三章
――『余命半年』終盤。
その悲しみに明け暮れていると、彼女の母親がわざわざ家に来て、彼女のスマホを見せてくれました。そこには、書き途中の一通のメッセージが保存されていた。そこには僕宛にこう書かれていた。
「愛してる」
と。この言葉を見た瞬間、何かの壁が壊れた感じがした。雨が降ったかのように、僕の膝の上がびしょびしょになった。
「僕も、愛してる」
~終~
パサリ、と静かな音を立てて、文庫本の最後のページがめくられ、そこには白紙の余白だけが残された。
物語はそこで完全に幕を閉じていた。
図書室を包む西日は、さっきよりもさらに赤みを増し、僕たちの座る机の上に長い、濃い影を落としている。文字を追い終えた僕の視線は、しばらくの間、物語の終わりの文字の残響をなぞるように、真っ白な紙の一点に釘付けになったまま動かなかった。
「……っ、う、うう……」
突然、隣から静寂を切り裂くような、押し殺した、だけど我慢しきれないといった風の鼻をすする音が聞こえてきた。
驚いて視線を本から外し、ゆっくりと隣の席へ向ける。
そこには、両手で顔を覆い、肩を小刻みに震わせて大泣きしている咲楽の姿があった。
彼女の指の隙間から、大粒の涙が次から次へと溢れ落ち、机の上に小さな水溜りを作っていく。さっきまであんなに大人びた表情で本を読んでいたのに、今はまるで迷子になった子供のように、感情を剥き出しにして泣きじゃくっていた。
僕はその姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
なんでだ?
彼女はこの本を僕にお勧めしてきたんだ。ということは、もうすでに結末を知っているはずだし、内容だって頭に入っているはずなのに。
確かに、物語の結末は酷く切なくて、胸に刺さるものがあった。だけど、僕の目から涙がこぼれ落ちることはなかった。僕はいつもそうだ。映画を見ても、小説を読んでも、どこか一歩引いたところで冷めた自分がそれを見つめている。本を心から楽しめないのは、自分の感情がいつも途中までしか入ってこないからだ、と自分自身で割り切っていた。
けれど。
なぜだろう。今回のこの物語の結末は、いつもと違っていた。
胸の奥から、今までに経験したことのないような熱い感情が、濁流のようにぐわっと込み上げてくる感覚があった。
涙は出ない。出ないけれど、目の裏側が痛いくらいに熱くなって、じわじわと視界が滲んでいくのが分かった。心臓が痛いほどに締め付けられる。こんな風に、他人の作った物語に自分の心が激しく揺さぶられるなんて、僕の人生において、本当に初めてのことだった。隣に、彼女がいるからなのだろうか。
「……君は、もうすでに読んでたんじゃないの?」
僕はあまりの驚きと、自分の胸のざわつきを誤魔化すために、ついそんな質問を口にしてしまっていた。静かな図書室に、僕の少し掠れた声が頼りなく響く。
僕の声に反応して、咲楽は顔を覆っていた両手をゆっくりと下ろした。
涙で濡れた長い睫毛が、夕暮れの光を浴びてキラキラと光っている。彼女の丸い目はすっかり真っ赤に充満していて、鼻の頭もピンク色に染まっていた。彼女は僕の問いかけに対して、泣きながら、だけどどこか憤慨したような表情で僕を真っ直ぐに見つめてきた。
「なにいってるの?? この本は何回読んでも感動するから……っ! 私これ、8回目だから!!」
彼女の声は、涙のせいで酷く震えていた。けれど、自分の大好きな作品を否定されたと思ったのか、あるいは僕の冷めた態度が気に入らなかったのか、少しだけ口調が強くなったのを僕は肌で感じた。
泣きながら怒る彼女の姿は、不謹慎かもしれないけれど、驚くほどに瑞々しくて、やっぱり僕には眩しすぎた。
「そんなに読んでるのに……」
僕は彼女の熱量に気圧されながら、またしても心の声がそのまま口から漏れてしまっていた。
普通、どんなに感動する話だって、結末を知っていれば二回目以降は少しずつ新鮮味が薄れていくものだ。それを八回も読んで、なおかつこれほど初見のように大泣きできるなんて、僕の常識からは完全に逸脱していた。彼女の心の琴線は、一体どれほど豊かに、そして繊細に作られているのだろう。
咲楽はカバンの中から小さな白いハンカチを取り出すと、それで目元を優しく押さえるようにして涙を拭った。ふぅ、と小さく息を吐き出し、赤くなった目を少し細めて、今度は僕の顔をじっと覗き込んできた。その視線には、純粋な疑問が混ざっている。
