四章
旅行の日の朝。駅の改札口周辺は、大きな荷物を抱えた旅行客や通勤中の人々で行き交い、独特の活気と騒がしさに包まれていた。
僕はいつもより少し早い歩調で、いや、最後は我慢できずに小走りをしながら、待ち合わせの目印である柱へと向かっていた。人混みを縫うようにして進むたび、心臓がいつもとは違う理由で小さく拍動を速めていく。
「おまたせ」
息を少し切らしながら、僕は彼女の前に滑り込んだ。
柱に背を預けていた咲楽は、僕の声にハッとしたように顔を上げ、それまで熱心にいじっていたスマートフォンの画面を消した。いつも学校で見る制服姿とは違い、少し大人びたお洒落な私服に身を包んだ彼女が、すっと僕のほうを向く。
「も~、おそい~。私、20分ぐらい待ったんだけど?」
咲楽は持っていたスマートフォンをカバンに仕舞いながら、わざとらしく唇を少し尖らせてみせた。だけど、その白い頬は朝の涼しい空気のせいだけではなく、ほんのりと赤く染まっている。怒っているというよりは、僕が来たことが嬉しくてたまらないといった感情が、その大きな瞳から溢れ出ていた。
「それは……君が20分前につくからでしょ?」
僕は彼女の一歩手前で足を止めた。
いつもなら、こんな風に他人の言葉に対して軽口で返すことなんて、僕の選択肢にはなかったはずだった。どんな人とも関わりたくなかったし、誰かと視線を合わせることすら避けて生きてきたのに。なぜだろう、彼女の前に立つと、自然と言葉が溢れてしまう。もっと彼女と話したい、もっと彼女の反応を見ていたいと、心のどこかで強く願っている自分がいることに、僕は驚きを禁じ得なかった。
「あはははっ! 確かにww」
咲楽は一瞬だけ目を丸くしたあと、楽しそうに天井を見上げて破顔した。彼女の鈴を転がすような笑い声が、駅の雑踏の中に溶けていく。その笑顔を見た瞬間、僕の胸の中にあった緊張の塊が、すっと消えていくような気がした。
「じゃあ、行こっか!」
彼女は弾むような足取りで歩き出し、改札機へと向かった。
切符を通し、吸い込まれるようにしてホームへと向かう。電車に乗り継ぎ、やがて僕たちは新幹線のプラットホームへと降り立った。
入線してくる巨大な白い車体を眺めながら、僕はふと、自分が今からとんでもない場所に踏み出そうとしていることに気づく。家族以外の人と旅行に行くなんて、僕のこれまでの人生では一度もなかったことだ。隣を歩く彼女の存在が、急に現実味を帯びて僕の肩に圧し掛かってくる。
新幹線が動き出し、窓の外の景色が目まぐるしい速さで後ろへと流れていく。
車内が落ち着いた頃、僕たちはあらかじめ買っておいた駅弁を広げた。
「ねー。そろそろどこ行くか教えてよ」
僕は自分の前に置かれた牛丼の肉を箸で口に運び、もぐもぐと噛み締めながら、隣の席に座る彼女に問いかけた。新幹線に乗ってからも、彼女は頑なに行き先を明かそうとしなかったからだ。
「ひーみーつ! どこ行くかわからないから楽しいんでしょ!」
咲楽は自分の弁当をつつきながら、ニコニコとした完璧な微笑みを僕に向けた。その表情には一点の曇りもなく、これから始まる旅への純粋な期待だけが詰まっているように見えた。
しばらくの間、新幹線の規則的な駆動音だけが二人の間に流れていた。
ふと、咲楽が箸を止め、僕の顔をじっと覗き込むようにして首を傾げた。
「……君の下の名前、なんだっけ?」
唐突な問いかけだった。
学校ではいつも苗字で呼ばれるか、「あなた」と呼ばれていた。彼女のまっすぐな視線が僕の瞳にぶつかり、僕は思わず喉を詰まらせそうになった。
「……言う必要ある?」
気恥ずかしさが一気に込み上げてきて、僕は彼女の問いに対して、さらに質問で返すという最悪の照れ隠しをしてしまった。視線を窓の外の、緑色の山々へと無理やり逸らす。
「あーる!」
咲楽がぷくっと両頬を膨らませて抗議の声を上げた。その子供っぽい仕草に、僕は完全に降伏せざるを得なかった。
「……春樹。遠藤、春樹」
僕は彼女の顔とは完全に反対の方向、通路側の壁を見つめながら、消え入りそうな小声で答えた。自分の名前を女の子に教えるだけで、どうしてこんなに心臓が痛くなるのだろう。
「ふふっ。いい名前だね、春樹!」
咲楽は嬉しそうに僕の名前を口にすると、頬を林檎のように赤くして笑った。その響きが僕の耳の奥に残り、顔がさらに熱くなっていくのが分かった。会話を切り替えるために、僕は前々から疑問に思っていたことを口にした。
「てか、どうやって男とのお泊り旅行許されたの?」
「それはね!」
咲楽は自慢げに人差し指を立てた。
「桃子と行くって言っといた! さすがに親に男の子と行くって言ったら駄目って言われるだろうし。……君は?」
彼女は白色に輝く温かいごはんを箸で口へと持っていき、もぐもぐと幸せそうに咀嚼してから、今度は僕に視線を戻した。
「親には迷惑かけたくないから、男友達と行くって言っといた」
