答えて、彼女に選ぶよう促した。


「じゃあ……これ!」


咲楽は少しだけ嬉しそうに目を細めると、カゴの隅に置かれていた、手のひらサイズの小さな熊のぬいぐるみを指さした。茶色くて、少し不格好な、だけどどこか愛嬌のある顔をしたぬいぐるみだった。


「じゃあ、あれください」


僕は店主のおじさんに、彼女が指さしたものを伝えた。


「あいよ!」


おじさんは元気よく答えると、棚からその熊のぬいぐるみを手に取り、僕に向かって差し出してきた。僕がそれを受け取ろうとした、まさにその時だった。


「大切にするんだぞ、彼女さんのこと! こんな可愛いお嬢ちゃん、滅多にいないからな!」


おじさんは、境内のざわめきに負けないほどの大きな声で、悪戯っぽく笑いながら言った。その声は、僕の耳にはもちろん、すぐ隣にいる咲楽の耳にも、あまりにも明瞭に、はっきりと届いていた。


「っ……!」

「……っ」


その瞬間、僕たちの間に、今日一番の、凍りつくような沈黙が流れた。

おじさんの言葉が、僕たちの関係の境界線に、土足で踏み込んでくる。

「彼女」というその二文字の響きが、僕の脳内で爆音のように響き渡り、顔全体がカッと火がついたように熱くなっていくのが分かった。視線をどこに向ければいいのか分からなくなり、僕は慌てておじさんの手からぬいぐるみをひったくるようにして受け取ると、完全に彼女から顔を背けた。


隣の咲楽も、完全にフリーズしていた。

彼女の白い首筋から耳の裏にかけて、見る見るうちに鮮やかな赤色に染まっていくのが、横目でもはっきりと分かった。彼女は頭のてっぺんからポッポと煙を出しているのではないかと思えるほどに動揺しており、両手で浴衣の帯をぎゅっと握りしめたまま、地面の一点を見つめて固まっていた。


「……はい。これ」


僕は、自分の声が限界まで低く、そして掠れてしまうのを隠せないまま、彼女の方を一切見ずに、右手に持った熊のぬいぐるみを彼女の目の前に突き出した。


「……あ、ありがとう」


咲楽は蚊の鳴くような、掠れた声で応じると、僕の手からぬいぐるみをそっと受け取った。その指先が微かに触れ合い、お互いにびくっと身体を震わせる。彼女は受け取ったぬいぐるみを、まるで宝物でも扱うかのように胸元できつく抱きしめ、やはり僕の顔を見ようとはしなかった。おじさんの不用意な一言によって、僕たちの間の空気は、どうしようもないほどの気気まずさと、それ以上の甘酸っぱい緊張感で満たされてしまっていた。


射的の屋台から、数歩ほど歩いたところだろうか。

周囲の賑やかな声や、遠くで鳴り響くお囃子の音が、僕たちの間の気まずい沈黙を少しずつ薄めていく。

咲楽は、胸元に抱いた熊のぬいぐるみの頭を、自分の親指の腹で何度も優しく撫でまわしていた。彼女はその不自然な手の動きを続けながら、なんとかこの重苦しい空気を紛らわそうとするように、少し上ずった声で口を開いた。


「……結局、三等しか当たらなかったね」


彼女は前を向いたまま、少しだけ自嘲気味に笑った。

だけど、その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥には、またしてもあの重い罪悪感が頭をもたげてきた。彼女が一等の大きな的を欲しがっていたのに、僕の実力が足りなかったせいで、そんな小さな三等の景品で妥協させてしまった。彼女を喜ばせたくて銃を構えたのに、結局、僕は彼女の期待に完璧に応えることができなかったのだ。


僕は、その言葉に、なんて答えるべきなのか分からなかった。視線を自分の足元へと落とし、ローファーの先端がアスファルトを踏みしめる様子を見つめながら、ただ一言、短く言葉を絞り出した。


「……ごめん」


その声には、僕の不甲斐なさに対する本物の落胆が混ざっていた。


「えっ……!? 全然! 全然そんなことないよ!」


咲楽は僕の謝罪を聞いて、弾かれたように僕の方へと顔を向けた。その表情には、先ほどまでの照れくささは消え失せ、代わりに、僕にそんな顔をさせてしまったことに対する、強い罪悪感と焦りが浮かんでいた。


「私が、勝手にお願いしたことだし……。春樹、凄くおしかったじゃん! カツンって当たってたし、私はこれ、すっごく嬉しいよ? ほら、可愛いし!」


彼女は抱きしめていた熊のぬいぐるみを僕の目の前に掲げてみせた。彼女の大きな瞳が、僕の申し訳なさそうな表情を和らげようと、必死に光を放っている。

お互いがお互いを思いやるがゆえに、言葉が少しずつ空回りしていく。その優しい平行線が、僕たちの間の距離を、もどかしいほどに、だけど愛おしく保ち続けていた。


「……ねぇ。ちょっと、休憩しない?」


咲楽はぬいぐるみを再び胸元に戻すと、少しだけ肩の力を抜いて、僕の顔を覗き込むようにして言った。彼女の額には、人混みの熱気と、歩き回った疲労のせいで、微かな汗の粒がきらめいていた。退院直後だというのに、僕のペースに合わせて無理をさせてしまっていたのかもしれない。


