六章
放課後の駅ビルは、家路を急ぐ学生や買い物客でごった返していた。きらびやかな照明が並ぶお惣菜屋やアパレルショップの間を歩きながら、僕の隣を歩く咲楽の歩調は、どこか浮き立つように軽やかだった。
頭の包帯の感覚はまだ少し違和感として残っていたけれど、彼女が隣にいてくれるという事実だけで、そんな痛みはとうに意識の隅へと追いやられていた。
不意に、咲楽がツツッと二、三歩前に出た。そして、くるりと僕の方へと振り返る。彼女の短い髪が夕暮れの館内の風を孕んでふわりと揺れ、その奥にある大きな瞳が僕を真っ直ぐに捉えた。
「ねー。ちょっと寄り道しない?」
彼女は悪戯っぽく微笑みながら、僕の顔を覗き込むようにして聞いてきた。
「……別にいいけど」
僕は彼女の瞳を見つめたまま、短く答えた。
嘘偽りのない本音だった。今の僕は、彼女が望むことなら、どんなことでも受け入れてしまいそうなほど、彼女という存在に引きずり込まれていた。拒否する理由なんて、最初からどこにも持ち合わせていなかったのだ。
僕がそう答えた瞬間、咲楽の瞳が一層きらりと輝いた。
「じゃあ、決まり!」
そう言うか言わないかのうちに、彼女の手が僕の右手を容赦なく掴んだ。驚くほど小さくて、だけど驚くほど温かい手のひらの感触が、僕の手首から全身へと一瞬で駆け巡る。
「わっ、ちょっと……!」
僕の戸惑いの声などお構いなしに、咲楽は僕の手をぐいぐいと引っ張りながら、雑踏の中を走り出した。周りの人々が驚いたように僕たちを避けていく。衣服が擦れる音、人混みの喧騒、そして僕の腕を引く彼女の確かな力が、妙に心地よくて、僕はただ彼女の後ろ姿を見つめながら、その速度に合わせて足を動かした。
「何買うの?」
走る彼女の背中に向かって、僕は少し息を弾ませながら問いかけた。
咲楽は走る速度を緩めないまま、首だけを少し後ろに傾けて、いたずらっ子のような満面の笑みを僕に向けた。
「買うんじゃないよ! 見るんだよ!」
彼女の声は、これから始まる何かに純粋に胸を躍らせている子供のようだった。
何を見るのか、どこへ向かっているのか、僕には全く分からなかった。けれど、彼女のその楽しそうな、命の灯火を全力で燃やすような声を聴いているだけで、僕の胸の奥の強張りがすっと解け、温かい安心感で満たされていくのを感じていた。
人混みをすり抜け、エスカレーターを駆け上がった先で、咲楽はついに足を止めた。
そこは、駅ビルの最上階に位置する、少し薄暗い、だけど独特の非日常感が漂う場所だった。
「ついた! 早くはいろ!」
咲楽が嬉しそうに息を切らしながら指さしたのは、色とりどりのポスターが壁一面に飾られた、映画館の入り口だった。
「……映画?」
僕が少しきょとんとして立ち尽くしていると、咲楽は僕の手をパッと離し、目の前にある大きなアニメーションのポスターを両手で指し示した。
「余命半年。まえ小説一緒によんだでしょ? あれがアニメ映画化されたの! 早く見よ!」
彼女は弾んだ声で、せかすように僕の顔を覗き込んできた。
その瞬間の、彼女の無邪気な笑顔を見た時、僕の脳裏にはあの日のホテルの記憶がフラッシュバックした。カバンの奥深くに厳重に隠されていた、あの大量の白い薬のパッケージ。そして、暗闇の中で響いた「死ぬのが怖いって言ったらどうする?」という、今にも消え入りそうな声。
『余命半年』
その言葉が、今の僕たちにとってどれほど重く、残酷な意味を持っているか、彼女は分かっているのだろうか。それとも、分かっているからこそ、あえてこの作品を僕と一緒に見たいと思ったのだろうか。
僕は一瞬、言葉を失って立ち尽くし、視線をポスターに描かれた美しい桜のイラストへと彷徨わせた。喉の奥がキュッと締め付けられるような感覚に襲われる。
「ほらほら、春樹、早く行かないと良い席なくなっちゃうよ!」
僕の心の動揺を察してか、あるいは本当に気づいていないのか、咲楽は僕の腕を再び軽く小突き、自動券売機の列へと引っ張っていった。彼女の明るい声が、僕の暗い思考を無理やり引き戻してくれる。
