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愛は散っても桜は咲く。  作者: 百夜


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五章

連休という甘やかなモラトリアムは瞬く間に終わりを告げ、容赦のない現実の朝がやってきた。

教室の重い木製のドアを開けた瞬間、僕の身体は本能的に強張った。大阪の街で感じていた、あの色鮮やかで温かい空気はどこにもない。そこにあるのは、灰色に淀んだ、そして刃のように鋭い悪意を含んだクラスメイトたちの視線だった。


僕が一歩足を踏み出すと同時に、教室内を流れていた雑談のボリュームが不自然に下がり、代わりにヒソヒソとした、だけど確実に僕の鼓動を狂わせるような刺々しい声が響き渡った。


「……ほら、またストーカーが来たよ」

「聞いた? 連休中に二人で旅行したらしいよ」

「うわ、マジで? やばすぎるんだけど……」


遮るもののない悪意が、僕の鼓動を鋭く突き刺す。僕はいつものように視線を限界まで床へと落とし、周囲の顔を見ないようにして自分の席へとまっすぐ歩いた。鞄を机の横のフックにかける手が、微かに震える。


視界の端、教室の中央付近では、咲楽が数人の女子生徒に囲まれていた。その中心には、やはり今日も険しい表情をした桃子の姿がある。咲楽はいつもの天真爛漫な笑みを完全に消し去り、少し怒り気味に両手を何度も振りながら、クラスメイトたちに向かって必死に言葉を紡いでいた。


「ちがうから! ストーカーじゃないって何度も言ってるでしょ! 春樹は私の大切な友達なの! 旅行だって、私がどうしても行きたいって言って、無理に誘ったんだから!」


彼女の声は、静まり返りかけた教室の隅々にまで綺麗に響き渡った。いつもなら周囲の意見を笑い飛ばす彼女が、これほどまでに感情を剥き出しにして、声を荒げて僕のことを弁護している。その姿を見つめる僕の胸の奥は、申し訳なさと、彼女の優しさに対する切なさで、じりじりと焼け付くようだった。


その時、ガラガラと再び教室のドアが開き、一人の男子生徒が快活な声を上げて入ってきた。


「みんな、おはよう!」


木村純一だった。端正な容姿に、誰からも好かれる爽やかな笑顔。彼はクラスの、いや、学年の中心に位置するいわゆる「主役」のような存在だった。彼が入ってきた瞬間、教室の空気は一気に華やぎ、女子たちの視線が彼へと集まる。


しかし、純一は教室内を見渡した直後、その鋭い視線を一瞬だけ、教頭の隅にいる僕へと向けた。

その瞳の奥にある光は、普段の彼からは想像もできないほど冷酷で、まるで汚物を見るかのように僕を冷たく睨みつけていた。時間はほんの一秒にも満たない、一瞬の出来事だった。だけど、僕の背中には不快な冷や汗がどっと流れ落ちた。


純一はすぐに視線を僕から外し、大股で咲楽の方へと歩み寄った。その顔には、いつもの完璧な王子様のような微笑みが戻っている。


「おはよう、咲楽」


「……あ、おはよう、純一」


咲楽は一瞬だけ僕の方をチラリと見てから、少し引きつったような笑みを浮かべて純一の挨拶に応えた。

なぜだろうか。二人がごく普通に、名前で挨拶を交わしたその光景を目にしただけで、僕の心臓は嫌な音を立てて拍動を速めた。胸の奥を正体のわからない焦燥感と、ざわつきが支配していく。僕は逃げるように教科書を机の上に広げ、文字の羅列の中に自分の意識を埋没させようと必死になった。


お昼休みを告げるチャイムが鳴り響くと、僕は誰よりも早く教室を抜け出した。あの息の詰まるような空間にい続けることは、今の僕には不可能だった。

お弁当箱を片手に、僕は校舎の裏手にある、普段はほとんど人が通らない古い渡り廊下のベンチへと向かった。ここなら、誰の視線も気にせずに静かに息をすることができる。


ベンチに腰掛け、プラスチックの蓋を開けて一人で静かにご飯を口に運ぶ。

口の中広がるお米の味を感じながらも、僕の頭の中は、今朝の咲楽の怒った顔と、純一のあの冷たい視線のことで一杯だった。彼女と関われば関わるほど、僕の周りの世界は歪み、狂っていくような恐怖があった。