僕は牛丼の最後の一口を口に運び、空になった容器を見つめながら正直に答えた。僕にはそんな風に一緒に旅行に行ってくれるような「男友達」なんて、本当は一人もいないのだけれど。親に余計な心配をさせたくないという気持ちだけは本物だった。
「はははははっ! 自分で言って悲しくないの?ww」
咲楽は食べていた手を完全に止め、箸をお弁当の縁に置くと、大げさに肩を揺らして笑い転げた。彼女のその遠慮のない笑い声が、僕の小さな嘘と寂しさを包み込んでくれるような気がした。
「悲しいけど……心配かけたくないし……」
お弁当のゴミを袋に片付けながら、僕は少し視線を落とし、自嘲気味に小声で呟いた。
「やっぱおもしろいね、君は。……てか、お母さん大丈夫?」
彼女は相変わらず僕の不器用さを笑い飛ばしながらも、ふと思い出したかのように、声音を少し落として聞いてきた。その瞳の奥には、僕の家庭を本気で気遣う優しさが滲んでいた。
「3日前ぐらいに、無事に退院したよ」
僕はポケットからスマートフォンを取り出し、特に意味もなく画面をスクロールしながら答えた。母親の退院という事実が、今の僕の心を少しだけ軽くしてくれているのは確かだった。
新幹線が終点に滑り込み、ドアが開いた瞬間、もわっとした夏の終わりの熱気が僕たちの身体を包み込んだ。
大阪に着いてからの彼女のテンションは、最高潮に達していた。
「やった~! 初の大阪!! まずは、たこ焼きたべよ!!」
咲楽は駅の改札を出ると、子供のように3歩ほどタタタッと走り込み、大阪駅の大きな看板を見上げるようにして、くるりと後ろを振り返った。その髪が夕日を浴びてきらきらと輝いている。
「まずは、ホテルに荷物を預けに行ってからだって……」
僕は大きなカバンを肩にかけ直しながら、彼女を追い越すようにして前を進んでいこうとした。まずは計画通りに行動するべきだ、と自分に言い聞かせながら。
「ほら、つべこべ言わずにこっちきて!」
前を歩いていたはずの僕の横に、いつの間にか咲楽が並んでいた。
それだけではなかった。彼女は小さな、だけど力強い手で、僕の制服の袖を、いや、僕の腕をぐっと握りしめてきたのだ。
肌と肌が衣服越しに触れ合う。その瞬間の衝撃に、僕の思考は完全に停止した。
咲楽も、そして僕も、お互いに頬を真っ赤に染めながら、どちらからも視線を合わせようとはせず、ただ前だけを見つめて歩を進めた。彼女の手のひらから伝わってくる温かさが、僕の腕を通じて全身へと広がっていく。その心地よさと恥ずかしさに耐えかねて、僕たちは無言のまま、駅の近くにある手荷物預かり所へと向かった。荷物を預けた後、僕たちは文字通り、大阪の街を満喫しに繰り出した。
そこからの数時間は、まるで夢の中にいるようだった。
道頓堀の賑やかな雑踏の中、僕たちは有名なたこ焼き屋の列に並び、出来立ての熱いたこ焼きをフーフーと言いながら口に運んだ。外はカリッと、中はトロッとした食感に、咲楽は目を輝かせて「美味しい!」と何度も声を上げた。
それだけでは飽き足らず、彼女の旺盛な食欲は止まらなかった。お好み焼きの濃厚なソースの香りに誘われ、串カツ屋の暖簾をくぐり、最後には出汁の効いた関西風のうどん屋にまで足を運んだ。
「どんだけ食べるんだよ……」
僕は呆れ半分、だけど可笑しさが込み上げてきて、自然と口角を上げながら、隣で美味そうに麺をすする彼女の横顔を覗き込むようにして喋りかけた。
「いいでしょ、別に。美味しいんだから」
彼女は満面の笑顔のまま、うどんを綺麗に平らげて答えた。
お腹が満たされた後は、大阪の有名な観光地や、歴史ある世界遺産の建造物などを巡り歩いた。彼女が楽しそうに歩く後ろ姿を見ているだけで、僕の胸の中は、今までにないほどの色鮮やかな感情で満たされていった。
すっかり日が暮れて、街のネオンが美しく輝き始めた頃、僕たちは予約していたホテルへと到着した。
ロビーのソファに腰掛け、荷物を足元に置いて待っている僕の視線の先で、咲楽がフロントのスタッフと何やら親しげに話をしていた。
「はーい! わかりました!」
やがて話を終えた彼女が、受付から僕のほうへと歩いてきた。その足取りはどこか弾んでいて、手には一本のルームキーが握られている。
「ねぇねぇ。お部屋、1つでいいよね?」
何かのトラブルがあったのか、それとも最初からの彼女の計画だったのか。
咲楽は少し首をかしげ、その小さなルームキーを両手で包み込むようにして自分の顔の近くに持ってきた。長い睫毛の奥にある瞳を潤ませ、上目遣いで僕の反応を覗き込んでくる。その破壊的な可愛らしさに、僕の心臓は一瞬で爆発しそうになった。
「え、えええ! なんでだよ! いいわけないじゃん!」
僕は驚きのあまりベンチから跳び上がりそうになりながら、声を裏返らせた。頬が一気に沸騰したように熱くなる。彼女の真っ直ぐな視線から逃れるように、慌てて視線を左斜め下の床へと逸らした。男女が同じ部屋に泊まるなんて、そんなこと、僕の理性が耐えられるはずがない。
