二章
翌朝。学校の重い鉄製のドアを開けた瞬間、いつもとは明らかに違う、張り詰めた冷ややかな空気が僕の肌をチクチクと刺した。
「ねぇ。あいつじゃない?」
「うわ、きたきたwww」
「こそこそこそ……」
教室のあちこちから、あからさまな囁き声が波のように押し寄せてくる。
僕が教室内へ一歩踏み出すたびに、視線が容赦なく僕の全身を品定めするように移動していくのが分かった。視線の主たちと目が合いそうになると、彼らは一斉に顔を背け、また隣の席の誰かと顔を突き合わせてクスクスと笑う。
僕のような、いつも教室の隅で息を潜めている人間が、クラスの絶対的なアイドルである咲楽と二人きりで病院から出て、仲良さそうに歩いていたところを、誰かに見られていたらしい。その噂は、一晩のうちにクラスのネットワークを駆け巡り、歪んだ形で定着してしまったようだった。
僕は自分の席に向かって、ただ黙々と歩いた。下を向くのは負けを認めるようで嫌だったから、誰もいない黒板の一点を見つめながら、一歩一歩進む。
ガタァン!!
「ねー。あなたどういうつもり? なんで咲楽に、あの子に近づくの?」
僕が席に着くよりも早く、激しい音を立てて僕の机に両手を叩きつけたのは、咲楽の親友である山田桃子だった。
彼女の目は、明確な敵意と不快感を露わにして僕を真っ向から睨みつけている。周囲の雑音がピタリと止まり、クラス全員の視線が僕たちの席へと集中した。
「……」
僕は言葉を失い、ただ桃子の握り締められた拳を見つめた。
怒りで小刻みに震える彼女の手。その向こうにある彼女の顔を見る勇気は、僕にはなかった。人と関わることを避けて生きてきた僕にとって、これほどストレートな悪意を向けられるのは初めての経験だった。心臓が嫌なリズムでドクドクと脈打ち、指先が急速に冷たくなっていく。
「ねぇってば。何とか言ってよ!」
桃子がさらに声を荒らげ、僕の顔を覗き込もうと体を沈めてくる。
その緊迫したタイミングで、前方の引き戸がガラガラと音を立てて開き、咲楽がいつも通りの元気な声を響かせて入ってきた。
「みんな! おはよう!!」
「あ、おはよう、咲楽!」
近くにいた女子たちが、弾かれたように一斉に応じる。
その瞬間、咲楽は僕の机を取り囲む、異様で不穏な空気にすぐさま気づいたようだった。彼女の足がピタリと止まり、手にしたカバンを握る力が強くなる。明るかった彼女の表情が、見る見るうちに強張っていった。
「あー! 桃子! 何してるの??」
咲楽は小走りで僕たちの元へと駆け寄ると、桃子の腕を引っ張るようにして僕から引き離そうとした。その瞳には、僕に対する申し訳なささと、事態を穏便に収めようとする焦りが混ざり合っている。
「咲楽! なんでこんな人と遊んでるのよ? もしかして彼氏? こんな人じゃなくてもっとさ……」
「おはよう」
その爽やかな声と共に教室に入ってきたのは、木村純一だった。
整った容姿、誰にでも優しい性格、そしてスポーツ万能。クラスの誰もが認める、文句なしの主役級の男だ。彼が教室に入った瞬間、どんよりとしていた空気が一気に華やぎ、彼の周りにはすぐに陽気な生徒たちが集まっていく。
桃子は純一の姿を確認すると、これ見よがしに彼の方をビシッと指差しながら、咲楽に向かって強く言い放った。
「純一みたいな感じの男にしなよ」
その言葉は、僕という人間の価値が彼よりも遥かに劣っていると、クラス全員の前で断言されたに等しかった。僕は自分の爪を手のひらに深く食い込ませ、じっと耐えるしかなかった。純一自身は何が起きているか分からず、困惑したようにこちらを遠巻きに見つめている。
「別に、彼氏じゃないよ」
咲楽は少し焦ったように、声を小さく裏返らせた。