「……わかった。じゃあ、あそこに座ろう」


僕はすぐに、周囲の喧騒から少し外れた、大きな境内の片隅にある木製のベンチを見つけて、そこを指さした。


「うん、そうしよ!」


咲楽はホッとしたように息を吐くと、下駄の音を少しだけ引きずるようにして、ベンチへと歩み寄った。


「はぁー……。疲れたー! 楽しかったけど、ちょっと歩きすぎちゃったかな」


ベンチに腰掛けた瞬間、咲楽は身体の力を完全に抜いて、背もたれに「だらーん」とした感じで寄りかかった。

浴衣の裾が少しだけ乱れ、彼女の細い足首が覗く。彼女は手に持っていた熊のぬいぐるみを自分の膝の上にちょこんと乗せると、大きく両腕を上に伸ばして、深呼吸をした。その無防備な仕草からは、学校では決して見せないような、僕に対する絶対的な安心感が透けて見えていた。


僕は彼女から拳一つ分ほどの距離を空けて、静かにベンチの隣へと腰を下ろした。

木製の座面は、夜の冷気を含んで少しだけひんやりとしていて、歩き疲れた僕の身体に心地よく馴染んでいく。屋台から少し離れたこの場所は、電球の光も届きにくく、周囲は心地よい静寂に包まれていた。遠くで聞こえるお囃子の音が、まるで別世界の出来事のように淡く響いている。


数分間の、穏やかな沈黙が二人の間に流れた。

風が木々の葉を揺らし、僕たちの髪を優しく撫でていく。

咲楽は、しばらくの間、膝の上のぬいぐるみの耳をいじっていたけれど、やがて、ゆっくりと、その小さな顔を上へと向けた。彼女の視線が、境内の大木の隙間から覗く、深い紺色の夜空へと吸い寄せられていく。


「ねぇ……。今日の月、なんかきれいじゃない?」


咲楽は空を仰ぎ見たまま、ぽつりと呟いた。

その声は、いつになく優しくて、どこか歌うような情緒を孕んでいた。

僕は驚いて彼女の横顔を見つめた。彼女の大きな瞳は、夜空に悠々と浮かぶ、白銀の満月をまっすぐに映し出しており、その瞳の奥で、月の光が綺麗に輝いていた。彼女の頬は、夜の涼風に晒されているはずなのに、先ほどのおじさんの冷やかしの余韻を残しているかのように、ほんのりと赤く染まったままだった。


彼女のその言葉の裏にある「意味」を、僕は知っていた。

本の世界に生きてきた僕にとって、文学の世界における「月が綺麗ですね」という言葉が持つ、あまりにも有名な、そしてあまりにも重い親愛の情の告白としての意味。

だけど、今の彼女がそれを意図して口にしたのか、あるいはただ、純粋に夜空の美しさに感動して言葉を漏らしただけなのか、僕には判断がつかなかった。もし、あの病院のテラスでの「愛」についての会話の続きなのだとしたら――。


僕の心臓が、再びトントンと、静かに、だけど激しく脈打ち始める。


「……そうだね」


僕はゆっくりと顔を上げ、彼女が見つめているのと同じ空を、同じ月を、僕も眺めた。


「月は……いつもきれいだけど。今日は、なんか……いつもより、きれいだね」


それは、僕なりの、精一杯の言葉だった。

ただの景色の肯定ではない。君と一緒に見ているから、君が隣にいてくれるから、だからこの月はいつも以上に輝いて見えるのだという、僕の胸の奥底にある、名前のつかない感情の告白でもあった。


二人の視線が、夜空の同じ一点で交差する。

白銀の光が、僕たちの浴衣の輪郭を柔らかく浮かび上がらせ、世界がまるで、このベンチの周りだけで完結してしまったかのような、圧倒的な美しさに満ちていた。


(このまま、月が動かなきゃいいのに――)


僕は、心の中で強く、強く願っていた。

病院の電車の画面で見た、あの『もう一度会いたい』という言葉。いつか彼女がこの世界からいなくなってしまうという、あの狂おしいほどの恐怖。それらすべての暗い未来を、この美しい月の光がすべて消し去ってくれるような気がしていた。

この輝くような「今」を、彼女の隣にいられるこの贅沢な瞬間を、僕はどうしても手放したくなかった。もし奇跡があるのなら、この夜のまま、永遠に僕たちの時間を閉じ込めてほしかった。


しかし、現実は非情だった。

止まってほしいと願う僕の想いを嘲笑うかのように、時間は確実に、そして静かに刻まれ続けていた。


「あ……。もう、こんな時間だ! 帰らないと!」


咲楽がふと、ベンチの横に置いていたスマートフォンの画面を点灯させ、そこに表示されたデジタル時計の数字を見て、小さく悲鳴のような声を上げた。

液晶画面の青白い光が、彼女の赤らんだ顔を現実の色彩へと引き戻す。


二人の間に流れていた、あの幻想的で、どこか永遠を予感させるような沈黙が、その一言によってガラス細工のように脆く、パリンと砕け散った。


「……そうだね。帰ろっか」


僕は胸の奥に湧き上がった、言葉にならない名残惜しさと切なさをグッと抑え込み、努めて冷静な声でそう言った。そして、膝の上に手を置き、ゆっくりとベンチから立ち上がった。

僕の動きに合わせて、浴衣の生地がサラリと音を立てる。


「うん……」


咲楽も名残惜しそうに、もう一度だけ夜空の月をチラリと見上げ、それから膝の上の熊のぬいぐるみをしっかりと両手で抱きしめて、ゆっくりと立ち上がった。彼女の下駄が、境内の砂利をサクッと踏みしめる。


輝かしい夏祭りの夜が、終わろうとしていた。

僕たちは、まだ赤みの引かない互いの顔を見合わせないようにしながら、並んで駅へと続く鳥居の階段へと、ゆっくりと歩みを進め始めた。後ろを振り返ると、あの丸い月が、僕たちの少し不器用な背中を、どこまでも優しく、そして静かに照らし続けていた。

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