「でも、もうキーもらっちゃったし……」
咲楽は視線を一度右側の壁へと逸らし、それから悪戯が成功した子供のような目をしながら、僕のほうへと視線を戻した。その顔には、僕を困らせて楽しんでいるような、だけどどこか切実な色も混ざっているように見えた。
「わかったよ、もー……」
これ以上彼女と言い争っても勝てるはずがない。僕は深い、諦めの混ざったため息をつきながら立ち上がり、彼女の前を歩き出した。
後ろを歩く咲楽が、頬をあからめながら口角を嬉しそうに上げているのが、振り返らなくても気配で分かった。
エレベーターに乗り、静かな廊下を通って部屋のドアを開ける。
部屋は思いのほか広く、中央には大きなダブルベッドが一つ、そして窓際には小さなソファーが置かれていた。
「やっほーい! 二人でベッドでねるんだ!」
咲楽は部屋に入るなり、カバンを床に放り投げて、大きなベッドの上へと勢いよくダイブした。白いシーツの上に彼女の身体が沈み込み、楽しそうに足をパタバタとさせている。
「な……ふざけないで。僕は、こっちで寝るから」
僕は彼女のその無防備な姿に目のやり場をなくし、顔を真っ赤にしながら、部屋の隅にある小さなソファーをビシッと人差し指で指し示した。
「えええ~。一緒にねたかったな~」
咲楽はベッドの大きな布団を引き上げ、自分の顔を半分ほど隠しながら、頬を赤らめて不満げに呟いた。その言葉の裏に、どれほどの本気度が含まれているのか分からず、僕はただ生唾を飲み込むしかなかった。
「おふろ、先はいるね!」
気まずい沈黙を破るように、彼女はベッドから跳び起きると、着替えを持ってそそくさとお風呂場へと向かっていった。バタン、とドアが閉まり、すぐに激しいシャワーの音が部屋の中に響き渡り始める。
「はいよ……」
誰もいない部屋の中で、僕はぽつりと返事をした。
テレビのリモコンを押し、適当なバラエティ番組を流してみるけれど、画面の中で笑う芸能人の声なんて一言も頭に入ってこなかった。BGMのように流れるテレビの音の裏側で、お風呂場から響くザーザーというシャワーの音が、僕の耳をどうしても捉えて離さない。
ソファに深く腰掛け、天井を見上げる。
なぜ、僕は彼女とのこんな無茶な旅行をOKしてしまったのだろう。
なぜ、僕は学校でストーカーだと騒がれ、関わるべきではないとあれほど強く思っていたはずの彼女と、今こうして同じ部屋にいるのだろう。
彼女の強引さに流されただけなのか。それとも、僕自身が彼女の光に救われ、彼女の傍にいたいと強く願ってしまったからなのか。
自分の中の矛盾した感情を整理しようと、頭を抱え込んだ。
その時だった。
「ねー。私のカバンから、洗顔とって~」
お風呂場のドアの向こうから、シャワーの音に混じって咲楽の少しこもった声が僕を呼んだ。
「はぁ……」
僕は小さくため息をつきながらソファから立ち上がり、床に置かれた彼女の大きなカバンへと近づいた。チャックを開け、中身を傷つけないように静かに手を入れて洗顔料を探し始める。
お洒落なポーチや、着替えの衣服、小物が詰め込まれたカバンの奥深く。僕の指先が、何か硬いプラスチックのボトル、あるいは複数のシートのような手触りに触れた。
大量の薬だ。
心臓が、冷たい氷を押し付けられたように凍りつく。
一瞬にして、僕の頭の中の楽しかった旅行の記憶が吹き飛び、冷酷な現実へと引き戻された。
そうだ。彼女は、病気なんだ。
クラスのアイドルとして、僕の味方をしてくれて、今こうして大阪で楽しそうに笑い転げている彼女の身体は、確実に終わりの時へと向かっている。余命はもう、残り半年を過ぎている。その圧倒的な事実の重みが、薬の白いパッケージを通じて、僕の脳裏に容赦なく突き刺さってきた。彼女のあの眩しい笑顔の裏側には、毎日これだけの薬を飲まなければ維持できない、過酷な現実が隠されていたのだ。
手先が小刻みに震えるのを、僕は必死に抑え込んだ。
カバンの隅にあった洗顔料のチューブを掴み、僕はよろめくような足取りでお風呂場のドアへと向かった。
「はい……」
僕は声を絞り出し、お風呂場の白いドアを、ほんの数センチだけ、最小限の隙間を開けた。
中から、一気にあたたかい湯気と、彼女の身体から立ち上るあの甘い柑橘系の香りが、濃厚な熱気となって僕の顔を直撃した。
隙間から、水滴のついた彼女の白い手だけがすっと伸びてくる。
「んー。ありがとー!」
ドアの向こうから聞こえる彼女の声は、相変わらず明るくて、いつも通りだった。僕は彼女の手元に洗顔料のチューブを押し込むようにして渡し、彼女がそれを掴んだのを確認すると、すぐに手を引いてドアを静かに閉めた。
カチャリ、とドアが閉まる音がした瞬間、僕はその場に崩れ落ちそうになるのを堪え、壁に背中を預けた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
なぜだろうか。僕の息の根は、バカみたいに激しく上がっていた。
