十章
あんなに僕たちの皮膚を焦がしていた夏の太陽は、いつの間にかその勢いを失い、窓から差し込む光はどこか優しく、心細いものに変わっていた。廊下を吹き抜ける風にも、微かに枯れ葉の匂いが混ざり始めている。夏休みという長いモラトリアムが終わり、秋の気配が本格的に街を包み始めた頃、僕たちは再び、あの見慣れたコンクリートの校舎へと登校していた。
ガラガラと音を立てて教室の引き戸を開けると、そこには数ヶ月前と何も変わらない、いや、むしろ以前よりも密度の増した圧倒的な喧騒が広がっていた。
「あ、久しぶりー! 髪切った?」
「おはよう! 夏休みマジで一瞬で終わったんだけど」
「おっはー。宿題終わった? 見せてよー」
「おはよ。お前それ絶対やってないだろ」
あちこちで机を囲み、久しぶりに再会した友人同士が声を弾ませている。日焼けした肌を自慢し合う男子生徒や、スマートフォンの画面を見せ合って笑う女子生徒たち。教室全体が、まるで沸き立つ湯気のような熱気に満ちていた。
そんなクラスメイトたちの騒ぎをどこか遠くの出来事のように感じながら、僕は誰とも視線を交わさないよう、うつむき加減に自分の席へと歩みを進めた。カバンを机のフックにかけ、椅子を静かに引いて腰を下ろす。そして、周囲の音を遮断するための防壁代わりにするように、カバンから取り出した一冊の文庫本を机の上に開き、目を落とした。
指先でページの端を軽く押さえ、活字の列へと視線を走らせる。だけど、耳に入ってくる無数の笑い声や話し声のせいで、物語の内容はちっとも頭に入ってこなかった。僕の視線は文字の上を滑るだけで、意識の数パーセントは、どうしてもこの騒がしい空間のどこかにいるはずの「彼女」の存在を探そうとしてしまっていた。
トントン、と僕の机の端が小刻みに叩かれた。同時に、ガタガタと派手な音を立てて、僕の右隣の椅子が引かれる気配がした。
「よ! 久しぶり。元気してた?」
頭上から降ってきたのは、教室の喧騒に負けないくらい明朗で、どこか遠慮のない響きを持った声だった。
声をかけてきたのは、熊谷元気だった。夏休み前のホームルームで、担任の先生から「はしゃぎすぎないように!」と名指しで注意されていた、あの良くも悪くもクラスの中心にいる男子生徒だ。
僕は本に向けていた視線をピタリと止め、ゆっくりと顔を上げた。
元気は自分のカバンを机の上に乱雑に放り出すと、椅子を僕のほうへと大きく傾け、僕の顔をじろじろと眺めるようにして覗き込んできていた。彼の視線には悪意があるようには見えなかったけれど、そのあまりにも真っ直ぐで不躾な観察眼に、僕はどうしようもない居心地の悪さを感じた。彼は僕の髪型や、表情の微かな変化を見落とさないと言わんばかりに、目を細めてこちらを値踏みするように見つめている。
数秒の、奇妙な沈黙が僕たちの間に流れた。
周囲の雑音が急に遠ざかったような錯覚に陥る。僕は彼の視線の圧力に気圧され、自分の喉の奥がキュッと締まるのを感じた。彼のような陽のあたる場所にいる人間が、どうして僕のような日陰者にわざわざ話しかけてくるのか、その意図が測りかねて、僕の瞳はわずかに泳いだ。
「う、うん。……まぁね」
僕は文庫本の端を握る指先に少しだけ力を込めながら、なんとかそれだけの言葉を絞り出した。自分の声が少し動揺して震えてしまったことに気づき、すぐに視線を元気の顔から外し、机の木目の傷へと落とした。
「はは、相変わらずだなー!」
元気は僕のそっけない態度を気にする風でもなく、白い歯を見せて快活に笑った。そして、自分の机の引き出しの中に手を突っ込みながら、さらに言葉を重ねてきた。
「また席近いね! 俺は嬉しいよ」
