八章
次の日の朝、僕のスマートフォンは一度も震えなかった。
いつもなら、目が覚めてすぐに「おはよー!」とか「今日の予定は?」といった、他愛のない、だけど僕の一日を強引に引っ張り出すようなメッセージが咲楽から届くはずだった。液晶画面を点灯させては、何も表示されていない通知欄を確認し、また消す。そんな無意味な動作を、僕は午前中のうちに何度も、それこそ数十回も繰り返していた。
夏休みが始まったというのに、僕の部屋にはセミの声だけが虚しく響いている。
一日が過ぎ、二日が過ぎても、彼女からの連絡は完全に途絶えたままだった。アプリのトーク画面を開いても、僕が最後に送った「うん。わかった」という文字の後に、新しい吹き出しが追加されることはない。
これまでは彼女の存在が僕の日常に過剰に介入していたせいで、それが急になくなった部屋は、まるで空気の薄いカプセルのように息苦しかった。「僕なんかと関わったせいで、本当に嫌気がさしてしまったのだろうか」という、あの校門前で抱いた不安が、再び黒い澱のように胸の奥底に溜まっていく。何度もスマホの電源を入れ直しては、電波の状態を確認する。だけど、画面は静まり返ったままだった。
彼女からの通知が来なくなって、数日が経ったある日の午後。
諦め混じりに机の上に放置していたスマホが、短い振動と共に一瞬だけ震えた。弾かれたように手を伸ばし、画面をロック解除する。そこに表示されていたのは、これまでの彼女の文体からは想像もつかないほど、短く、淡々とした一通のメッセージだった。
『私今入院してる』
そのたった七文字の文字列が視界に飛び込んできた瞬間、僕の思考は完全に停止した。
カバンの奥深くに隠されていたあの大量の白い薬のパッケージ、映画館で観た「余命半年」のタイトル、そして校門の前で見せたあの悲しげな横顔。それらすべてのピースが、最悪の形で頭の中で結びつき、心臓が凍りついたような衝撃が走る。
僕は自分が今どんな格好をしているかも顧みず、財布とスマホだけをポケットに押し込むと、部屋を飛び出していた。
外の熱風を浴びながら自転車を猛烈に漕ぎ、辿り着いたのは、街外れにある大きな総合病院だった。白い巨大な建物の中に一歩足を踏み入れると、あの保健室を何倍にも薄めたような、独特の消毒液と無機質な薬品の匂いが鼻腔を突いた。
「……すみません。堀北咲楽の、病室って……どこでしょうか」
フロントのガラス越しに、僕は息を切らしながら受付の女性に尋ねた。自分の声が驚くほど震えていて、指先が冷たくなっているのが分かる。受付の女性は僕の悲壮な表情に少し驚いたようだったけれど、手元のパソコンを素早く操作すると、「4階の402号室になります。エレベーターはあちらです」と静かに教えてくれた。
「ありがとうございます」
お礼を言うのもそこそこに、僕は歩き出した。
病院の中は走ってはいけない。そんなことは、子供でも知っている常識だ。壁にも「歩行者優先」「お静かに」といったプレートがいくつも掲げられている。
だけど、僕は走らずにはいられなかった。
一歩進むたびに、あの映画の結末のような最悪の想像が頭をよぎり、胸が押し潰されそうになる。リノリウムの床をローファーの底が擦る不快な音を響かせながら、僕は周囲の静寂を乱すようにして、階段を駆け上がり、4階の廊下を突き進んだ。
『402』
その数字が書かれたプレートの前に辿り着いた時、僕の息は完全に上がっていた。
ドアの手前で急に足がすくむ。この扉の向こうに、もし変わり果てた彼女の姿があったらどうしよう。僕は激しく上下する胸を押さえ、何度も深く深呼吸を繰り返した。冷たい廊下の空気を吸い込み、手のひらの汗をズボンで拭う。少しだけ鼓動が落ち着いたのを見計らって、僕は意を決して、静かに木製の引き戸を開けた。
室内は、驚くほど静かだった。
窓から差し込む夏の強い光が、白いカーテン越しに和らげられ、部屋全体を淡い乳白色に染めている。ベッドの上には、白い布団を頭からすっぽりと被った小さな膨らみがあった。
「……咲楽?」
僕が声をかけると、その布団の膨らみがピクリと動いた。
しばらくの沈黙の後、布団の隙間から、二つの大きな瞳がそろりと覗き込んできた。彼女は顔の下半分を布団の縁で隠したまま、僕の姿をじっと見つめている。その髪は少し乱れていて、いつもより心なしか肌の白さが際立っているように見えた。