お風呂場からの熱気のせいだけではない。男女が同じ部屋にいて、お風呂のドア越しにやり取りをしたという、思春期としての圧倒的な羞恥とドキドキ感。
そしてそれ以上に、先ほど目にしてしまった「大量の薬」という、彼女の命の期限を突きつける現実の恐ろしさ。
その二つの全く異なる巨大な感情が、僕の胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、肺の空気を力任せに搾り出していた。
心臓が、破裂しそうなほどの音を立てて暴れている。僕は赤くなった顔を両手で覆いながら、静まり返った部屋の中で、ただ自分の激しい呼吸を整えることしかできなかった。ドアの向こうからは、再び、何事もなかったかのように規則正しいシャワーの音が響き始めていた。
「お! ちょうどいいところで出たね! 下の売店でお菓子と飲み物買ってきだよ」
お風呂のドアを開けて部屋に戻った瞬間、僕を待っていたのは、両手にお菓子とジュースのコップを抱えた咲楽だった。彼女の髪からはまだ微かに湯気が立ち上っており、その笑顔はまるで春の夜にひっそりと、だけど力強く咲く桜のようだった。カバンの奥で見た、あの大量の薬の白さは、彼女の放つ圧倒的な眩しさによって一瞬で覆い隠されてしまう。
「ありがとう」
僕は手にしたバスタオルで濡れた髪をごしごしと拭きながら、彼女の前に歩み寄った。先ほどまでの動揺を悟られないよう、声のトーンを意識していつも通りに保つ。
「ほらこれ、飲んで!」
咲楽は満面の笑みを浮かべたまま、並々と液体の注がれたコップを僕の目の前に突き出してきた。僕は彼女のその勢いに押されるようにして、何のためらいもなくそのコップを受け取り、喉を潤すために一気に口へと運んだ。
グビッ、と一口飲み込んだ、その直後だった。
「ゴホッ、ゴホッ……! ゲホッ、なにこれ……っ」
喉の奥を刺すような奇妙な苦味と、炭酸の妙な刺激が同時に襲いかかってきて、僕は激しく咳き込んだ。鼻に抜ける香りは確かにお茶なのに、舌に残る感覚はドロリと甘い炭酸飲料のそれだった。
「ははははははっ! これはね、お茶とコーラ混ぜたの! どう? まずい?」
咲楽はソファの上に座ったまま、お腹を抱えるようにして文字通り爆笑した。彼女の白い頬は、笑いすぎたせいか、それともお風呂上がりの熱気のせいか、綺麗なピンク色に染まっている。
「……めっちゃまずいよ」
僕は口の中に残る最悪の余韻を消そうと、舌を少し出しながら顔を顰めた。本当に、言葉通りに信じられないほどまずかった。だけど、不思議と嫌な気分ではなかった。それどころか、鏡を見なくても分かるくらい、僕の口元はだらしなく緩んでしまっていた。彼女の突拍子もない悪戯が、僕の心を酷く安心させていた。
「質問ゲームやろ! ルールはじゃんけんで勝った方が出題者ね」
咲楽は自分が飲み終えた空のコップを片手に持ち、それを机にコトリと置きながら、目をきらきらと輝かせて提案してきた。
「わかった。負けないから」
僕は手にした「お茶コーラ」のコップを机の端へと静かに置き、今度こそ真剣な表情を作って彼女の正面に立った。
「最初はグー、じゃんけんぽん!」
二人の声が、ホテルの静かな客室の中に大きく響き渡った。
クラスの誰とも喋らず、家でも必要最低限の会話しかしてこなかった僕が、こんなにもお腹の底から大声を出して、誰かとじゃんけんをしている。その事実自体が、どこか現実味のない、だけど最高に満ち足りた時間のように思えた。
「よっしゃー! 私の勝ち!」
咲楽は出した「パー」の手をそのまま突き上げ、ソファーから天井に届くような勢いで、座ったままピョンと跳ね上がった。彼女の濡れた茶色い髪が、その動きに合わせてフワリと宙に舞う。
「じゃ~あ、今までで一番楽しかったのは?」
彼女は人差し指を顎に当て、少し考える仕草をした。ゲームの最初だからか、彼女特有の突飛な質問ではなく、どこか一般的な、ありきたりな質問を僕に投げかけてきた。
「……新作のゲームを、5時間ぶっ続けでしたこと」
僕は少し視線を斜め上に泳がせ、自分の過去の記憶を必死に手繰り寄せた。けれど、僕の灰色の人生の中から出てきた「楽しい記憶」なんて、そのくらい寂しいものしかなかった。
「え~。つまんないの」
咲楽はあからさまにがっかりしたような声を出すと、そのままソファーの上にゴロンと横たわった。そして、ソファーの端っこにある柔らかい手すりの部分に小さな顎をちょこんと乗せ、不満げに両頬をぷくっと膨らませて僕を睨んできた。その姿は、僕にしてみればゲームのどんなグラフィックよりも鮮烈で、眩しかった。
「じゃあ、つぎ行くよ! じゃんけんぽん!」
「最近一番うれしかったことは?」
「……春樹に出会えたこと」
「好きな教科は?」
「社会」
「好きな動物は?」
「ウサギ!」
それからの数分間、僕たちの間で短い言葉が機関銃のように行き交った。