券売機の前に立つと、咲楽は画面を真剣な目つきで操作し始めた。
「席は~、あ、こことここね? ちょうどいいところ開いててよかった~」
彼女は画面の端っこ、後ろの方のふたつ並んだ座席をトントンと手際よく指で叩いた。画面の光が、彼女の濡れた茶色い髪と、真剣な瞳を遮るものなく照らし出す。チケットが二枚、カタカタと音を立てて発券口に落ちてきた。
「ポップコーン買っとくから、そこで待ってて」
チケットを手にした彼女の満足そうな顔を見て、僕は少しだけ自分の役割を見つけられたような気がして、そう告げた。映画館といえばポップコーンだ、というごく一般的な共通認識が、僕の口を自然と動かしていた。
「あ、ホント? 嬉しい!」
咲楽は両手でチケットを大切そうに胸に抱えながら、目をきらきらと輝かせた。その姿があまりにも嬉しそうで、僕は少し照れくさくなり、すぐに彼女から視線を外してフードカウンターの列へと並んだ。
カウンターのガラスケースの中には、黄金色のポップコーンが山のように積まれており、バターの香ばしい匂いが辺りに充満している。
「ご注文をお伺いします」
「あ、ハーフアンドハーフでお願いします。味はキャラメルと塩で。あと、飲み物はコーラを二つで」
僕は少し緊張しながらも、映画館の店員さんに注文内容を伝えた。自分の財布を出すのではなく、ポケットからスマートフォンを取り出し、決済アプリの画面をスマートに読み取り機にかざす。電子音がピピッと響き、決済が完了した。普段の僕なら、こんな風に誰かのためにスムーズに何かを買うなんてことは、到底できなかったはずだ。だけど、彼女の前でだけは、少しでもスマートな自分でありたかった。
大きなポップコーンのバケットと、二つのコーラが乗ったトレイを両手でしっかりと持ち、僕は咲楽が待つ入場口の近くへとゆっくりと歩み寄った。
「お待たせ」
「わぁ、ありがとう!……あ、私の分、何円だった?」
咲楽はトレイの上に乗ったポップコーンを見て顔を綻ばせると、僕の顔をじっと覗き込むようにして、小さく首をかしげた。そして、自分の小さなカバンから可愛らしい折りたたみ財布を取り出し、いくら払えばいいのかと僕の目を真っ直ぐに見つめて聞いてきた。
「……いいよ。これくらい、僕におごらせて」
僕は、彼女の真っ直ぐな視線に耐えきれなくなり、視線をわざと斜め下の床へと逸らした。少し声を低くして、自分でも引くほど格好をつけた言い方をしてしまった自覚があった。顔がじわじわと熱くなっていく。
すると、一瞬の静寂の後、咲楽が突然「ぶふっ」と吹き出した。
「なにそれww かっこつけてるの? ww やっぱ面白いね、春樹はww」
彼女は声を上げて大笑いし始めた。映画館のロビーに、彼女の鈴を転がすような笑い声が響き渡る。
「おい、笑うなよ……」
「だってww 変な顔して言うんだもんww……でも、ありがとう!」
咲楽は笑いすぎたせいで、目元に小さな涙を浮かべていた。彼女はその涙を人差し指の腹でそっと拭いながら、最後は少しだけ声音を落とし、心からの感謝を込めて僕の目を見て言った。その潤んだ瞳と、少し赤くなった頬の境目が、ロビーの淡い照明に照らされて酷く綺麗に見えた。
「……いいから行くよ。置いてくぞ~」
僕はこれ以上彼女に顔を見られていると、自分の顔の赤さが完全にバレてしまうと思い、トレイを持ったまま早歩きで入場口のスタッフがいる方へと歩き出した。彼女を置いていくようなスピードで、あえてぶっきらぼうな口調を装って。
「あ、待って待ってww ごめんってばww」
後ろから、咲楽の慌てたような、だけどやっぱり楽しそうな足音がすかさずついてくる。
彼女のローファーが床を叩く軽い音が、僕のすぐ後ろで等間隔に響く。
入場口の前で、僕は少しだけ歩調を緩め、チラリと後ろを振り返った。