「……きてくれたの?」
布団の奥から、少しこもった声が聞こえた。
その声には、僕が本当にここに来てくれたことが信じられないというような、小さな驚きと、それ以上の深い安堵が混ざり合っていた。彼女の瞳が、僕の姿を捉えたまま、細かく揺れている。
「うん……」
僕は病室の入り口近くに佇んだまま、少し照れくさそうに頭の後ろを掻いた。
急に連絡が途絶えたことへの怒りや、ここまで必死に走ってきたことへの気恥ずかしさが、今更になって押し寄せてきたのだ。僕は自分のカバンの紐を無意味に握り直し、彼女から少し視線を外して、ベッドの横に置かれた点滴のスタンドや医療機器のモニターへと目を向けた。
「大丈夫そうで……よかった」
もう一度、彼女の顔をチラリと盗み見る。布団から出た彼女の額には、あの校門前の時のように、確かな生命の熱が宿っているように見えた。管に繋がれて身動きが取れないような最悪の状態ではないことに、僕は心の底からほっとしていた。
「うん! 今はもう、全然大丈夫。なんか、最初はちょっとつらかったけどね」
咲楽はそう言うと、被っていた布団を自らの手でゆっくりと下ろし、いつものような明るい笑顔を僕に向けてみせた。ベッドの上に上体を起こす彼女の動作は、確かに数日前と変わらない軽やかさを含んでいる。だけど、その笑顔の裏に隠された、入院直後の本当の苦痛や恐怖を想像すると、僕の胸は小さく痛んだ。
「そっか……よかった」
僕は本当に、心の底から安堵のため息を漏らしていた。
彼女が無事で、生きていて、こうして僕の前で笑ってくれている。その事実だけで、この数日間の僕の心を支配していた暗い夜のような焦燥感が、嘘のように綺麗に霧散していく。彼女が死んでいなくて、本当によかった。その素朴で、だけど何よりも切実な思いが、僕の胸を満たしていた。
「ねー。私、今日から病院内なら歩いていいって先生に言われてるんだよね。……ちょっと、テラス行かない?」
咲楽はベッドから器用に足を下ろすと、僕の目をじっと見つめながら、小首をかしげて可愛らしく誘ってきた。その瞳には、狭い病室から抜け出したいという退屈さと、僕ともっと広い場所で話したいという密かな願いが、きらきらとした光となって混ざり合っていた。
病院の最上階に近い場所にあるテラスは、驚くほど広大で、そして遮るもののない夏の青空が広がっていた。
下界の喧騒から切り離されたその場所には、心地よい、だけど少し熱を含んだ夏の風が吹き抜けている。
咲楽はテラスの端にある、頑丈な鉄製の落下防止の柵へと歩み寄ると、その棒に両腕を乗せ、身体を前のめりにして預けた。彼女が着ている薄いピンク色の入院患者用のパジャマが、風を孕んでふわふわりと揺れる。短い茶髪が顔にかかるのを気にも留めず、彼女は遠くに見える街並みをじっと見つめていた。
「まさか、本当に来てくれるとはな~。私、てっきり来ないかと思ってた」
彼女は前を向いたまま、少しだけ声を弾ませて言った。その横顔には、自分の予想が外れたことへの嬉しさと、僕を少しからかうような、いつもの悪戯っぽいニュアンスが戻っていた。
「元気すぎ。……心配して来て、なんか損したよ」
僕は彼女の数歩後ろに立ち、少し口元を緩めながら、わざと呆れたような口調で言った。もちろん本心ではない。彼女が元気でいてくれること以上に、今の僕にとって価値のあることなんてなかった。
「なんでよ!!」
咲楽は弾かれたように僕の方へと振り返り、大げさに驚いたような表情を作ってみせた。その大きな瞳が、不満そうに、だけど愛おしそうに僕を真っ直ぐに捉える。二人の間に、いつもの放課後のような、心地よいテンポの時間が戻ってくる。
僕は彼女のその表情を見つめながら、一歩、彼女の方へと近づいた。
風が僕たちの間を通り抜け、彼女の髪を大きく乱す。その瞬間、僕の胸の奥から、どうしても伝えたかった言葉が、自らを制御する理性を超えて、滑り落ちるようにして口から飛び出した。
「……よかったよ。生きてて」
それは、自分でも驚くほど小さな声だった。
セミの声と、テラスを吹き抜ける風の音にかき消されてしまいそうな、彼女に聞こえるか聞こえないか、その境界線にあるような微かな呟き。だけど、その言葉には、僕のこれまでの人生で最も純粋で、最も重い本音が込められていた。
(え……? 今、え……?)