じゃんけんをして、勝っては問い、負けては答える。彼女の口から滑り落ちた「春樹に出会えたこと」という言葉が、僕の胸の中に熱い塊となって残り続けていたけれど、ゲームの勢いはそれを立ち止まらせてはくれなかった。
「じゃあ、いくよ」
今度は僕の番だった。僕は右手を前に伸ばし、じゃんけんの構えを作った。咲楽もすぐにソファーの上で体勢を立て直し、同じように小さな手を前に伸ばしてきた。彼女の指先が、微かに震えているように見えた。
「最初はグー、じゃんけんぽん!」
最初の大声よりは少しだけボリュームが落ちていたけれど、それでも二人の息の合った声が部屋に響く。
「やったー! やっと勝てた!」
咲楽は僕の出した「グー」に対して「チョキ」を出して負けたにもかかわらず、なぜかソファーに横たわったまま、両足を上下にバタバタとさせて大喜びした。勝敗なんて、彼女にとっては二の次なのかもしれなかった。
「じゃ~あ……クラスで一番かわいい人はだれ?」
咲楽の動きがピタリと止まった。彼女はソファーのクッションに顔を半分ほど埋めるようにしながら、少しだけ頬を赤く染め、僕からすっと目をそらした。自分で聞いておきながら、急に恥ずかしくなったのだろう。
「な……なにを言ってるの?」
突然の直球すぎる質問に、僕は目をおっきく見開き、手持ち無沙汰になった両手をモジモジと動かしながら声を詰まらせた。心臓が、またあのバカげたリズムでドクドクと脈打ち始める。
「だめだよ! 正直に答えないと!」
咲楽はクッションから顔を半分覗かせ、僕の目をしっかりと見つめながら、少し拗ねたような口調で注意してきた。彼女の強い視線に射抜かれ、僕は逃げ道を完全に塞がれてしまった。
「……僕が思い出せる中では……咲楽、かな」
僕は彼女の顔を正面から見ることができず、視線を部屋の隅の電気スタンドへと逸らしながら、蚊の鳴くような小声で呟いた。
僕がそう言った瞬間、咲楽の顔全体がカッと真っ赤に染まった。彼女はソファーの中で身体を左右に小刻みに揺らし、濡れて茶色く輝く髪を部屋の明かりになびかせながら、両手で完全に顔を覆い隠してしまった。
「自分で聞いといて、恥ずかしいよ……っ」
覆った手の隙間から、彼女のくぐもった声が聞こえてくる。
なぜだろうか。彼女とこうして過ごしていると、僕の胸は痛いくらいにドキドキして、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。この胸の奥から湧き上がる熱い感情が、世間で言う「恋」というものなのか、それとも別の何かなのか、今の僕には正確な名前をつけることはできない。けれど、僕の灰色だった人生において、彼女が唯一無二の、絶対的に特別な存在であることだけは、疑いようのない事実だった。
「ねー。そろそろ寝たいから、ベッドまで運んで!」
しばらくの沈黙の後、顔から手を退けた咲楽が、まだ頬をあからめたままソファーの上でだらしなく横たわり、僕に向かって甘えるような声をだした。
「自分で行きなよ」
僕はその言葉の破壊力から逃れるように、わざとおざなりな態度を取り、机の上に散らばったお菓子の袋やゴミをパタパタと片付けながら、めんどくさそうなフリをして返した。
「私、もう足動かさなーい」
咲楽はさらに頬を膨らませ、上半身だけを前のめりにして僕をじっと見つめてきた。その目には、僕が自分の我が儘を聞いてくれるという、確信めいた信頼が宿っていた。
「はぁ……」
僕は大きめの、わざとらしいため息を一つ。だけど、心の中では彼女のその我が儘を受け入れることを、すでに決めていた。ゴミをゴミ箱に捨てると、僕は彼女が横たわるソファーへとゆっくりと歩み寄った。
「ちょ、ま……っ」
僕が本気で彼女の身体を持ち上げようと腕を伸ばした瞬間、咲楽の顔が文字通り真っ赤に変色した。彼女はそれまでの余裕を完全に失い、身体をそわそわと縮こまらせた。
僕は細い彼女の身体を痛めつけないよう、慎重に、だけど力を込めてその身体を両腕で抱え上げた。
背中と、膝の裏に僕の手のひらが触れる。驚くほど軽かった。軽すぎて、彼女の命の儚さを物理的に突きつけられたような気がして、胸が締め付けられる。
僕はそのまま数歩歩き、彼女の身体を大きなベッドの上へとゆっくりと下ろした。
「……ほんとにしてくれるとは思わなかった。それもお姫様抱っこで!」
咲楽はベッドに横たわったまま、自分の右腕で顔(目元)を隠すようにして、消え入りそうな声で呟いた。彼女の耳の縁まで真っ赤になっている。
「君が動けないって言ったんじゃないか」
僕は自分の顔が今どんなに赤いかを彼女に見られたくなくて、すぐにきびすを返し、先ほどの中途半端な片付けの続きをするために机へと戻った。背中越しに、彼女の小さな息遣いが聞こえる。
「そうだけどさ~。……てか! 私のこと『君』呼びするのやめて! 私の名前で言ってよ!」
布団の中にすっぽりと潜り込んだ咲楽が、布地越しに少し籠った声で抗議してきた。