「逆に……君はどうして泣かないの?」
ハンカチを握り締めた手を膝の上に置き、彼女が逆に質問を投げかけてきた。
彼女のまっすぐな視線が僕の瞳を射抜く。今度は僕が答えを窮する番だった。僕は彼女の綺麗な目から逃げるように、再び机の上の文庫本へと視線を落とした。自分の不器用な内面をさらけ出すのは、いつだって勇気がいる。
「感動は、したんだ」
僕は少し暗い顔をして、ぽつりぽつりと、正直に泣かない理由を話し始めた。
「だけど……僕は、感情があふれ出るほどに、物語に心を動かされたことがないんだ。いつも、どこか他人事みたいに見ちゃうというか。冷めてるんだよ、きっと」
自分の言葉が、図書室の冷たい机に吸い込まれていくような気がした。僕は感情の起伏が乏しい、つまらない人間だ。彼女のように、世界の全てを色鮮やかに受け止めることなんてできない。その冷酷な事実を、自分で自分に突きつけているようで、胸の奥が少しだけ、寂しさで支配されていくのを感じた。
僕の告白を聞いた咲楽は、涙を拭う手をぴたりと止めた。
数秒の間、僕たちの間に、言葉のない沈黙が流れる。彼女は僕の横顔を、何かとても大切なものを観察するかのように、じっと見つめていた。その瞳の奥には、憐れみではなく、もっと深い、温かい光が灯っているように見えた。
やがて、彼女の真っ赤だった顔に、喜びを隠しきれないといった風の、いつもの眩しい微笑みがゆっくりと戻ってきた。
「それ、人生めっちゃ損してるじゃん!」
彼女は椅子を少しだけ僕のほうへと引き寄せ、テーブルの上に両肘をついて前のめりになった。彼女の身体から発せられる熱気と、あの柑橘系の甘い香りが、一気に僕の距離感を狂わせる。
「私が、本の読み方教えてあげる!! 絶対に、泣かせるから!」
彼女の言葉は、まるで僕の世界に新しい色を塗ってくれるかのように、力強くて、そして希望に満ち溢れていた。
本当は、教えてほしかった。彼女が見ている世界が、どれほど美しくて、どれほど感情に満ちているのかを、僕も一緒に共有してみたかった。彼女の温かさに、もっと触れていたかった。
だけど、長年培ってきた僕の防衛本能と、不器用なひねくれ癖が、またしても素直になることを邪魔した。
「いいって」
僕はふいと顔を横に背け、自分のノートの端を指先でいじりながら、条件反射のように彼女の提案を拒絶してしまった。声を少し低くして、興味のなさそうなフリをする。これ以上関われば、また今朝のようにクラスで問題になるかもしれない、という臆病な言い訳が頭をよぎったのも事実だった。
しかし、咲楽はそんな僕の安い拒絶なんて、最初から予想していたかのように微笑みを崩さなかった。彼女は背筋をぴっと伸ばし、僕の顔の前に自分の顔を近づけると、一文字ずつ区切るようにして、小声で、だけど絶対に引かないという力強さを込めて言った。
「い・い・か・ら!」
その短い言葉の裏にある、彼女の確固たる意志に、僕は完全に圧倒された。
彼女の大きな瞳が、私の言葉を拒否することは許さない、とでも言うように僕をロックオンしている。その瞳の奥には、ずる賢そうな悪戯っぽさと、だけど同時に、僕を自分の世界に引き留めておきたいという必死な熱が混ざり合っていた。
「あーもう……わかったよ」
僕は観念して、大きく肩を落としながらため息をついた。
この人に逆らうことなんて、最初から無理な話だったのだ。僕が諦めたように言うと、咲楽は「よし!」と満足げに小さく頷き、ようやく僕から少し距離を戻した。僕の心臓は、彼女が近づいたせいで、さっきからずっとバカみたいな速さで鳴り響いたままだった。
ふと、図書室の壁に掛けられた古びた丸時計に視線が向かった。
長針と短針が交わり、時刻はすでに五時を過ぎている。
夕暮れの赤い光は、いつの間にか図書室の奥深くまで侵入し、世界を完全に黄金色に染め上げていた。放課後の終わりを告げる静寂が、より一層深まっていくのを感じる。学校の喧騒はすっかり消え去り、静まり返った校舎の中に、僕たち二人だけが取り残されているような、不思議な錯覚に囚われる。
「あ、今日はもう遅いからまた明日! じゃあね!」
咲楽も時計の針に気づいたのだろう。彼女はハッとしたように席を立ち、手際よくカバンの中に筆記用具と自分の文庫本を片付け始めた。彼女の動作はいつも嵐のように急で、だけどどこか愛らしい。