どれくらいの時間が経っただろうか。

カツン、カツンと、コンクリートの床を叩く硬い足音が、静かな渡り廊下に響いた。

足音はまっすぐ僕のいるベンチへと近づいてきて、そして、僕の目の前でピタリと止まった。


ゆっくりと顔を上げると、そこには昼の明るい太陽の光を背に受けた、木村純一が立っていた。

彼の影が、僕のお弁当箱の上に長く、黒く覆いかぶさる。いつもの爽やかな笑顔は微塵もなく、彼の端正な眉はこれ以上ないほど深くひそめられ、瞳には煮え立つような敵意が燃え盛っていた。


「なぁお前……咲楽とどういう関係だよ」


純一の声は、低く、地を這うような怒りに満ちていた。彼は僕を見下ろしながら、拳を強く握り締め、肩をわずかに震わせている。


「お前みたいな、暗くて、何を考えてるかもわからない底辺のやつが、咲楽に近づくな!」


言葉の暴力をダイレクトにぶつけられ、僕は息を詰まらせた。彼の激しい感情の濁流を前にして、僕は言葉を失いそうになりながらも、机の下で指先を強く握り込み、なんとか喉の奥から声を絞り出した。


「僕が、近づいてるわけじゃ……彼女が……」


僕が最後まで言葉を発しようとした、まさにその瞬間だった。

純一の身体が不自然に前に傾き、彼の右拳が、空気を切り裂くような凄まじいスピードで僕の視界へと迫ってきた。


ドンッ、という鈍い、肉と肉が激しくぶつかる衝撃音が静かな廊下に響き渡る。


避ける間も、何が起きたかを理解する暇もなかった。僕の左頬、あるいは前頭部のあたりに猛烈な衝撃と熱い痛みが走り、視界がぐらりと上下反転するように歪んだ。

衝撃の勢いのまま、僕はベンチから床へと押し出され、足を崩して座り込むようにして冷たいコンクリートの地面へと激しく倒れ込んだ。手から離れたお弁当箱が床を転がり、プラスチックの乾いた音が虚しく響く。


「っ……、あ……」


あまりの衝撃に息がうまく吸えない。地面についた右手が、自分の身体の重さを支えきれずに小刻みに震えた。頭の芯がジンジンと激しく痛み、視界がチカチカと明滅する。


「咲楽から、お前みたいなやつに近づくわけないだろ!」


純一は倒れ込んだ僕を見下ろし、さっきよりもさらにボリュームを上げて声を荒げた。彼の顔は、怒りと嫉妬でこれ以上ないほど真っ赤に変色し、呼吸は荒く乱れている。彼は僕に向かって一歩踏み出し、その指先を突きつけながら、自分の感情をコントロールできない様子で叫び続けた。


「咲楽は……! 咲楽は、俺の……!!」


彼がその先に続く、傲慢な所有欲に満ちた言葉を口にしようとした、まさにその時だった。


「春樹~! 今日もここで一緒に食べ……」


渡り廊下の曲がり角から、軽快な、弾むような足音と共に咲楽が姿を現した。彼女の手には、いつも通り可愛らしい包みに包まれたお弁当箱が握られていた。

彼女は僕の姿を探して、満面の、太陽のような笑顔を浮かべながらこちらに向かっていた。


けれど。

地面に無残に倒れ込み、片手で頭を抑えている僕の姿と、その前に拳を握りしめて立ち尽くしている純一の姿が、彼女の視界に入った瞬間。

咲楽の言葉が、弾かれたようにピタリと途切れた。


「…………え?」


静寂が、三人の間に重くのしかかる。

咲楽の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。さっきまであれほど眩しく輝いていた彼女の笑顔が、一瞬にして完全に凍りつき、その表情は恐怖と怒りで硬く強張っていった。彼女の大きな瞳が、信じられないものを見たかのように激しく揺れ動いている。


純一は、咲楽の登場にハッとしたように身体を強張らせた。そして、自分が暴力を振るっているところを見られたことに激しく動揺したのか、顔を一気に赤くしながら、言い訳をするように慌てて両手を前に突き出した。