そこには、チケットを片手に、少し息を弾ませながら僕の背中を追いかけてくる咲楽の姿があった。彼女の顔には、まだ先ほどの笑い残しの温かい余韻が張り付いていて、僕と目が合うと、さらに嬉しそうに目を細めた。
これから始まる映画の内容が、どんなに悲しいものであろうと、今、この瞬間に僕のすぐ後ろを歩いてくれている彼女の温もりだけは本物だ。僕はトレイをしっかりと持ち直し、彼女を迎え入れるようにして、薄暗いシアターへと続く通路の奥へと一歩を踏み出した。
「8番ゲートになりまーす」
入場口に立っていた若い女性スタッフの、どこかマニュアルめいた、だけど聞き取りやすい澄んだ声がロビーに響いた。彼女は僕たちのチケットを素早く目視で確認すると、手元で端末を操作し、スマートに僕たちを奥へと促した。案内された方向へ目を向けると、そこには少し照明の落とされた、深い青色のカーペットが敷かれた長い通路が続いていた。現実の世界から、スクリーンという虚構の、だけど何よりも濃密な世界へと繋がる境界線のような通路だった。
トレイに乗ったポップコーンが倒れないよう、僕は両手で慎重にバランスを取りながら、ゆっくりと歩みを進めた。そのすぐ右側を、咲楽が僕の歩調に合わせるようにして、少しだけ弾むようなステップで並んで歩いている。彼女の持つチケットが、館内の微風に吹かれてカサカサと小さな音を立てていた。
薄暗い通路を進む途中、不意に彼女の気配がさらに近づいた。
「ねー。楽しみだね!」
咲楽は歩きながら、僕の顔を斜め下から覗き込むようにして聞いてきた。彼女の大きな瞳は、通路の壁に等間隔で設置されたフットライトの光を浴びて、まるで小さな夜光虫のように怪しく、そして美しくきらめいていた。
「……今回は、泣けるかな?」
僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返すことはできず、前方のシアターの重い遮光扉を見つめながら、ぽつりと呟いた。
アニメ映画なら。いや、彼女と出会い、様々な感情の色彩を知ってしまった『今』の僕なら、あの物語を観て涙を流すことができるのだろうか。
連休中に彼女から受けた、メッセージ機能を通じての「本の読み方特訓」の記憶が、脳裏をかすめる。
『主人公の気持ちを常に考えつつ、周りのキャラの気持ちも考えるの。つまり登場人物の気持ちを考えるの!』
画面の向こうで彼女が熱弁していたその言葉が、今の僕の胸の奥で静かに息づいている。他人の感情を遮断して生きてきた僕にとって、それはあまりにも難解な宿題だったけれど、今の僕なら、スクリーンの向こうで生きる彼らの痛みを、自分のものとして感じられるかもしれないという、奇妙な予感があった。
「どうかな? 泣けるといいね!」
咲楽は僕の答えを聞くと、今度は僕の顔を正面から真っ直ぐに見つめながら、いたずらっぽく、だけどどこか祈るような優しい笑顔を浮かべて言った。彼女の視線が僕の包帯の巻かれた額を掠め、一瞬だけその瞳の奥に切ない陰りが走ったのを、僕は見逃さなかった。だけど、彼女はそれをかき消すように、さらに深く微笑んでみせた。
シアターの重い扉を押し開けると、そこには扇形に広がる巨大な空間と、まだ明るい照明に照らされた巨大な白いスクリーンがそびえ立っていた。僕たちは階段を一段ずつ上り、彼女が選んでくれた後方の座席へと向かった。
指定された席に腰を下ろすと、ふかふかとしたシートのクッションが僕の身体を優しく包み込む。真ん中のドリンクホルダーにコーラを差し込み、大きめのポップコーンバケットを二人の座席の間の肘掛けの上にそっと置いた。映画が始まるまでは、まだ十分弱の時間があった。周囲にはまばらに他の観客が座っており、静かなざわめきが広い空間を満たしている。
背もたれに深く身体を預け、なんとなく前方のスクリーンを見つめていると、隣のシートから衣擦れの小さな音が聞こえた。咲楽がシートの上で少し身体を縮こまらせ、正面の白い大画面をじっと見つめたまま、声を潜めて話し合おうとしてきた。
「今日のこと……気にしなくていいからね」