彼女の視線が、一瞬だけ泳ぐようにして僕のほうへと向けられる。その瞳は「ごめんね」と言っているようでもあり、何かを弁明したいようでもあった。
「じゃあ何よ?」
桃子の追及は止まらない。親友としての心配という免罪符を盾に、さらに一歩踏み込んで、少し強く問いかけた。
「友達……かな」
咲楽は頬をほんのりと赤らめ、自分の靴先を見つめて俯きながら、消え入りそうな声でそう呟いた。
友達。
昨日、彼女の口からその言葉を聞いたときは、あんなに胸の奥が温かくなったのに。
周囲の冷ややかな視線の中で聞くその言葉は、なぜか僕の胸の奥を、針で刺したようにチクリと痛ませた。彼女にとって、僕との関係を周囲に説明するのは、これほどまでに恥ずかしく、躊躇われることなのだ。その現実が、冷酷に僕の突き刺さる。
「ほらみんなー。HR始めるから席ついて!」
キィキィと音を立てて教卓に上がった僕たちの担任の声が、静まり返った教室に響いた。その言葉で、かろうじてその場の張り詰めた空気は霧散した。
「チッ」
桃子は僕の顔のすぐ近くで、隠そうともせずに鋭く睨みつけ、小さく舌打ちをした。そして、乱暴に足を踏み鳴らしながら自分の席へと戻っていった。
ホームルームの間中、僕は教科書の内容なんて一文字も頭に入らなかった。
ただ、時計の針が刻む規則的な音だけが耳に残り、背中を突き刺すような周囲の視線に、ずっと身体を硬直させていた。斜め前方に座る咲楽の背中が、いつもより小さく見えた。彼女は一度も後ろを振り返ることはなかった。
「はーい。じゃあこれでHR終わりね。みんな、いい一日を」
担任が書類をまとめて教室を出た、まさにその瞬間だった。
椅子の引かれる激しい音が響き、桃子が再び僕の席へとまっすぐに襲いかかってきた。彼女の怒りは、ホームルームの時間を得ても全く収まるどころか、さらに鋭さを増しているようだった。
ドンッ!
「ねぇ。あんた、なんでそんなに咲楽に近づくの?」
桃子が強く、そして机を激しく叩くような勢いで聞いてきた。
彼女の顔は怒りで紅潮しており、大きな目がさらに吊り上がっている。ホームルーム終了後、一秒の猶予も与えられずに詰め寄られた僕は、完全に思考がショートしてしまった。なんて答えるべきか、どんな言葉を使えばこの場を切り抜けられるのか、全く分からなかった。
「……」
「また黙るつもり? いい加減にしてよ! もうあの子にちょっかい出さないで!」
桃子の声が教室中に響き渡る。
彼女の言葉は、まるで僕が咲楽に無理やり付きまとっている悪者のような言い方だった。僕はただ、昨日彼女に引っ張られて、彼女の行きたい場所へ行っただけなのに。けれど、それをここで弁明したところで、一体誰が信じてくれるのだろう。僕のような日陰者の言葉に、耳を傾ける人間なんてこの教室には一人もいない。
「……」
僕はずっと、壊れた人形のように黙り込んでしまった。
普段から人と滅多に話すことがないから、こうして正面から怒りをぶつけられたときの、正しい反応の仕方が分からないのだ。言い返す言葉も、謝る理由も、すべてが頭の中でごちゃまぜになって、ただ喉の奥でつっかえてしまう。
「チッ、胸糞悪い」
桃子は僕のその態度を「反省のない無視」と受け取ったのだろう。再び不快そうに舌打ちをすると、自分の席にあるカバンと荷物を乱暴にひったくるようにまとめ、教室のドアを激しく開けて出て行った。
残されたのは、僕と、僕を遠巻きに見つめるクラスメイトたちの冷ややかな目線だけだった。
教室の中にいることが息苦しくなり、僕は逃げるようにして席を立ち、廊下へと出た。
冷たいコンクリートの感触が、制服のローファー越しに伝わってくる。少しでもこの喧騒から離れたいと思い、目的もなく歩みを進めた。