「さ、咲楽! これは違うんだ、これは君にいつもストーカーみたいに張り付いてる、この邪魔者を、俺が追い払ってあげようとしてたとこで……っ」


純一は必死に声を震わせ、自分を正当化するための説明をしようと言葉を尽くした。


しかし。

咲楽は、そんな純一の必死な弁明を、まるでそこに誰も存在していないかのように、完全に無視した。

彼女の視線は、純一の顔を、その身体を一瞥もすることなく、ただ地面に座り込んで倒れている僕の姿だけを、真っ直ぐに捉えていた。


タタタッ、と彼女のローファーがコンクリートを激しく叩く音が響く。

咲楽は純一の横をすり抜けるようにして、迷うことなく僕のもとへと駆け寄ってきた。彼女の制服のスカートが、激しい動きに合わせて大きく揺れる。


「春樹……! 大丈夫!? しっかりして!」


咲楽は僕の前に膝をつくと、自分の制服の膝が汚れることなんて微塵も気にする様子もなく、僕の身体に両手を伸ばした。彼女の小さな、だけど温かい手が、僕の背中を、そして震える肩を優しく、だけど折れそうなほど強く支え込む。


「頭から……頭から血が出てる……っ! どうしよう、これ、このハンカチ使って!」


彼女の声は、明らかな動揺と恐怖で酷く震えていた。咲楽は自分のカバンから、いつも持っている真っ白な、綺麗な刺繍の入ったハンカチを素早く取り出すと、僕のおでこのあたりに優しく押し当てた。

彼女の顔が、信じられないほど近くにある。彼女の瞳は潤んでいて、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうだった。僕を見つめるその眉は悲痛に跳ね上がり、彼女の指先が、僕の血に染まっていくのを見て激しく震えているのが伝わってきた。


「……ありがとう」


頭の痛みと、彼女の突然の献身に対する驚きの中で、僕は格好をつける余裕すらなく、喉の奥からすっと、掠れた素の言葉を漏らしていた。


二人のその様子を、数歩離れた場所から見つめていた純一は、自分が完全に無視され、蚊帳の外に置かれたことに、言葉にできないほどの焦りと絶望を覚えたようだった。彼の顔から一気に赤みが引き、今度は青白くなっていく。彼は信じられないというように目を見開き、少し震える声で、だけどどこか優しさを装うような歪んだトーンで咲楽に問いかけた。


「咲楽……! なんで……なんでそんなやつを庇うんだよ……! そいつはただのストーカーで、君を困らせてるやつなんだぞ……っ!」


純一の言葉は、自分のプライドを必死に守ろうとする哀れな抵抗のようだった。

その言葉を聞いた瞬間、僕の背中を支えていた咲楽の身体が、一瞬でピキッと硬直した。


彼女はゆっくりと首を動かし、初めて純一の方を真っ直ぐに見据えた。

その瞳には、これまでクラスの誰も見たことがないような、氷のように冷たく、そしてドス黒いほどの怒りの炎が燃え盛っていた。いつもの優しい少女の面影は、そこには微塵も存在しなかった。


「こんなやつって何?」


咲楽の声は、いつもよりずっと低く、地を這うように静かだった。だけど、その一言には部屋の温度を凍りつかせるほどの圧倒的な迫力があった。


「春樹は……春樹は、私の大切な友達! 大親友なんだけど!」


彼女は声を徐々に荒げ、立ち上がりながら純一に向かって言い放った。彼女の小柄な身体の肩が、怒りのあまり激しく上下に震えている。


「自分の思い通りにならないからって、人を傷つけて、暴力を振るって……なんなの? あんた、大っ嫌い。もう二度と、わたしと、わたしの周りの人たちにちょっかいかけないで!」


「大っ嫌い」という、明確で、一切の容赦のない拒絶の言葉が、渡り廊下の空間に鋭く突き刺さった。

純一の身体が、まるで物理的な衝撃を受けたかのように、ビクッと大きく後ろにのけぞった。彼がこれまで築き上げてきた、クラスのヒーローとしてのプライド、そして咲楽に対する傲慢な自信が、その一言によって粉々に砕け散っていくのが、見ていて分かるほどだった。彼の瞳から、一気に光が消え失せる。