彼女の視線は、頑なに前方のアナウンス映像へと向けられたままだった。横顔しか見えなかったけれど、その小さな唇が微かに震えているのが分かった。今日のこと――それは言うまでもなく、お昼休みに渡り廊下で起きた、木村純一とのあの凄惨なトラブルのことだった。
「……うん」
僕は彼女の横顔をチラリと盗み見るようにして、短く答えた。
気にしなくていい、と言われても、そんなことが簡単にできるはずがなかった。あの時、純一が僕を殴り倒し、その後に激高しながらなんて言おうとしていたのか、今の僕には痛いほどはっきりと理解できていたからだ。
『咲楽は……! 咲楽は、俺の……!!』
彼はきっと、「咲楽は俺のものだ」とか、「俺の好きな人だ」とか、そういう傲慢で、だけど切実な独占欲に満ちた言葉を口にしようとしていたのだ。彼が僕に向けるあの尋常ではない敵意の理由は、すべてそこに行き着く。
そして、あの凄惨な現場に咲楽が突如として現れた瞬間、それまで狂暴に声を荒げていた純一の口調が、声量が、一気にもとに戻った。それどころか、彼女の関心を引こうとして、急に優しく、哀れみを乞うようなトーンに変化した。あのあからさまな態度の豹変が、僕の脳裏に不快な残像として焼き付いて離れなかった。
沈黙が、僕たちの間に重くのしかかる。館内のスピーカーから流れる軽快なBGMすら、今の僕たちの間にある緊張感を和らげる役には立たなかった。
僕は手持ち無沙汰になり、なんとかこの息の詰まるような沈黙を破ろうと、必死に頭の中で言葉を探した。だけど、気の利いたお喋りなんてこれまでの人生で一度もしたことがない僕の頭から捻り出されたのは、あまりにも不器用で、ぶっきらぼうな問いかけだった。
「て、てかなんで……君が僕の心配をしてるの?」
自分でも驚くほど上ずった声が出てしまった。僕は照れ隠しのために、わざと彼女から視線を外し、手元のポップコーンバケットの縁を人差し指でなぞった。僕が聞きたかったのはそんなことじゃないはずなのに、言葉はいつも、僕の本音を裏切って鋭く飛び出してしまう。
「……じつはね」
咲楽の声が、急に湿り気を帯びた。
彼女のそのトーンの変化に、僕はハッとして視線を彼女へと戻した。
咲楽は、いつもの天真爛漫な輝きを完全に消し去り、ひどく悲しげな表情を浮かべていた。彼女は自分の膝の上で両手をきつく握り締め、頭を深く下げて、足元の暗がりの床をじっと見つめていた。その小さな肩が、どこか小さく縮んでいるように見える。
「私……前、純一に告られて、振ったんだよね」
彼女は下を向いたまま、ぽつり、ぽつりと、言葉を落とすようにして言った。その声には、自分自身の存在が僕に怪我をさせ、純一を狂わせ、周囲に迷惑をかけてしまったという、深い罪悪感と後悔が滲み出ていた。すべての原因は自分にあるのだと、彼女はあの小さな身体でその責任を背負い込もうとしていた。
「……だから、咲楽のせいだと?」
僕は、彼女のその痛々しいほどの思い込みに対して、無性に腹が立った。彼女がそんな悲しそうな顔をする必要なんて、どこにもないはずだ。悪いのは一方的に暴力を振るってきた純一であり、彼女はただ、自分の気持ちに正直に生きていただけなのだから。
僕は、自分の感情の昂りを誤魔化すように、肘掛けの上のバケットへと手を伸ばした。中からキャラメル味のポップコーンを数粒、指先で乱暴に掴み取る。キャラメルの甘い香りと、カサついた感触が指先に伝わる。
そして、僕はその掴んだポップコーンを、迷うことなく彼女の顔の前へと突き出した。
「え……?」
咲楽が驚いたように小さく顔を上げた瞬間、僕は彼女が拒絶する隙を与える間もなく、その数粒のポップコーンを、彼女の小さな唇の間に無理やり押し込むようにして口元へ持っていき、食べさせた。
「むぐっ……!?」
彼女の唇に僕の指先が微かに触れる。驚きで彼女の大きな目がさらに丸くなり、リスのように頬を膨らませて、コクコクと不器用に咀嚼を始めた。そのあまりにも無防備で愛らしい反応を見て、僕の胸の奥の張り詰めたものが、少しだけ歪んだ形で弾けた。