元気はそう言うと、今度は悪戯っぽく笑いながら、僕の顔を横から覗き込んできた。彼の視線は、僕がどんな反応を示すのかを純粋に楽しみにしているようだった。
また席が近い。
新学期に伴う座席の配置がどうなっているのか、僕は教室の後ろの黒板に貼られた座席表をまともに見ていなかったけれど、どうやら僕の隣は、前学期に引き続きこの熊谷元気という男に決まったらしい。彼が発した「俺は嬉しいよ」という言葉の本意が、ただの社交辞令なのか、それとも僕をからかうための前振りの冗談なのか、僕には分からなかった。
僕は、その言葉に対して何も答えなかった。
ただ静かに視線を本のページへと戻し、文字の羅列を見つめることで、彼の存在そのものを無視することを選んだ。これ以上関われば、また面倒なことに巻き込まれるかもしれないという防衛本能が働いたのだ。僕が完全に黙り込むと、元気は「ちぇー、つれねえの」とでも言うように小さく肩をすくめ、それ以上は話しかけてこなかった。
二人の間に、張り詰めたような、だけどどこか落ち着いた沈黙が横たわる。元気はスマートフォンを取り出して操作し始め、僕は頭に入らない読書を続けた。
その時、ガラガラと教室の前方の引き戸が大きく開いた。
その音と同時に、教室内を流れていた騒がしい空気が、一瞬にして冷や水を浴びせられたように静まり返っていく。
「おい、全員席につけー。ホームルーム始めるぞ」
出席簿の入った黒いファイルを小脇に抱えた担任の先生が、早足で教卓へと向かって歩いてくる。生徒たちが一斉に自分の席へと戻り、椅子を引くガタガタという音が教室中に反響した。
新学期の、いつもと変わらない日常の歯車が、音を立てて動き出そうとしていた。僕は開いていた本をゆっくりと閉じ、これから始まる退屈な時間の始まりを告げる教卓の音を、静かに待っていた。
秋の引き締まった空気が、放課後の校門を通り抜けていく。
今日のすべての授業が終わり、僕はいつも通り、誰とも約束を交わすことなく一人で下校の途についていた。通学路の脇に並ぶイチョウの葉が、僅かに黄色く色づき始めている。歩道に伸びる自分の影を見つめながら、ローファーの先で小さな石ころを弾く。
その時、僕の視界の端に、ひらりと翻る制服のスカートが見えた。
「ねー。暇だね! 何する?」
聞き慣れた、だけどいつも僕の予想の斜め上から降ってくる声。咲楽だった。
彼女はいつの間にか僕の真横に回り込んでおり、歩調を合わせながら、僕の顔を覗き込むようにして体を傾けていた。短い茶髪が秋の風に揺れて、彼女の大きな瞳がいたずらっぽく細められる。その距離の近さに、僕は一瞬だけ息を詰め、それからあえて面倒くさそうな表情を作ってみせた。
「……なんで僕が、暇な前提なんだよ?」
僕は視線を彼女の瞳から、少し前方の道路へと移しながら、わざとぶっきらぼうな口調で言った。
僕のその少し嫌そうな顔を見て、咲楽は歩みを止めることなく、くすくすと喉を鳴らして笑い始めた。その楽しそうな笑い声につられるようにして、僕の口元からも、ふっと緊張の糸が切れたような笑みが漏れ出してしまう。
二人の間に、短い、だけどひたすらに心地よい沈黙が流れる。街路樹の間から差し込むオレンジ色の斜光が、僕たちの歩く影を長く、一つに重ねるようにして路面に映し出していた。なんだか、胸の奥がじんわりと温かくなるような、とっても楽しい気持ちが僕を満たしていく。
「じゃあ……どこ行く?」
僕は前を向いたまま、少しだけ声をトーンダウンさせて尋ねた。行くあてなんてどこにもないけれど、彼女となら、どこへだって歩いていけるような気がしていた。
「んー……。私んち来てよ!」
咲楽は人差し指を自分の顎に当て、視線を少し斜め上へと向けながら、実にあっさりとそう言った。まるで「コンビニに寄ろう」とでも言うような軽さだった。