「……まだいるの? 帰って!!」


咲楽は、さらに怒りに満ちた、張り裂けそうな声で純一を怒鳴りつけた。

その声に完全に気圧され、純一は一歩、また一歩と後退りをした。彼の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って床へと落ちていく。自分が犯した過ちの大きさと、好きな女の子から完全に拒絶された絶望に、彼はもう一言も言葉を返すことができなかった。


純一は顔を両手で覆いながら、むせび泣き、逃げるようにその場から走り去っていった。遠ざかっていく彼の足音が、廊下の奥へと消えていく。


あとに残されたのは、静まり返った渡り廊下と、僕たち二人だけだった。

咲楽は純一が去った方向をしばらく見つめていたけれど、すぐに大きなため息をつくと、再び僕の隣へとしゃがみ込んだ。彼女の怒りに満ちていた顔は、僕の方を向いた瞬間、また元の心配そうな、今にも泣き出しそうな少女の顔へと戻っていた。


「ごめんね、春樹……痛いよね……」


彼女は震える手で、僕のおでこから溢れ出る赤い血を、自分の白いハンカチでそっと拭い、それから傷口をじっと優しく抑え続けた。

ハンカチを通じて、彼女の指先の温もりと、小刻みな震えが僕の額へとダイレクトに伝わってくる。彼女の荒い呼吸の音が、静かな空間に規則正しく響いていた。


僕は、額に当てられた彼女のハンカチの温もりを感じながら、ただじっと彼女の濡れた瞳を見つめ返していた。世界中が僕を拒絶し、ストーカーと呼んで蔑む中で、彼女だけが、僕の味方でいてくれた。その圧倒的な事実が、頭の痛みを遥かに超えて、僕の胸の奥を激しく、そして温かく満たしていくのを、僕は静かに感じていた。


「保健室、行こう」


咲楽の声は、いつもの弾むような軽快さを完全に失っていた。低く、どこか震えるその声が、僕の耳の奥にじんわりと染み込んでいく。

彼女は地面に座り込んでいた僕の右腕をそっと掴むと、自分の小さな肩を僕の脇の下へと滑り込ませてきた。衣服越しに伝わってくる彼女の体温は驚くほど熱く、そしてその身体は、僕の体重を支えるにはあまりにも細くて華奢だった。


「……いいよ」


「いいから、立って。ほら、ゆっくりね」


僕は彼女の肩に半分ほど体重を預けながら、痛む頭を抑えてゆっくりと立ち上がった。一歩を踏み出すたびに、視界がぐらりと揺れる。咲楽は自分の歩調を僕のぎこちない足取りに完全に合わせ、一歩、また一歩と、静まり返った廊下を保健室へと向かって歩き出した。彼女の視線はまっすぐ前方の白い扉へと向けられていたけれど、その横顔の眉は痛々しいほどに中央に寄せられていた。


ガラガラ、と静かな校舎に、保健室の引き戸が開く高い音が響いた。


「先生! 友達がケガしちゃって……!」


咲楽はドアを開けると同時に、中にいる養護教諭の先生に向かって少し上ずった声を上げた。

部屋の中に充満する、独特の消毒液の匂いが僕の鼻腔を突く。デスクに向かっていた保健室の先生は、咲楽の切羽詰まった声に驚いたように顔を上げ、僕たちの姿を見るなり、すぐに椅子から立ち上がった。


「あらあら、かなりひどいわね……。どうしたらそんな風になるの?」


先生は急いで僕を中央の丸椅子に座らせると、棚の奥から包帯や消毒液、大きめの絆創膏をガタガタと音を立てて探し始めた。先生の鋭い視線が、僕のおでこから流れる赤い血と、少し腫れ上がった左頬へと向けられる。あからさまに誰かから暴力を受けたようなその傷跡に、先生の不審そうな目が向けられた。


その時、僕と先生の間に、一瞬の重苦しい沈黙が流れた。

僕はどう言い訳すべきか分からず、ただ床の木目をじっと見つめて口を閉ざしていた。すると、僕の隣にぴったりと寄り添っていた咲楽が、自分の指先を何度も握り締めながら、先生の視線を遮るようにして一歩前に出た。