「……君も、僕を『君』って呼んでるじゃないか」
僕は手を動かすのを止め、頬を赤くしながら、部屋の窓ガラスに映る自分の情けない顔を見つめて言い返した。
「それは、君が私を『君』っていうから!」
布団から勢いよく顔を出した咲楽が、少し強めの口調で言い放った。その表情はどこか怒っているようでもあり、だけどそれ以上に、僕に名前を呼ばれたがっている気恥ずかしさが隠しきれずに滲み出ていた。
「……わかったよ。咲楽」
僕が限界まで照れながら、その名前を口にすると、咲楽は嬉しそうに目を細め、頬をこれ以上ないほどに赤らめた。
「ありがとう! 春樹!」
彼女の口から僕の名前が響く。僕も、胸の奥がくすぐったいような、少し照れくさい感情に包まれていた。二人の間の不自然な距離が、名前を呼び合うことで、静かに、だけど確実に溶けていくような気がした。
「ねー。春樹もベッドで寝て!」
片付けを終えた僕に向かって、咲楽が再び布団の中から声をかけてきた。彼女は布団に顔を深く伏せていたため、その表情が「少女の悪戯」なのか、それとも別の意図があるのか、僕には判別がつかなかった。
「ヤダよ」
僕は一秒の躊躇いもなく即答した。これ以上の密着は、僕の理性が本当に崩壊してしまう。僕はそのまま壁のスイッチへと手を伸ばし、部屋の主照明をパチンと消した。
部屋は一瞬にして、窓の外の街灯がかすかに差し込むだけの、薄暗い空間へと変化した。
「おーねーがーい! じゃんけんで私が勝ったら寝て!」
暗闇の中から、咲楽の少し鼻にかかった、かわいくおねだりするような声が聞こえてくる。
「じゃんけんぽん!」
暗闇の中で交わされた、最後のじゃんけん。結果は、彼女の勝ちだった。
「やったー! 私の勝ちー!」
咲楽はとても嬉しそうに布団をごそごそと動かし、ベッドの片側を空けるようにして身を縮めた。僕は重いため息をつきながらも、約束通りベッドの反対側の端へと潜り込んだ。彼女の身体に触れないよう、完全に背中を向け、壁のほうをじっと見つめて横になる。
シーツ越しに、彼女の微かな体温と、あの柑橘系の香りが伝わってくる。部屋の中は、再びあの図書室のような、張り詰めた静寂に包まれていった。
布団に入ってから、数分が経った頃だろうか。
お互いに眠りについたかと思ったその静寂の中で、隣から、今までに聞いたこともないような、低く、湿った声が僕の耳に届いた。
「ねぇ……。もし私が……死ぬのが怖いって言ったら、どうする?」
心臓が、ドクンと冷たく跳ね上がった。
咲楽の声は、今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに悲しそうで、泣き出しそうだった。
背を向けている僕からは、彼女の顔は見えない。
……いや、見たくもなかった。
いつも太陽のように笑って、僕の暗い世界を照らし続けてくれた彼女が、そんな弱り切った、絶望したような顔をしているのを、僕は絶対に見たくなかった。カバンの奥にあった大量の薬の白さが、再び僕の脳裏に現実の恐怖として蘇ってくる。
「……早く寝るよ」
僕は暗闇の中で、自分でも驚くほど険しい表情を作り、冷たい声を絞り出した。
なんて言えばいいのか、僕には分からなかった。
「大丈夫だよ」なんて無責任な嘘は言えなかったし、「怖がらないで」なんて言えるほど、僕は強くない。彼女の残された時間の短さを前にして、僕の持っている言葉はあまりにも無力で、ちっぽけだった。
何も言ってあげられない自分の不甲斐なさと、彼女を襲う過酷な運命への怒りが、胸の奥でドロドロとした悔しさになって広がっていく。
今にも涙がこぼれ落ちそうになるのを、僕は暗闇の中でじっと歯を食いしばって堪えた。どうすればいいんだ。誰か教えてくれよ。
僕はただ、彼女に背を向けたまま、届かない答えを求めて、夜の深淵へと目を凝らし続けることしかできなかった。隣からは、かすかに、本当に微かに、鼻をすするような音が静かに響いていた。
夜が明け、客室のカーテンの隙間から、眩しいほどの朝の光が差し込んできた時、僕たちは目覚めた。
前夜の重苦しい空気は、朝の光によって一時的に隅へと追いやられていたけれど、僕の胸の奥にはまだあの問いかけの残響が冷たく居座ったままだった。
洗面所で僕が電動歯ブラシを口にくわえ、規則的な振動の音を響かせていると、ベッドの方から突然、スマートフォンの甲高い着信音が鳴り響いた。咲楽が寝ぼけ眼のまま画面をタップし、スピーカーモードにしたのだろう。スピーカー越しに、静かな部屋へと弾け飛んできたのは、聞き覚えのある鋭い声だった。
「あんたどこいるの??」
桃子の声だった。怒気を含んだその声は、受話器越しでもはっきりとクラスでの彼女の険しい表情を思い出させた。しかし、咲楽は全く動じる風もなく、ベッドの上に起き上がって、伸びをしながらこともなげに答えた。
「今は大阪。春樹といる!」
彼女は何の躊躇いもなく、すべてを正直に話した。まるで、これから自分たちの身に何のトラブルも起きないかのように、あまりにも自然に。