「な、なんでだよ! ……反対方向だし」
僕は歩みを止め、驚きのあまり声が少し裏返ってしまった。
心臓がトントンと急激に脈打ち始める。女子の家に行く。その事実の重さに、僕の思考は一気にパニックを引き起こしていた。僕は自分のカバンの紐を無意味に強く握り締め、動揺を隠すように彼女を凝視した。
「私の家、いっぱい小説あるよ? 今貸してるのだって、そろそろ読み終わるでしょ? ……ね?」
咲楽は僕の動揺を見透かしたように、さらに一歩、僕の方へと詰め寄ってきた。
彼女は身体を少し屈め、下からのぞき込むような目線で、その瞳の奥の光をキラキラと輝かせた。本という、僕にとって最大の弱みを正確に突いてくるその狡猾さと、それを包み隠すような無邪気な瞳。そんな風に真っ直ぐにお願いされて、僕に断るための言葉が見つかるはずもなかった。僕は諦めたように小さく溜め息をつき、彼女の視線から逃げるように首を縦に振った。
咲楽の家の玄関をくぐり、彼女の後について階段を上がっていく間、僕の耳には自分の衣服が擦れる音と、トントンと響く彼女のスリッパの音だけが大きく聞こえていた。
案内された部屋のドアが開いた瞬間、僕はその場の一歩手前で、完全に足をとめてしまった。
生まれて初めて入る、女の子の部屋だった。
部屋の中に一歩足を踏み入れると、保健室の消毒液とも、僕の部屋の古い紙の匂いとも違う、微かに甘い、柑橘系のシャンプーのような香りがふわりと鼻腔をくすぐった。白を基調としたインテリア、ベッドの上に置かれた小さなクッション、窓辺で揺れる淡いピンク色のカーテン。そのすべてが、僕にとって未知の領域であり、どうしようもないほどの場違い感を抱かせた。
「そこらへん座っといて!」
咲楽は僕の緊張なんて微塵も気にしていない様子で、背負っていたカバンをベッドの上へと放り捨てるようにして置いた。そして、手際よく制服のリボンを外しながら、すぐに下の階へと向かおうと部屋の出入り口へと歩き出す。
「あ、荷物、どこにでも置いといていいよ」
彼女は部屋のドアを通り過ぎたにもかかわらず、ひょっこりと顔だけをドアの隙間から出して、悪戯っぽく微笑みながら言った。その短い茶髪が揺れる様子を見つめながら、僕はただ、喉の奥を小さく鳴らすことしかできなかった。
「……っ」
ドアの向こうへ彼女の気配が消え、階段を下りていく足音が遠ざかっていく。
一人残された僕は、部屋の真ん中で完全に硬直していた。緊張のあまり、身体の関節がすべて強張ってしまったかのようだった。カバンをどこに置けばいいのか、床のどの位置に視線を落とせばいいのかすら分からない。部屋の物品をじろじろと見るのは失礼だし、かといって目を閉じるわけにもいかない。
僕は結局、部屋の隅にある小さな棚の脇に、自分のカバンをそっと立てかけるようにして置いた。そして、ベッドや机からできるだけ距離を置くようにして、部屋の真ん中でぽつんと突っ立てたまま、咲楽が戻ってくるのをじっと待つことにした。部屋を通り抜ける秋の風が、カーテンを静かに揺らし、僕の張り詰めた神経を静かに刺激し続けていた。
「おまたせ! お茶でいいよね?」
それほど時間は経っていなかったはずなのに、僕にとっては永遠のようにも思える沈黙の時間が終わり、咲楽が部屋に戻ってきた。彼女の手には、木製のトレイに乗せられた二つのガラスのコップと、冷たいお茶の入ったピッチャーがあった。
彼女は部屋に入るなり、僕の姿を見てピタリと動きを止めた。そして、次の瞬間、お腹を抱えるようにして吹き出した。
「あはは! まだ立ってたの? ww 座っていいって言ったじゃん! ww」