「じ、実は……階段から、思いっきりこけちゃって……!」


咲楽の声は、いつもより少し高かった。彼女は先生の顔を真っ直ぐに見つめようとしていたけれど、その大きな瞳は微かに泳いでおり、嘘をついていることへの罪悪感からか、すぐに視線を僕の足元へと落とした。彼女の長い睫毛が、不安げに細かく震えている。


「階段からねぇ……。ずいぶんと大胆にこけたのね」


先生はすべてを察したような、だけどそれ以上は追及しないという少し呆れたようなため息をつきながら、僕の傷口に冷たい消毒綿を当てた。

痛みに思わず僕の身体がビクッと強張ると、咲楽は自分のことのように「ううっ」と小さな声を漏らし、両手で自分の口元を覆った。彼女の視線は、僕の傷口と先生の手元を何度も往復し、心配そうでたまらないといった風に潤んでいた。


「あ、あははは……。そうなんです、こいつ、本当におっちょこちょいで……」


咲楽は頭の後ろを掻きながら、引きつったような苦笑いを浮かべて言葉を濁した。彼女のその必死な胡麻化し方が、僕にとってはどこか愛おしく、そして申し訳なかった。


手際よく傷口が洗浄され、白い包帯が僕の頭に幾重にも巻き付けられていく。その様子を、咲楽は一言も発さずに、ただじっと見守っていた。部屋の中には、包帯が擦れるササッという微かな音と、壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、規則正しく響き渡っていた。


「はい、これでよし。……でも、少し頭を打っているみたいだから、念のために次の授業は休んで、ここで少し寝なさい。担任の先生には、私から連絡を入れといてあげるから」


先生が僕の肩を優しく叩きながらそう言うと、張り詰めていた部屋の空気が一瞬でふっと緩んだ。


「わかりました! ありがとうございます!」


咲楽はまるで自分が救われたかのように、弾んだ大きな声で先生に頭を下げた。

先生は苦笑しながら「お騒がせさんね」と言い、僕を部屋の奥にあるベッドへと促した。白い清潔なシーツが敷かれたベッドに横たわると、身体の緊張が一気に解け、頭の痛みが鈍い拍動へと変わっていく。


先生が「じゃあ、私は職員室に行ってくるからね」と言い残し、保健室の重い扉を閉めて出て行った。

部屋の中には、再び僕と咲楽の二人だけの静寂が訪れる。


咲楽はベッドの横に置かれた白いカーテンを静かに引き、僕の視界を周囲から遮断した。薄暗くなった空間の中で、彼女の気配だけがすぐ近くに感じられる。

彼女はベッドの縁にゆっくりと腰掛け、横たわる僕の顔をじっと見つめてきた。その瞳には、先ほどの怒りや恐怖は消え去り、ただ僕を労わるような、深い優しさだけが湛えられていた。


しばらくの間、二人の間には言葉がなかった。

僕は彼女の真っ直ぐな視線から逃れるように、少し目を伏せた。彼女のカバンの奥で見た、あの大量の薬の白さが、なぜかこの白い部屋の中で鮮明に思い出されてしまう。病気で残り少ない命のはずの彼女が、どうしてこんなにも僕のために傷つき、必死になってくれるのだろう。


ふいに、ベッドのマットレスがわずかに沈み込んだ。

咲楽が身体を僕のほうへと大きく傾け、その顔を僕の耳元へと近づけてきたのだ。彼女の濡れた茶色い髪の先が、僕の首筋にチクリと触れる。あの柑橘系の甘い香りが、一気に僕の鼻腔を満たした。


「……放課後、様子確認しに来るね」


咲楽は、僕の耳元で小さく、掠れるような吐息と共に囁いた。

その距離は、ほんの数センチメートルもなかった。彼女の吐息が僕の肌を優しく撫で、心臓がドクリと大きな音を立てる。驚いて顔を彼女のほうへ向けようとした瞬間、咲楽はすっと身体を離していた。

引き際に見えた彼女の白い頬は、夕焼けの先触れのように、ほんのりと、だけど確実に赤く染まっていた。彼女は僕と視線を合わせないように、慌てて視線を左側の床へと逸らすと、そのまま足早にカーテンの向こうへと去っていった。