「だから……私のせいだと言いたいの?」
僕は、自分でもどんな表情をしているのか分からないまま、少し口元を歪め、不気味とも取れるような意地悪な笑みを浮かべて言った。彼女の突飛な悪戯にいつも振り回されてばかりの僕が、初めて仕掛けた、不器用極まりない反撃だった。彼女の口真似をするようなその問いかけには、彼女の悲しみを無理やりにでも吹き飛ばしたいという、僕なりの歪んだ優しさが詰まっていた。
「違うでしょ。咲楽は、何も関係ない……」
僕は笑みを消し、今度は声を低くして、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめながら言った。彼女を世界のあらゆる理不尽から守るように、その言葉に強い力を込める。お前は悪くない、と、その事実だけを彼女の心に刻み付けたかった。
けれど、僕の胸の奥には、まだ彼女に伝えていない、伝えてはいけない最大の感情が、ドロドロとした塊となって残っていた。
(あいつは……木村純一は、僕の宿敵だ――)
彼が咲楽を好きで、彼女を求めているのなら、僕だって負けるわけにはいかない。彼女が僕にとって特別な存在である以上、僕は彼という存在を、自分の人生における明確な壁として認識していた。
だけど、そんな大それた言葉を、今の僕の口から彼女に伝えることなんて、到底できるはずがなかった。僕はただの影の薄いストーカーもどきで、彼女は光そのものなのだから。激しい自己嫌悪と葛藤が胸の中で渦巻き、僕は急激に恥ずかしさと焦燥感に襲われた。
「あ……え、え、映画、始まるね~!!」
僕は自分の顔が限界まで赤くなっていくのを自覚し、視線を泳がせながら、叫ぶようにして話題を強制的に打ち切った。あまりの焦りっぷりに、声が思いっきり裏返ってしまう。
咲楽は口の中のポップコーンをようやく飲み込むと、僕のそのあまりにも不格好な狼狽ぶりを見て、一瞬きょとんとした後、ふっといつもの柔らかい笑顔をその表情に戻した。彼女の頬も、僕の指先が触れたせいか、ほんのりと桜色に染まっている。
タイミングを見計らったかのように、シアター内の高い天井に設置されたいくつもの間接照明が、滑らかにその光量を落とし始めた。オレンジ色の光が徐々に薄れ、空間全体が深い、濃密な暗闇へと包まれていく。
ドン、と身体の芯に響くような重低音とともに、音響システムが起動し、大きなスクリーンに色鮮やかなワーニングロゴが映し出された。
本編の始まりを告げる青白い光が、暗闇を切り裂くようにして客席へと放たれる。その冷たくも美しい光の波が、僕のすぐ隣に座る咲楽の横顔を、フワリと立体的に浮かび上がらせた。
咲楽は、もう僕の方を見ることはなかった。彼女の意識は完全に、動き出したスクリーンの世界へと吸い込まれていた。彼女は背筋を少し伸ばし、瞬きをするのも惜しむようにして、その大きな瞳をきらきらと輝かせながら、前方の光を凝視していた。時折、スクリーンの光が激しく変化するたびに、彼女の瞳の中に映る色彩が、青から赤へ、そして淡いピンクへと目まぐるしく移り変わっていく。その姿は、まるで彼女自身が映画の登場人物であるかのように幻想的で、息を呑むほどに綺麗だった。
暗闇が深まったせいだろうか。
映画の大音量がシアター内を支配する中で、僕の五感は、なぜかすぐ隣にいる彼女の気配に対して、異常なほどに敏感になっていた。
ガタガタと鳴り響く劇中の効果音の隙間を縫うようにして、すぐ隣のシートから、あのホテルの夜と同じ、ふんわりとした甘い柑橘系のシャンプーの香りが漂ってくる。それは、昼間の血の臭いや、映画館のポップコーンのバターの香りをすべて覆い隠すほどに、いつもよりずっと濃く、深く、僕の鼻腔をくすぐり、脳の奥を痺れさせてきた。
スクリーンを見つめる彼女の規則正しい、静かな息遣いが、微かに僕の右腕のあたりに伝わってくるような気がした。