その瞬間、咲楽の身体が目に見えてビクッと強張った。
彼女は動きを止め、それからゆっくりと、信じられないものを見るような目で僕の顔を凝視した。彼女の耳が、僕の小さな呟きを正確に拾い上げていたのだ。
(私が生きてて……春樹は、嬉しいんだ……。うれしすぎるぅ!!!)
彼女の脳内で、歓喜の悲鳴が爆発していた。
彼女の白い頬が、夏の太陽の光とは明らかに違う、内側から湧き上がるような熱によって、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。彼女は僕と視線が合うと、慌てて視線を泳がせ、自分の両手で赤くなった顔を隠すようにして、再び柵の方へと向き直った。その背中が、微かに小刻みに震えている。彼女のそんな過剰な反応を見て、僕の方も急激に恥ずかしさが込み上げてきた。
「あ……これ、よかったら食べて」
僕はその場のお互いの動揺をごまかすように、右手に持っていたコンビニのビニール袋を、彼女の背中に向かって突き出すようにして差し出した。病院に来る途中、彼女が好きそうなゼリーやプリン、少し高めのフルーツジュースを適当に買い込んできたのだ。
「あ……ありがとう!」
咲楽は顔の赤みを少しだけ引かせると、振り返って僕の手から袋を受け取った。その指先が微かに触れ、またお互いに小さな沈黙が流れる。彼女は袋の中身を覗き込むと、僕の不器用な優しさを愛おしむように、本当に嬉しそうな、優しい微笑みを浮かべた。
僕は、彼女のその笑顔から逃げるように、彼女の隣に並び、同じように鉄製の柵に両手を置いた。眼下には、陽炎の向こうに広がる、僕たちの通う学校や、いつもの通学路の景色が小さく見えている。
(ねぇ。死なないでよ。君に、死んでほしくない――)
その言葉は、喉の奥まで出かかりながらも、僕は辛うじて飲み込んだ。今の彼女にそんな重い言葉をぶつけるのは、彼女の病状を不必要に刺激するような気がしたからだ。代わりに、僕はできるだけ平穏を装った声で、これからの未来の話をすることにした。
「……いつ、退院するの?」
街を見下ろしたまま、僕は尋ねた。
「2週間後! だから、夏祭りには余裕で間に合うね!」
咲楽も同じように街を見下ろしながら、今度は一切の陰りのない、満開の笑顔で答えた。「夏祭り」というワードが、彼女の口からごく自然に飛び出す。
「……一緒に行こうよ」
僕は、自分の声が少し震えるのを止められなかった。
自分から女の子を祭りに誘うなんて、人生で初めての経験だった。恥ずかしさと緊張で、心臓がトントンと早い脈を打つ。街の景色が、緊張のせいで少しだけぼやけて見える。
僕のその言葉を聞いた瞬間、咲楽の動きが再び止まった。
彼女はゆっくりと首を傾げ、僕の横顔をじっと見つめてきた。その瞳には、驚きと、それから世界中のすべての幸福を凝縮したような、深い喜びの色が湛えられていた。彼女の唇の端が、ゆっくりと、だけど確実に綺麗な弧を描いていく。
「もちろん!!」
彼女の声は、テラスの空へと高く、真っ直ぐに響き渡った。
その力強い返事に、僕は救われたような気がして、少しだけ張り詰めていた肩の力を抜いた。
二人の間に、再び穏やかな沈黙が訪れた。
夏祭りに一緒に行く。その約束が、僕たちの間に目に見えない温かい絆の糸を紡いだような、そんな心地よい錯覚に浸っていた、その時だった。
咲楽がふと、僕の方へと完全に身体を向け直した。その瞳は、いつになく真剣で、どこか深い哲学的な光を帯びていた。
「ねえ。春樹……『愛』って、どういう意味だと思う?」
彼女の口から飛び出したのは、あまりにも唐突で、そしてこの夏のテラスには不釣り合いなほどに重い、本質的な問いかけだった。
その瞬間。
まるで彼女の言葉に呼応するかのように、一陣の強い夏の風が、テラスを激しく吹き抜けていった。