カバンのチャックを閉めると、彼女は椅子を入れて、僕に向かって小さく手を振った。その顔には、涙の跡がまだ微かに残っていたけれど、それ以上に明日に向けた希望のようなきらめきが宿っていた。
「またね」
僕は彼女の背中を見送りながら、しっかりと声を張り上げて、お別れの挨拶を口にすることができた。
いつもなら、相手の後ろ姿に消え入りそうな声で生返事をするだけだったのに。今日の僕は、彼女の「また明日」という言葉を、自分の中でしっかりと受け止め、拒むことなく次の約束として肯定していた。僕の声が図書室の空間に心地よく響き、彼女の足音が優しく応えるようにトコトコと遠ざかっていく。
ガラガラ、と図書室の重い扉が閉まる音が聞こえ、再び静寂が僕の周りを包み込んだ。
一人残された席で、僕は自分の手のひらを見つめた。
今朝までのあの黒い諦めや、クラスメイトから向けられた悪意の冷たさは、不思議ともう僕の胸を締め付けてはいなかった。
隣に残された彼女の微かな香りと、僕の胸の中で今なお静かに脈打つ温かい鼓動が、僕の退屈だった世界を少しずつ、だけど確実に変えようとしている。僕はゆっくりと荷物をまとめ始めながら、人生で初めて、「明日」という未知の時間が訪れるのを、心のどこかで心待ちにしている自分に気づいていた。
「ただいま」
夕闇が本格的に降りてきた玄関。ドアを閉め、ローファーを脱ぎながら僕は声をかけた。
「おかえり。今日はおそいな~」
リビングの奥から、お父さんがのんびりとした足取りで玄関まで迎えにきた。いつもなら、僕はただ黙って自室に直行するか、一言「うん」とだけ返すのが常だった。けれど、今日の僕は自分でも自覚できるほど、何かが違っていた。
「試験勉強ー」
普段、学校で咲楽と話すときよりもさらにラフな感じで、口元を少し緩めて微笑みながら答えた。
お父さんは一瞬、玄関の灯りの下で動きを止めた。僕の顔をまじまじと見つめ、その不自然なほどの「柔らかい変化」に少し戸惑っているようだった。いつも暗い顔をしていた息子が、どこか嬉しそうにしているのだから当然かもしれない。けれど、お父さんはすぐに破顔した。
「そうか! 頑張れよ!」
「んー」
僕はそれ以上見つめられるのが恥ずかしくなり、軽く手を振りながら、すぐに二階にある自分の部屋へと向かった。階段を駆け上がる僕の胸の奥には、まだ図書室で嗅いだあの甘い香りの残響が、静かに居座り続けていた。
自室のベッドに寝転がり、制服のネクタイを緩めた瞬間、スマートフォンが短く震えた。画面を見ると、やはり咲楽からのメッセージだった。
『ねー! せっかく連休だし試験終わったら旅行しよ! どこ行きたい?』
旅行、という文字を見つめたまま、僕はしばらくフリーズした。
余命一年の彼女と、僕。残された限られた時間の中で、僕が行きたい場所なんてどうでもよかった。彼女が最後に見ておきたい景色を、一緒の目線で眺めたい。
『君が行きたいところ。行きたい場所は君が行きたいところ』
返信を打つ指が少しだけ躊躇い、間が空いてしまったけれど、僕はしっかりと文字を紡いで送信した。
数秒後、ポップなスタンプと共にメッセージが返ってくる。
『わかった! 容赦しないからね!』
その強気な文字の向こう側で、彼女がどんな風に頬を染め、満足げに微笑んでいるのか。今の僕には、手に取るように想像ができてしまった。
それから、数週間が経った。
季節は少しずつ夏へと向かっていたけれど、学校での僕の立場は、あの日から何も変わっていなかった。いや、むしろ噂は悪意を伴ってクラス内に定着してしまっていた。
ガラガラ、と教室のドアを無言で開け、俯きがちに教室に入る。その瞬間、教室の空気が一変するのが分かった。
「あ、きたきたww」
「うわ、ストーカーだww」
ヒソヒソとした、だけど確実に僕の耳に届くように放たれる嘲笑が、教室内を駆け巡る。僕は周囲の視線を完全にシャットアウトするように、自分の席へとまっすぐ歩いた。
「咲楽。もうあんな奴とかかわるのやめなよ。危ないよ」
僕の席のすぐ近くで、桃子がやはり今日も、咲楽を僕から遠ざけようと鋭い声を上げていた。クラスメイトたちの視線が、憐れみと好奇の混ざった目で僕たちの間を往復する。
僕は机に視線を落とし、じっと嵐が過ぎ去るのを待とうとした。どうせ言い返したところで、誰も信じない。
けれど、次に教室に響いたのは、僕の諦めを激しく揺るがす彼女の声だった。
「危なくないよ」
咲楽は少し眉を細め、桃子の視線を真っ向から見つめ返して言った。その声には、周囲に怯む様子なんて微塵もなかった。