僕は正面の映像を見つめながらも、意識のすべてをその隣の存在へと集中させていた。純一との闘いも、クラスメイトたちの陰口も、この暗闇の中ではすべてが遠い世界の出来事のように思えた。
僕たちの間を流れる、言葉のない沈黙。それは酷く張り詰めていて、だけどこれ以上ないほどに甘やかで、温かい。僕はただ、彼女の横顔を視界の端に収めながら、これから始まる「余命半年」の物語の行方と、自分自身の胸の奥で暴れ続ける得体の知れない感情の嵐に、静かに身を委ねるしかなかった。
物語が『転』、つまり主人公たちの運命が大きく狂い始める局面を迎えた頃だった。劇中の音楽が悲痛に高鳴る中、すぐ隣の暗闇から、かすかに、だけどはっきりと、鼻をすするような湿った音が聞こえてきた。
僕は前方に向けた視線を、吸い寄せられるようにして右側へと動かした。
スクリーンの青白い光が、咲楽の横顔を仄白く浮かび上がらせている。心なしか、彼女の長い睫毛の先が濡れ、頬には一筋のきらめく線が走っているように見えた。彼女は瞬きすら忘れたように画面を凝視している。
僕にとっては、どこにでもあるフィクションの、何の変哲もない映画だ。けれど、今の彼女にとっては違う。カバンの奥の大量の薬、夜の暗闇での震える声――。この物語は、彼女にとってあまりにも残酷に、自身の「現実」と重なって見えてしまっているのだ。そのことに気づいた瞬間、僕の喉の奥に苦い塊がせり上がってきた。
映画は、前に二人で読んだ小説の通りの結末を迎えた。
エンドロールが流れ、シアター内の照明がゆっくりと灯っていく。明るくなっていく世界の中で、僕の目からも、一滴の涙がぽろりとこぼれ落ちた気がした。
なぜだろうか、胸の奥が鉛のように重い。物語の悲しさ以上に、隣にいる彼女の未来を想うと、息が詰まりそうだった。ずっと、これからもずっと、彼女に僕のそばにいてほしい。そんな、傲慢で切実な願いが、僕の心を支配していた。
「ねー。映画どうだった?」
退場口へと向かう薄暗い通路で、咲楽がふと立ち止まり、僕の方を振り返った。泣き終わりかけの、少し赤く膨らんだ眼が、まっすぐに僕の瞳を捉える。彼女の視線には、僕の感想を期待するような、どこか縋るような色が混ざっていた。
「うん。感動はしたよ」
僕はわざと視線を彼女の額のあたりへとずらし、ぶっきらぼうに答えた。
嘘ではなかった。けれど、心の底から純粋に嬉しくはなれなかった。何より、自分の目から涙が流れたことなんて、口が裂けても言いたくなかった。きっと、涙が出たと言えば、彼女は「ほらね!」と嬉しそうに笑ってくれるだろう。だけど、僕は言いたくなかった。僕の涙は、映画の主人公に対してではなく、目の前にいる彼女の運命に対するものだったからだ。それを認めるのが、どうしても怖かった。
数秒の沈黙が、二人の間に流れる。駅ビルへと続く自動ドアの風が、僕たちの髪を揺らした。
「そっかー、これでもダメか~」
咲楽は小さく息を吐くと、僕から視線を外し、前を向いた。そして、溢れそうになる何かを堪えるように、少しだけ上を向いたまま、寂しげな笑みを唇の端に浮かべた。その横顔があまりにも切なくて、僕はまた言葉を失ってしまう。
改札口の手前、人の流れが激しく交差する場所で、彼女が急に足を止めた。
「じゃ、私こっちだから! じゃあね! また明日!」
咲楽はいつもの明るいトーンを無理に作ったような声で言うと、僕の目を一瞬だけ見つめ、すぐに大きく手を振った。
「うん。また明日!」
僕もすかさず右手を振り返した。
彼女は小さく頷くと、くるりと後ろを振り向き、人混みの中へと迷いなく歩いて行った。その背中は、朝の教室で見るよりも、どこか小さく儚げに見えた。
僕は彼女の茶色い髪が雑踏に紛れて完全に視界から消え去るまで、その場に立ち尽くしたまま、少しの間その後ろ姿をじっと眺めていた。周囲の騒音を遠くに聞きながら、ゆっくりと深く息を吐き出し、一人、冷たいホームへと向かって歩き出した。