バサバサと、僕たちの衣服が大きな音を立てて波打つ。咲楽の短い茶髪が風に煽られて大きく舞い上がり、彼女の白い額と、その奥にある真剣な瞳が、遮るものなく僕の視界に飛び込んできた。
突然の問いかけと、激しい風の悪戯。僕はその空気の中で、自分の胸の奥深くにある、これまで誰にも話したことのない、歪で、だけど僕にとっては唯一の「答え」を、ゆっくりと言葉にし始めた。
「……僕にとって、愛は……きっと、永遠に想うってことだと思う」
僕は前方の、陽炎に揺れる遠い地平線を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り出した。
「その人のことを……一生、いや、たとえその人が目の前からいなくなっても、死んでしまったとしてもなお、その人の存在を自分の中で大切に思い続け、その想いを永遠に失わないこと。それが、僕にとっての愛の定義だと思う」
他者との関わりを絶ち、本の世界だけで生きてきた僕にとって、「永遠」とは本の中にしか存在しないものだった。だけど、彼女と出会い、彼女を失う恐怖を知ってしまった今の僕にとって、愛とは、その喪失すらも超えて生き続ける、絶対的な心の在り方そのものだった。
僕がそう言い終えると、風は嘘のように凪いでいった。
静寂が戻ったテラスで、咲楽は僕の横顔を、言葉を失ったようにじっと見つめ返していた。彼女の瞳の奥で、僕の言葉が何度も反芻され、小さな波紋を広げているのが分かる。彼女の頬が、先ほどとは違う、どこか切ない熱を帯びて、ほんのりと赤く染まっていく。
「へー……そうなんだ。いい考えだね!」
咲楽は少し視線を落とし、照れたように自分の指先を弄りながら、小さな声で言った。僕の真摯な答えが、彼女の心の一番深い場所に届いたのだということが、その微かな仕草から伝わってくる。
「私にとってはね……」
彼女は再び顔を上げ、今度は僕の目を真っ直ぐに見つめてきた。その大きな瞳には、僕の「永遠」とは対極にあるような、今、この瞬間を必死に生きる者だけの、切実な光が宿っていた。
「愛ってきっと……『ずっと一緒に居たい』ってことだと思うな」
彼女のその言葉を、僕はすぐには理解することができなかった。
『好き』という感情には、いつか終わりが来る。一目惚れだって、時間をかけて育む好意だって、根底にあるのは「あの人のことをもっと知りたい」「今、この瞬間を一緒に居たい」という、現在進行形の一瞬の欲求だ。僕は、そんな一瞬の『好き』の積み重ねの果てに、時を超えた『愛』へと変わるものだと思っていた。だから、彼女の言う「一緒に居たい」という言葉は、僕にとっては愛というよりも、もっと手前にある『好き』の延長線上に思えてしまったのだ。
だけど、彼女にとっての「ずっと」が、僕たちのような何十年も続く未来を指しているのではないとしたら――。
もし彼女の「ずっと」が、残された僅かな時間を、命の灯火が消えるその瞬間までという、文字通りの限界の願いなのだとしたら。その可能性に思い至った時、僕の喉の奥は、再び激しい痛みを伴って締め付けられた。
「……なんで、急にそんなこと聞くの?」
僕は、自分の胸の中に湧き上がったその恐ろしい推測から逃げるように、少し困惑したような声を絞り出した。彼女の発した言葉の重みに、どう答えるのが正解なのか、今の僕には全く分からなかったからだ。
「わかんない! ただ、ちょっと気になっただけ!」
咲楽は僕の困惑を見透かしたように、いつもの天真爛漫な、だけどどこか寂しげな微笑みを浮かべると、それ以上は何も言わなかった。
彼女は柵から身体を離すと、ビニール袋を大切そうに抱え直し、僕を置いていくようにして、ゆっくりとした足取りで白い病室へと続く扉の方へ歩き出した。
トントン、と、彼女のローファーがテラスのコンクリートを叩く音が、規則正しく響く。