咲楽はケラケラと楽しそうに笑いながら、部屋の中央にある丸いローテーブルへと近づき、トレイをことんと音を立てて置いた。彼女の視線が、僕のあまりの生真面目さと不器用さを愛おしむように丸くなっている。
「ご、ごめん……」
僕は自分の顔がみるみるうちに熱くなっていくのを感じながら、消え入りそうな声で謝った。
緊張していた上に、彼女の笑い声に酷く焦ってしまい、僕はまるでその場に崩れ落ちるようにして、カーペットの上に座り込んだ。膝が床に強く当たり、少しだけ鈍い音が響く。その不格好な動作が自分でも可笑しくて、だけど恥ずかしくて、僕はすぐに視線を床の毛羽立ちへと落とした。
「いいってば、もうww はい、お茶」
咲楽はまだ少しだけ口元を緩ませながらも、ピッチャーから綺麗に澄んだ麦茶をコップへと注ぎ、僕の前へと滑らせるようにして差し出してくれた。ガラスの表面に結露した水滴が、部屋の明かりを反射してきらきらと光っている。彼女は僕の正面、丸い机を挟んだ反対側に、浴衣の時と同じように器用に足を崩して座り込んだ。
「どの本読む?」
咲楽は座ると同時に、僕の顔を真っ直ぐに見つめて尋ねてきた。その瞳には、さっきまでのからかうような光は消え、僕がこれから本を開くという行為に対する、純粋な好奇心と期待が満ちていた。
二人の間に、ほんの一瞬だけ、静かな間が空いた。
窓の外からは、遠くの道路を走る車の音がかすかに聞こえてくる。僕は自分のカバンから、夏休み前からずっと借りっぱなしになっていた、少し表紙の端が擦れた文庫本を取り出した。
「んー……。まずは、借りてたこの本を、読み終わらせるか」
僕は少しの沈黙の後、自分の声を落ち着かせるようにゆっくりと答えた。本の冷たい感触が指先に伝わり、不思議と少しだけ緊張が和らいでいく。
「おっけー! 読み終わったら教えてね? 私のおすすめの本、次にあるから!」
咲楽は満開の笑顔を僕の方へと向け、本当に嬉しそうに微笑んだ。
彼女のその表情を見つめながら、僕はページを静かに開き始めた。秋の静かな部屋の中で、新しい言葉のラリーが、僕たちの間でまた静かに始まろうとしていた。
カサリ、と最後の頁をめくる微かな音が、静まり返った部屋の中に溶けていった。
最後の一行を目で追い終え、僕はゆっくりと呼吸を整える。それから、借りていた文庫本をパタンと静かに閉じた。本が閉じるその小さく乾いた音は、僕たちの間に流れていた静謐な読書の時間を区切る合図のようだった。
「……読み終わったよ」
僕は胸元に本を抱えたまま、視線をゆっくりと机の向こう側へと動かした。
ローテーブルを挟んだ向こう側では、咲楽が自分の膝の上に顎を乗せるような姿勢で、僕が読み終える瞬間をじっと待っていたようだった。僕と言葉が交わされた瞬間、彼女の大きな瞳が嬉しそうに細められ、顔全体にパッと花が咲いたような明るい笑みが浮かんだ。
「ほんと?! じゃあ新しいほーんっと、おすすめ色々あるんだよな~。今日はこの3冊、読んでほしいな!」
咲楽は待ってましたとばかりに勢いよく上体を起こすと、あらかじめ自分の背後に用意していたらしい数冊の本を、机の上に滑らせるようにして僕の前に差し出してきた。彼女の細い指先が、それぞれの本の表紙をトントンと軽快に叩く。
それは彼女からの一方的なお願いごとだった。
普通なら、自分のペースを乱されるのを嫌う僕が「いや、今日はもう遅いから」と断るはずの場面だった。だけど、僕は彼女のその真っ直ぐな視線を受け止めながら、拒否する言葉を頭の中で探すことすらしていなかった。自分の指がごく自然に伸出され、彼女の差し出した新しい本の表紙に触れる。
なぜだろうか。最近の僕は、彼女の突飛なお願いや我が儘を、驚くほどあっさりと、まるでそれが当然の義務であるかのように受け入れてしまっている。
(……彼女の余命が、もう半年もないから、だろうか)