「春樹? だれそいつ……ってもしかして、遠藤とかいうストーカー!?」
桃子がさらに声を荒げた。僕が口の中で歯ブラシを動かす手を止めてしまうほど、その非難に満ちた言葉は明確に洗面所まで届いていた。自分の名前が「ストーカー」という不名誉な単語と結びつけられて響くたび、胸の奥がキリキリと痛む。
「ははははははっ! そうだけどさ、ストーカーじゃないよ! 私が誘ったの!」
咲楽は最初、いつものようにケラケラと笑い飛ばしていた。けれど、親友からの強い拒絶を前にしてか、会話の途中から彼女の声のトーンが少しだけ下がり、真剣な響きが混ざった。彼女が僕を庇おうとしてくれているのが、その声の変化だけで痛いほど伝わってくる。
「……まぁいいわ。ごまかすの大変だったんだからね!」
ひとしきり説教をした後、桃子は呆れたようにため息をついた。
「ありがとう!」
咲楽は一気に声を弾ませ、嬉しそうに感謝を伝えて通話を切った。
スマートフォンをベッドに放り出すと、彼女は洗面所の入り口に立ち、歯磨きを終えて口をゆすいでいた僕の顔を覗き込んできた。
「いまね、桃子と話してたんだけど、すっごい怒ってたwww 春樹、こんど殺されるかもねww」
彼女は、お腹を抱えるような仕草をしながら大げさに笑った。
「……なんで僕が」
僕はタオルで口元を拭きながら、困惑を隠せずに呟いた。ただでさえクラスでの立場が悪いのに、これ以上桃子たちに目を付けられたらどうなるのか、その先の理由を頭の中で必死に探そうとしていた。
「そういうもんなの!」
咲楽は僕の困惑した顔を見て、ますます楽しそうに胸を張った。彼女にとって、周囲の評価や噂なんて、僕と過ごすこの時間の手応えに比べれば、本当にどうでもいいことのようだった。
お昼前、僕たちは駅の近くにある、落ち着いた雰囲気のレストランに立ち寄った。お洒落な内装と、漂ってくるオリーブオイルやトマトの香りからして、おそらくイタリアンのお店だろう。
「ねー。何食べる?」
テーブル席に座るなり、咲楽はワクワクした表情を隠しきれない様子で、大きなメニュー表を広げた。彼女の目は完全に料理の写真に釘付けになっている。
「……咲楽が持ってたら見えないよ」
僕はごく普通の、ごく当たり前の指摘をしたつもりだった。僕の席からは、彼女の掲げたメニューの裏側しか見えていなかったからだ。なのに、彼女は僕のその言葉を聞いた瞬間、またしてもツボに入ったように笑い出した。
「たしかにww ごめんww」
笑いながら、彼女はメニュー表を僕のほうへと傾け、二人の真ん中に置き直してくれた。
しかし、僕も彼女も、メニューの文字や写真を真剣に選ぼうとするあまり、ある決定的な事実に気づいていなかった。
それは、二人の距離が――近すぎる、ということだ。
「どれにしよー……」
咲楽がメニューの特定のページを指差そうとして、身体をぐっと僕のほうへと寄せてきた。
その時、僕もまた、どのパスタにするかを凝視しており、彼女がここまで接近していることに気づかなかった。
トン、と。
お互いの肩と肩、そして髪の先が、至近距離で柔らかくぶつかった。
彼女の体温と、あの甘いシャンプーの香りが、一気に僕の全感覚を支配する。
「あっ」
同時に声が漏れた。
心臓が跳ね上がるような衝撃の中、僕たちは弾かれたように、お互いすぐに反対の方向へと目をそらした。同時に言葉が重なる。
「「ご、ごめん」」
顔が一気にカッと熱くなるのが分かった。自分の頬がリンゴのように赤くなっているのを自覚しながら、気まずさを誤魔化すように、上ずった声で言葉を重ねた。
「「大丈夫だよ」」
二人は完全にそわそわとした様子で、視線を泳がせながら、噛み合わない会話をどうにか続けた。
「ど、どれにする……?」
「わ、私はこれでいいや……」
お互いに目についたメニューを適当に指差し、気まずさから逃れるようにして、すぐに店員を呼んだ。
「すみませーん! これと、これください」
「かしこまりました」
注文を終えて店員が去った後も、テーブルの上には息が詰まるほどの気まずい沈寂が流れていた。どうすればこの状況を切り抜けられるだろうか。僕が必死に冷汗をかきながら考えていると、いつも通り、彼女のほうがその壁を力技で切り開いてくれた。
「ねーねー。このあとどうする? ま、また食べ歩きする?」
咲楽は少し視線を斜め下にそらし、指先でコップの縁をいじりながらも、楽しげな提案を口にしてくれた。その声には、まだ微かに照れが混ざっている。
「……すぐに帰らないと、遅くなっちゃうから」
僕は彼女の目を見られないまま、静かに首を振った。
本当は、もっと彼女と遊びたいという気持ちは山々だった。だけど、僕には彼女を夜遅くまで連れ回す勇気なんてなかった。もし何か体調に異変があったら、もしこれが原因で彼女の寿命を縮めるようなことになったら……。彼女と別れた後、自分のせいで取り返しのつかない事態(犯罪や最悪の結末)に関わることにならないか、その現実的な恐怖が僕の行動にブレーキをかけていた。