僕はその場に立ち尽くしたまま、彼女の少し小さくなった背中を、ただじっと見つめていた。夏の強い光が彼女の背中に降り注ぎ、その輪郭を白くぼやけさせていく。
ゴトゴトと、規則正しい振動が足元から身体へと伝わってくる。
病院の最寄り駅から乗り込んだ帰りの電車は、夕方の早い時間帯ということもあって、座席が半分ほど埋まる程度の適度な混み具合だった。車内には、冷房の効いた涼しい空気が Shooo とかすかな音を立てて流れている。吊り革が電車の揺れに合わせて一斉に同じ方向へ傾き、また戻る。その単調な動きを、僕はシートに深く腰掛けたまま、ただぼんやりと見つめていた。
僕の視線は、定まっていなかった。
吊り革から、向かいの座席の上の四角い週刊誌の広告へ、そして視線をさらに右へと動かし、誰もいないドアのガラス窓へと移す。窓ガラスには、夕暮れのオレンジ色の光に照らされた街並みが高速で後ろへと流れていく景色と、そこに薄く重なるようにして、自分の締まりのない、暗い表情をした顔が映り込んでいた。
頭の中には、さっきまで一緒にいた咲楽の言葉だけが、まるで壊れたレコードのように何度も、何度も再生されていた。
『ねえ。春樹……「愛」って、どういう意味だと思う?』
テラスを吹き抜けた激しい夏の風。彼女の乱れた茶色い髪。その奥にあった、今にも消え入りそうなほどに切実な、だけど真っ直ぐな瞳。
それに対して、僕は大層な綺麗事を並べ立ててしまった。永遠に想うこと。死んでもなお大切に想い続けること。それが僕にとっての誠実さの限界だった。だけど、彼女はそれに微笑んだあと、全く違う言葉を返してきた。
『私にとってはね、愛ってきっと……「ずっと一緒に居たい」ってことだと思うな』
ずっと一緒に居たい。その言葉の本当の重みが、電車のシートに身を沈めている今になって、さらに鋭く僕の胸の奥へと突き刺さってくる。
彼女にとっての「ずっと」は、僕たちのような健康な人間に約束された、何十年も続く地続きの未来ではないのだ。カバンの奥に隠されたあの大量の白い薬が意味する、残り少ない人生の、その最後の瞬間までの限られた時間を指している。そう気づいたとき、僕は自分の出した「永遠」という答えが、どれほど机上の空論で、どれほど彼女を突き放すような冷たい言葉だったのかと、激しい後悔の念に駆られた。
「……愛って、何なんだよ」
僕は、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
視線を自分の膝の上に落とす。デニムのズボンの上に置いた自分の両手は、心なしか微かに震えているように見えた。
考えれば考えるほど、思考は迷宮へと迷い込んでいく。他者との関わりを断ち、本の世界の言葉だけで世界を解釈してきた僕にとって、人間の剥き出しの感情である「愛」という概念は、あまりにも巨大で、あまりにも形がなくて、どうしようもなく僕を混乱させた。
気になる。気になりすぎて、このままでは胸が張り裂けてしまいそうだった。
僕はポケットの中から、重い塊を引きずり出すようにして、スマートフォンを取り出した。
スマートフォンの液晶画面が、僕の指先に反応してパッと明るくなった。
画面の最上部には、まだ彼女からの新しいメッセージは届いていないことを示す、空白の通知欄がある。トークアプリを開きたい衝動をかろうじて抑え込み、僕はブラウザの検索アプリのアイコンを親指でタップした。
白い検索窓が画面の中央に現れ、キーボードの画面が下からせり上がってくる。
僕は、文字を入力する直前で、ピタリと指を止めた。
電車のドア付近に立つサラリーマンが、ガサリと新聞をめくる音が車内に響く。隣に座る見知らぬ誰かの衣服が擦れる気配が伝わってくる。そんな周囲の雑音から完全に意識を遮断するようにして、僕はスマートフォンの画面だけを凝視していた。