脳裏をよぎったその冷徹な事実が、僕の胸の奥をキリキリと締め付ける。
時計の秒針がチクタクと音を立てる部屋の中で、僕は彼女の笑顔をじっと見つめていた。僕と咲楽が出会ってから、季節は巡り、すでに半年以上の月日が流れていた。この限られた時間の中で、僕にとって堀北咲楽という女の子は、一体どのような存在になってしまったのだろう。そして、彼女の短い人生の終着点に向かう中で、彼女にとっての僕は、どんな意味を持っているのだろうか。
気になって、気になって仕方がなかったけれど、それを言葉にして彼女に問いかける勇気は、今の僕には微塵もなかった。
それに、出会った最初の頃からずっと感じていたことだが、彼女の弾けるような笑顔の奥には、どこか見覚えのあるような、切ない面影が隠されているような気がしてならなかった。それはまるで、遠い記憶の底にある何かを呼び覚まそうとするような、不思議な既視感だった。
新しく渡された本の頁をめくり始めながらも、僕の思考の何割かは、依然として彼女の存在について回り続けていた。
このころの僕は、一つの素朴な疑問を抱えていた。なぜ彼女は、学校でも指折りの変人であり、他人と関わろうとしない僕のような人間に、あんなにも執着するのだろうか。クラスの中心にいる熊谷元気たちと一緒にいる方が、彼女にとっても楽しいはずなのに。僕を強引に連れ回し、病室に呼び出し、こうして自分の部屋にまで招き入れるその熱量の理由が、僕にはどうしても理解できなかった。
だけど、彼女と過ごす時間が不快なのかと問われれば、答えは完全に否だった。
彼女の突飛な行動に振り回されるのは、僕の静かな日常を脅かすものではあったけれど、決して嫌なわけではなかったし、むしろどこかでその騒々しさを心地よいとすら感じている自分がいた。
ただ――ひたすらに、彼女と二人でいると、胸が苦しかった。
本の下端を握る親指に、ぎゅっと力が入る。
心臓のあたりが、目に見えない強固な鎖でギリギリと締め付けられるような、そんな鈍い痛みが常に伴っていた。言われてみれば、僕は彼女と初めて保健室で言葉を交わしたあの瞬間から、ずっとこの胸の締め付けを感じていたような気がする。
この、息が詰まるような、だけどどこか甘さを孕んだ痛みを、一体何と呼ぶのか、本の虫であるはずの僕はその名前を知らなかった。ただ分かっているのは、学校の放課後や休日、彼女と離れて一人で部屋にいる時間に、耐え難いほどの強烈な「寂しさ」が僕を襲うようになったということだけだ。彼女のいない世界という暗闇が、僕のすぐ後ろまで迫っているような、そんな予感に怯えていた。
「……春樹? 難しい顔して、全然ページ進んでないよ?」
咲楽の声にハッとして顔を上げると、彼女が机に両肘をつき、不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。
彼女の瞳が、僕の心の動揺を暴こうとするようにじっと動かない。
「……いや、ちょっとこの段落の表現を考えていただけだ」
僕は慌てて視線を本の活字へと戻し、今度こそ思考を物語の中に没入させようと、深く息を吸い込んだ。
それから、さらに一時間、二時間という時間が静かに流れていった。
部屋の窓から差し込んでいたオレンジ色の光は徐々に薄れ、代わりに深い紫色の影が部屋の隅々へと広がっていく。咲楽が立ち上がり、パチンと部屋の蛍光灯のスイッチを入れると、白い光が僕たちの手元を明るく照らし出した。
「ふぅ……」
僕は三冊目の本を読み終え、小さく息を吐き出しながら背筋を伸ばした。