パタン、とドアが閉まる音がして、完全に一人になった部屋で、僕は自分の顔がバカみたいに熱くなっていることに気づいた。おでこの傷口とは違う場所が、ドクドクと激しく脈打っている。僕は仰向けになったまま、天井の白い模様をただじっと見つめ、彼女の残響に浸るしかなかった。


それからの数時間は、まるで微睡みの中を漂うようだった。

時折、遠くから運動部の声や、授業の終わりのチャイムが聞こえてくるだけで、保健室の中は驚くほど静かだった。眠っているのか起きているのかわからない境界線の中で、僕はただ、放課後という時間の訪れを静かに待っていた。


やがて、本日最後を告げる長いチャイムが校舎中に響き渡り、しばらくすると、廊下が急に騒がしくなり始めた。生徒たちの解放感に満ちた笑い声が、ドア越しに遠くへと流れていく。


その喧騒が落ち着き始めた頃、カチャリと保健室のドアが開く音がした。

迷いのない、だけど少し遠慮がちな足音がまっすぐ僕のベッドへと近づいてくる。


シャッ、と小気味よい音を立てて、白いカーテンが横にスライドした。


「調子はどう? いい感じ?」


カーテンの隙間から顔を覗かせたのは、予言通りにやってきた咲楽だった。

彼女は両手を後ろで組み、少し首を小首をかしげながら、ベッドに横たわる僕の顔をじろじろと覗き込んできた。その大きな瞳の中には、僕の体調を本気で心配する色と、再び会えたことへの小さな喜びが、きらきらとした光となって混ざり合っていた。


「うん……おかげさまで」


僕はゆっくりと上体を起こし、ベッドの上に座り直した。

そして、いつもならすぐに逸らしてしまうはずの彼女の瞳を、今度はまっすぐに見つめ返した。彼女が僕のためにしてくれたこと、桃子や純一の前で僕を守ってくれたこと。そのすべてに対する感謝の気持ちを、どうしても自分の目を通じて伝えたかったからだ。


僕が視線を逸らさずにじっと見つめると、咲楽は一瞬だけ意外そうに目を見開いた。だけど、すぐにその長い睫毛を優しく伏せ、嬉しそうに口元を緩めた。二人の間に、不思議と心地のよい、短い沈黙が流れる。お互いの視線が絡み合い、言葉がなくても何かが伝わっているような、そんな錯覚さえ覚える時間だった。


「痛みも引いてきたし……そろそろ、帰ろっかな」


僕はベッドから足を下ろし、床のローファーに足を通しながら、少し照れ隠し気味に呟いた。まだ頭の芯には鈍い痛みが残っていたけれど、これ以上ここにいて彼女を心配させ続けるわけにはいかないと思った。


僕が立ち上がったその瞬間、咲楽の目が弾かれたように大きく輝いた。彼女は組んでいた手を前に出し、僕の顔を真っ直ぐに見上げながら、声を少し弾ませて言った。


「私と、帰ろ!」


その言葉には、一切の躊躇いも、計算もなかった。ただ、純粋に「私と一緒にいてほしい」という彼女の真っ直ぐな願いだけが、ストレートに僕の胸へと飛び込んできた。


僕はその誘いを、断りたくなかった。

いや、断る理由なんて、僕の心の中には最初から一滴も存在していなかった。学校の誰から何を言われようと、ストーカーだと罵られようと、そんなことはもうどうでもよかった。今の僕にとっては、目の前で目を輝かせている彼女の存在だけが、この灰色の世界における唯一の光だったからだ。できることなら、この放課後の時間が終わらなければいいのにと、ずっと一緒に居たいとすら、心の底から願ってしまっていた。


「……いいよ」


僕は、彼女の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめたまま、素直に答えた。

自分の声が、いつもより少しだけ優しく、そして確かな響きを持っていることに気づく。


僕がそう答えた瞬間、咲楽の顔全体に、まるで世界中の光を集めたかのような、眩しいほどの満面の笑みが広がった。彼女は頬を真っ赤に染めながら、何度も何度も小さく頷いた。

窓の外からは、オレンジ色の夕暮れの光がカーテン越しに優しく差し込み、僕たち二人を静かに包み込んでいた。これまでの孤独や痛みが、彼女の笑顔によって綺麗に溶かされていくのを感じながら、僕は彼女の隣に並び、ゆっくりと歩みを進めるために保健室のドアへと向かった。

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