(僕は何を調べているんだ。こんなデジタルな検索窓に、僕たちの求めている答えなんて転がっているはずがないのに――)
そんな冷めた理性が頭の片隅で警鐘を鳴らしていたけれど、今の僕には、何かしらの文字に縋りつくことしかできなかった。本の虫である僕にとって、言葉だけが唯一の世界との接点だったからだ。
画面を見つめたまま、僕は震える指先で、一文字ずつキーを叩いた。
『あ』『い』『し』『て』『る』
文字が入力されるたびに、予測変換の候補がズラリと下に並んでいく。その中から、僕はさらにスペースを空けて、もう一つの単語を打ち込んだ。
『い』『み』
画面の検索窓には、【愛してる 意味】という、客観的に見ればあまりにも不格好で、思春期の迷走そのもののような文字列が完成していた。
僕は生唾をゴクリと飲み込み、右下の「検索」ボタンを、祈るような気持ちで強く押し込んだ。
一瞬の読み込みの時間の後、画面には無数のウェブサイトのタイトルが縦に並んだ。
心理学的なアプローチで解説するもの、男女の恋愛傾向を分析するもの、言葉の語源を紐解くもの。どれもが表面的な、今の僕の乾いた心には一滴も染み込んでこないようなタイトルばかりだった。
その指をゆっくりと下にスクロールさせていく。青白い光が、僕の眼鏡のレンズを不規則に照らし出す。
スクロールの手が、ある一つのシンプルなタイトルの前で止まった。
『愛してるの意味とは』
何の飾り気もない、だけどそれ故に、本質だけが書かれているような気がするタイトルだった。
僕は視線をその文字列に固定したまま、ごく自然に、そのリンクを人差し指でタップした。
サイトのページが開き、白い背景に黒い文字が整然と並ぶ画面に切り替わった。
車内アナウンスが「まもなく、次の停車駅に到着します」と告げる声が遠くで聞こえたけれど、僕の耳にはもう届いていなかった。視線は、画面の上から下へと、活字を貪るようにして移動していく。
ページの前半には、一般的な恋愛における「好き」と「愛してる」の違いなどが、箇条書きで分かりやすくまとめられていた。
『「好き」は相手を独占したい気持ち。「愛してる」は相手の見返りを求めない献身の気持ち』
そんな文字を目で追いながらも、僕はどこか冷めた気持ちでいた。そんなものは分かっている。僕が知りたいのは、もっと泥臭くて、もっと切実で、僕と咲楽の間にある、この名前のつかない関係を解き明かしてくれる言葉なのだ。
さらに画面を下にスクロールさせていく。指の動きが、ページの最下部に差し掛かったところで、完全に停止した。
そこには、他の文章とは明らかに違う、太字の枠線で囲まれた一節が書かれていた。
【ある有名な小説から抜き出したという、心に刺さる言葉――】
サイトの解説文によると、それは、ある物語の中で、大好きな恋人を亡くして深く落ち込んでいる男の人の前に、亡くなった女の子の親友(女友達)が現れ、彼を慰めるために放ったセリフなのだという。
その一節に、僕の視線は完全に釘付けになった。文字が、網膜を通じて脳の芯へとダイレクトに飛び込んでくる。
枠線の中に書かれていたのは、たった一行の、あまりにも素朴なセリフだった。
『「愛」ってきっと、もう一度会いたいって意味なんじゃないかな』
その文字を認識した瞬間。
僕の胸の奥の、一番柔らかくて、一番触れられたくなかった場所が、目に見えない巨大な力でギューッと締め付けられた。
「あ……」
喉の奥から、乾いた小さな声が漏れた。
視線が、その『もう一度会いたい』という文字のから一歩も動かせなくなる。何度も、何度も、その一行だけを頭の中で読み返した。
もう一度、会いたい。
それは、相手が今、自分の目の前からいなくなってしまったことを大前提とした言葉だ。会いたくても会えない、触れたくても触れられない。そんな絶対的な断絶の闇の中に突き落とされた人間が、失って初めて気づく、魂の底からの叫び。それが「愛」なのだと、その小説の登場人物は言っていた。