時計の針は、すでに夕食の時間を指そうとしている。これ以上長居するのは、さすがに彼女の家族にも迷惑だろう。僕は座り込んでいた床からゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に置いていた自分のカバンを引き寄せた。読み終えた本を丁寧に重ね、カバンの中へと仕舞い込んでいく。帰るための準備を黙々と進める僕の動作を、咲楽はベッドの端に腰掛けたまま、静かに見つめていた。
カバンのジッパーを閉め、それを肩にかけようとした、その時だった。
「ねー。ちょっと待って」
咲楽の声が、いつになく少しだけ低く、だけど部屋の空間にはっきりと響いた。
僕が動きを止めて振り返ると、彼女はベッドから立ち上がり、自分の勉強机の引き出しから、あらかじめ隠しておいたかのような、古い一冊の単行本を取り出していた。
「この本も……読んでよ。それで、次に会った時に感想教えて!」
彼女はそう言うと、その本を両手で包み込むようにして持ち、僕の胸元へと差し出してきた。
彼女の明るい声はいつも通りだったけれど、その本を握る指先が、ほんの少しだけ微かに震えているのを、僕は見逃さなかった。彼女の瞳が、僕の目をじっと見つめて離さない。その強い視線には、「まだ帰ってほしくない」という寂しさと、その本を僕に読ませることに対する、何か重大な決意のようなものが混ざり合っているように見えた。
二人の間に、数秒の静かな沈黙が流れる。
窓の外で、遠くの街灯がぽつりぽつりと灯り始めるのが見えた。
「……わかったよ」
僕は彼女のその真剣な眼差しに圧されるようにして、短く答えた。そして、彼女の両手からその本を静かに受け取った。本を受け取る際、僕の指先が彼女の冷たい指に微かに触れ、胸の奥の締め付けがまた一段と強くなるのを感じた。
僕は本をカバンの隙間に押し込むと、今度こそ彼女の部屋のドアを開け、廊下へと出た。咲楽は僕の後ろを、下駄の時とは違う、静かな素足の足取りでついてくる。
トントンと階段を下り、僕たちは一階の薄暗い玄関へと辿り着いた。
僕がローファーに足を入れ、靴紐をきゅっと結び直す間、咲楽は三和土の一歩手前のフローリングの上に立ち、僕の背中をじっと見つめていた。玄関のドアノブに手をかけ、冷たい金属の感触が手のひらに伝わる。
ガチャリと音を立ててドアを開けると、外にはすっかり秋の夜長を思わせる、ひんやりとした冷気と暗闇が広がっていた。
「じゃあ、また明日、学校で」
僕は振り返らずに、そう声をかけた。自分の声が、夜の空気に吸い込まれていく。
「ばいばい!」
背後から、咲楽の突き抜けるような、だけどどこか切なさを孕んだ高い声が響いた。
その言葉の響きに、僕の身体は無意識のうちに反応していた。
僕は開けかけたドアの隙間で足を止め、ゆっくりと後ろを振り返った。玄関の淡い電球の光の中に立つ咲楽が、両手を胸の前で小さく振りながら、僕に向かって満開の笑顔を浮かべていた。その瞳には、僕の姿がしっかりと焼き付けられているようだった。
僕は彼女のその姿を見つめ返し、少しだけ気恥ずかしさを覚えながらも、右手を小さく上げて振り返した。
「うん、ばいばい」
もう一度そう言い残し、僕は玄関のドアを静かに閉めた。パタン、と錠が閉まる音が、僕たちの世界を再び二つに分断した。
秋の冷たい夜風が、僕の制服の薄い生地を通り抜けて肌を刺す。
僕はカバンの紐をきつく握り締め、誰もいない夜道を駅に向かって歩き出した。カバンの中で、さっき彼女から渡されたあの最後の本が、ずっしりと重い存在感を放っている。
この時の僕は、本当に愚かだった。
彼女のあの笑顔の意味も、渡された本の持つ本当の重みも、そして、この先に待ち受けている僕たちの運命のあまりの残酷さも――何一つとして、知る由もなかったのだから。街灯の下を歩く僕の影だけが、夜の暗闇の中に長く、寂しく伸びていた。