「それに、あんな奴じゃないし。いい人だよ! 話したらわかるよ。面白いし!」
彼女はそう言いながら、僕のほうをチラリと見て、包み込むような優しい笑顔を浮かべた。
周囲の嘲笑が、一瞬でピタリと止まった。誰もが僕を拒絶し、日陰者として蔑むこの教室の中で、こんなにも僕の存在を真っ直ぐに肯定してくれたのは、彼女が初めてだった。
世界中で誰も僕を見てくれなくても、彼女だけが僕の味方をしてくれた。その事実だけで、胸の奥をどす黒く染めていた諦めの感情が、静かに、だけど綺麗に消えていくのを、僕は確かに感じていた。
カリカリと教室中に響いていた鉛筆の音が止まり、試験終了を告げるチャイムが鳴り響いた。解答用紙が回収された瞬間、張り詰めていた教室の空気は、一気に爆発したような熱気へと変わる。
「今日でやっと終わり~!」
咲楽の近くにいる女子生徒が、机に突っ伏した状態から思い切り両腕を天高く伸ばしながら叫んだ。
「そうね! 今日このあと、一緒にご飯食べようよ!」
桃子がすかさず元気のいい声を上げ、咲楽の肩をぽんと叩く。
「いいねいいね! 行く行く!」
弾むような笑い声、これからの予定を話し合う賑やかな声。そんなクラスの中心にある眩しいコミュニティの会話が、教室の隅にいる僕の耳にも自然と流れ込んできた。
僕は手元にある筆記用具を一つずつ筆箱に収めながら、無意識のうちに視線を斜め前方へと走らせていた。彼女の茶色い髪が、友達と話すたびに楽しげに揺れている。彼女が笑うだけで、そこだけ世界が明るくなるようだった。
「なぁ。お前、付き合ってなくても好きだろ? 咲楽のこと」
不意に、すぐ目の前から声をかけられた。
ビクッと肩が跳ねる。顔を上げると、前の席の男子生徒が椅子をガタッと後ろ向きに回転させ、僕の机に肘をついてニヤニヤと笑っていた。
「……なんで?」
僕はすぐに「違う」と否定することができず、喉の奥から絞り出すようにして低く聞き返した。自分の動揺を悟られないよう、眉間に少しだけ皺を寄せる。
「だって、ずっとあっち向いてるじゃん」
彼にそう指摘されるまで、僕は自分がどれほど長い間、咲楽の後ろ姿を目で追いかけていたのかに気づいていなかった。
心臓がドクリと嫌な音を立てる。まるで胸の奥に隠していた秘密を、無理やりこじ開けられたような気まずさが込み上げてきた。
「気のせいだよ」
僕はすぐに彼女から目をそらし、机の上で強く握りしめていたスマートフォンへと視線を落とした。画面の暗転した黒いガラスを見つめ、指先でそのエッジを何度もなぞる。これ以上、この話題に触れられたくなかった。
そんな僕のわかりやすい拒絶を気にする風でもなく、前の席の男子はふっと表情を緩めた。そして、僕の顔を覗き込むようにして、突然トーンを変えて聞いてきた。
「てかさ、俺の名前知ってる?」
「……知らない」
僕はスマートフォンに目を向けたまま、感情を交えずに短く答えた。
実際、本当に知らなかった。同じクラスになってそれなりの月日が流れているけれど、僕は前の席の彼と一度もまともな会話をしたことがなかったのだ。それほどまでに、僕は周囲の人間に関心を持たず、関わりを避けて生きてきた。
「だよな。――俺、熊谷元気。よろしく」
彼はポケットから取り出した丸い飴を器用に口に放り込むと、ニカッと歯を見せて笑った。それから、右手の人差し指と中指を揃えて自分の眉のあたりに近づけ、手首をくいっと動かすような、いかにも陽気な挨拶をして見せた。
「……よろしく」
僕は自分の名前を名乗らなかった。クラスでストーカー呼ばわりされている僕の名前なんて、きっと彼も嫌というほど耳にしているだろうと思ったからだ。名乗る必要すらない、という自虐的な諦めもあった。
熊谷は「じゃあな」とでも言うように再び小さく手を振ると、口の中で飴を転がしながら、また自分の机のほうへと向き直った。
後に残されたのは、僕と、少しだけ軽くなった周りの空気。
いったい、これは何なのだろう。彼にとって、僕はただの暇つぶしの相手なのか。それとも、これが世間で言う「友達」という関係の始まりなのだろうか。
桃子たちからの悪意に晒され続ける中で、咲楽以外の人間がこんな風に、壁を作らずに話しかけてくれたことが不思議で仕方がなかった。なぜか少しだけ、クラスという場所が昨日よりも狭く、そしてほんの少しだけ温かく感じられるような気がして、僕はもう一度、静かにスマートフォンを開いた。