その瞬間、僕の脳裏に、テラスでの咲楽のあの満開の笑顔が、あまりにも鮮明にフラッシュバックした。
もし、彼女の病気が進行して、本当にこの世界からいなくなってしまったら。
夏祭りが終わって、新学期が始まって、あるいはもっと先の未来で、彼女の席が突然空席になってしまったら。
僕は一人で、この冷たい電車のシートに座りながら、彼女のいた世界の残像だけを追いかけることになるのだろうか。二度と聞けないあの鈴を転がすような笑い声や、二度と嗅げないあの柑橘系のシャンプーの香りを、狂ったように思い出しながら、「もう一度会いたい」と泣き叫ぶことになるのだろうか。
ポロリと、熱い塊が僕の右目からこぼれ落ちた。
それは頬を伝い、顎の先へと流れ、持っていたスマートフォンの液晶画面の上に、小さな水滴となってトツンと落ちた。画面の文字が、その水滴のレンズによって歪んで大きく膨らむ。
「……っ」
僕は慌てて左手で目を覆ったけれど、一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
次から次へと、大粒の涙が目尻から溢れては、視界をぐしゃぐしゃに滲ませていく。向かいの座席の人間に見られないように、僕は深く頭を下げ、スマートフォンの画面を自分の胸元に隠すようにして、身体を小さく丸めた。
ただひたすらに、怖かった。
咲楽が、あの僕の灰色の世界に突然現れて、僕の日常をめちゃくちゃにかき回して、たくさんの感情を教えてくれたあの女の子が、この世界から完全にいなくなってしまうという現実が、狂おしいほどに恐ろしかった。
死。その二文字が、これまでは本のページの中に広がる記号でしかなかったものが、今、彼女という具体的な存在を通して、僕のすぐ目の前にまで鎌を首筋に突き立てるようにして迫ってきている。
彼女のいない世界で生きるなんて、今の僕にはもう想像すらできなかった。学校の誰から何を言われようと、彼女が隣にいてくれるだけで、僕は僕でいられた。彼女を守りたい、彼女のために傷つきたくない。そう願うことだけが、僕の生の実感になりつつあったのだ。
それなのに、僕はさっきのテラスで、彼女に「永遠」なんていう、生きている人間の傲慢な言葉をぶつけてしまった。
彼女が言った『ずっと一緒に居たい』という言葉こそが、今この瞬間を失いたくないという、彼女なりの悲壮な「愛」の叫びだったというのに。僕は彼女のその命懸けの好意の重さを、正面から受け止めることすらしていなかった。
涙が次々と画面に落ちて、サイトの文字は完全に滲んで読めなくなっていた。
僕はスマホの電源ボタンを押し、画面を暗転させた。黒い鏡のようになった画面には、涙で顔をぐしゃぐしゃにした、情けなくて、弱くて、どうしようもない自分の顔が映っていた。
今の僕にとって、愛とは何なのか。
永遠に想い続けることなのか。それとも、彼女が言うように、今この瞬間をずっと一緒に居ることなのか。あるいは、このサイトに書かれているように、失った後に「もう一度会いたい」と激しく乞うことなのか。
分からない。何も分からなくなっていた。
確かなことは、ただ一つだけだった。僕は、彼女を失いたくない。彼女の命の灯火が消えるその瞬間まで、いや、その先があろうとなかろうと、僕は彼女の隣にいたい。その強烈な執着だけが、僕の胸の中でドクドクと、激しい痛みを伴って脈打っていた。
電車が大きくスピードを落とし、僕の下りる駅のホームへと滑り込んでいく。
プシューという音と共にドアが開く中、僕は袖口で乱暴に涙を拭うと、まだぼやける視界のまま、ふらつく足取りで立ち上がった。胸の中に広がった底なしの混迷と、彼女への狂おしいほどの想いを抱えたまま、僕は夕闇に包まれ始めた街へと、一歩を踏み出すしかなかった。