「そうだよね。うん。すぐ帰るか!」
咲楽は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、ひどく寂しそうな顔をして視線を落とした。けれど、次の瞬間にはいつもの満開の笑顔を取り戻し、僕を安心させるように小さく頷いた。
帰宅途中。復路の新幹線から在来線の電車へと乗り換えた頃には、僕たちの間の気まずさは消え去り、驚くほど会話が弾んでいた。旅の終わりが近づいている寂しさを埋めるように、二人の言葉は途切れることなく交わされる。
「また遊ぼうね!」
シートに揺られながら、咲楽が不意にこちらを向き、まっすぐな瞳で問いかけてきた。その目には、未来の約束を繋ぎ止めたいという切実さが宿っている。
「……そうだね」
僕は軽く、簡単に答えた。他人から見ればそっけない返事かもしれないけれど、僕にとっては、自分の殻を破ってひねくれずに返した、精一杯の誠実な答えだった。
「楽しかったね! どう? 楽しかった?」
咲楽は、どうせいつものように「普通」とか「別に」とか否定されるんだろうな、というちょっぴり意地悪で不安そうな顔を浮かべながら、僕の顔を覗き込んできた。
「うん。楽しかったよ」
僕は、彼女の目をまっすぐに見つめ返して、素直に答えることができた。
なぜだろうか。今までの僕なら、恥ずかしさや防衛本能が邪魔をして、絶対に言えなかったはずの言葉だった。だけど、彼女と過ごしたこの二日間の色彩が、僕の頑なだった心を根底から変えてしまっていたのだ。
「すなおじゃないな~って……えええええええ!? 今なんて!? 楽しかったって言った!?」
咲楽は文字通り鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、目をおっきく見開いて驚いた。
それと同時に、ガタタンと鈍い音を立てて電車のブレーキがかかり、プシューと音を立ててドアが開いた。僕の降りる駅だった。
「……僕、こっちだから」
自分の口から出た本音の気恥ずかしさに耐えきれなくなり、僕はすぐに視線を外し、そそくさと電車から降りてプラットホームへと一歩を踏み出した。
背後で、電車のドアが閉まる間際、彼女の爆発したような声が響き渡った。
「えええええええ! あんなに正直に言う!? も~、かわいいしかっこよすぎ!!! どうしよう顔絶対赤い。え? もう、え? まだ一緒にいたい! また会いたい! どうしようどうしよう我慢できないけど、明後日まで会えないよーーーーーーー(´;ω;`)」
咲楽は顔全体を猛烈に赤く染めながら、信じられないほどの早口でまくしたてた。周りの乗客の視線が集まるのも気にせず、きょろきょろと周囲を見回したり、両手で顔を覆ったりしながら、必死に手を振っていた。
プシュー、と無情にも電車のドアが閉まり、彼女を乗せた車両が滑り出していく。
ホームに取り残された僕は、彼女の視線から隠れるようにして、すぐに駅の太い柱の物陰へと逃げ込んだ。
心臓がバカみたいに激しく脈打っている。僕はそのまま足を止め、誰もいない物陰で、顔を両手で強く覆い隠した。手のひらを通じて、自分の顔が信じられないほど熱く、真っ赤に変色しているのが分かった。彼女のあのストレートな叫びが、耳の奥で何度も何度もリフレインし、僕の胸を激しく揺さぶり続けていた。
残りの連休は、驚くほど静かに、だけど今までにないほど充実した時間として過ぎ去っていった。
僕は自室のベッドに寝転がり、彼女に貸してもらった文庫本を捲りながら、スマートフォンに届くメッセージの通知に何度も目をやった。
交わされるのは、旅の思い出話や、今日何を食べたかといった、本当にたわいもない世間話ばかりだった。けれど、画面の向こうに彼女がいるというそれだけの事実が、僕の部屋の退屈な空気を優しく塗り替えていく。
画面を開くと、彼女からの新しいメッセージが届いていた。
『本はね、主人公の気持ちを常に考えつつ、周りのキャラの気持ちも考えるの。つまり登場人物の気持ちを考えるの!』
画面に表示されたその文字を、僕は何度も静かになぞった。
それは、彼女が図書室で言っていた「本の読み方」の第一歩なのだろう。他人の気持ちなんて考えず、世界をただ冷めた目で眺めていた僕に対する、彼女なりの優しい指導のようでもあった。
春樹:『わかった。この本はそうしてみるよ』
送信ボタンを押し、再び文庫本へと視線を落とす。
ページをめくる指先に、大阪の駅で彼女が僕の腕を握りしめてきた時の、あの確かな温もりがまだ残っているような気がした。物語の登場人物たちの心を追いかけることは、今の僕にとって、隣にいる彼女の「生」の感情を必死に理解しようとすることと同義だった。僕は静まり返った部屋の中で、彼女の言葉を胸に、ゆっくりと次のページをめくっていった。