すると、タッタッタと後ろから足音が近づき、僕の前の席に座っている男子生徒が、僕の隣へと滑り込んできた。彼は少し気まずそうな、それでいて好奇心を隠しきれない目で僕の顔を覗き込んできた。
「なぁ。お前と咲楽って、付き合ってるの?」
心臓がまた、嫌な跳ね方をした。
僕が答える前に、彼は自分の頭を掻きながら、慌てたように言葉を付け足した。
「……あ! もしかして、俺が咲楽のこと好きだと思って警戒してる? 違うから! マジで違うから安心してくれ!」
彼は僕との間に妙な壁を作らないよう、冗談めかして笑ってみせた。けれど、その目の奥には「お前みたいなやつが、まさかな」という本音が透けて見えているような気がした。
「いや、付き合ってない」
僕は前を向いたまま、歩調を緩めずに短く答えた。
声が少し掠れてしまった。
なぜだろう。昨日のカフェでのあの甘い時間や、彼女が見せてくれた眩しい笑顔を思い出すと、彼女をただの「友達」と呼ぶことすら、今の僕には酷く躊躇われた。それは彼女に対しておこがましい気がしたし、何より、彼女自身の口から出た「友達かな」というあの曖昧な言葉が、僕の胸を静かにえぐっていた。
クラス中でこれほど大騒ぎされ、明確な悪意を向けられて。
やっぱり、僕と彼女は関わるべき人間じゃなかったんだ。
住む世界が違いすぎる。彼女は太陽の下で大勢の人に囲まれて生きるべき人で、僕は薄暗い隅っこで一人で本を読んでいるのがお似合いの人間なのだ。
昨日、彼女の手の熱さに浮かされて、何かが変わるかもしれないなんて一瞬でも期待してしまった自分が、急に惨めで、滑稽に思えてきた。
「そっか、だよな! 悪りぃ、変なこと聞いて!」
男子生徒は僕の拒絶を察したのか、苦笑いを浮かべながらそれ以上追及してくることはなく、別の教室へと去っていった。
一人になった廊下で、僕は窓の外に広がる、昨日と同じ青空を見上げた。
けれど、昨日彼女と一緒に見上げたあの鮮やかな青とは違い、今日の空はどこか遠く、灰色にくすんで見えた。
じわじわと胸の奥から広がってくる、諦めと自己嫌悪の感情。そのどす黒い塊が、僕の心を容赦なく染め上げていくのを、僕はただ静かに受け入れるしかなかった。
放課後。
教室を満たしていたあの張り詰めた冷気から逃れるようにして、僕は図書室へと足を運んだ。
放課後の図書室は、利用する生徒もまばらで、ひんやりとした静寂が保たれている。大きく開けられた窓からは、西日が長く床に差し込み、古い紙の匂いと微かな埃が光の粒となって踊っていた。
ここなら、誰の視線も気にしなくていい。
僕は壁際の目立たない席を選び、カバンからノートと問題集を取り出した。鉛筆削りの音さえ響きそうな空間で、頭を冷やすように大きく息を吐き出す。
けれど、ノートを開いても、午前中に山田桃子からぶつけられた鋭い言葉や、クラスメイトたちの好奇の視線が、脳裏に焼き付いた残像のように明滅して消えてくれなかった。
(やっぱり、僕なんかがあの人と関わるべきじゃなかったんだ……)
そんな自己嫌悪に近い思考に沈み込み、シャーペンを握り直して自習を始めようとした、その時だった。
トントン、と。
背後から、遠慮のない、だけどどこかリズミカルな手応えで肩を叩かれた。
心臓が小さく跳ねる。驚きとともにゆっくりと振り返ると、そこには、昨日と何一つ変わらない、大輪の桜が咲いたかのような眩しい笑顔があった。
「ねー。何してるの?」
咲楽が僕の椅子の背もたれに手をかけ、ぐいと顔を覗き込んできた。
長い睫毛の奥にある瞳はきらきらと輝いていて、今朝教室であれだけの騒動があったことなんて、まるで最初からなかったかのような、あまりにも自然な態度だった。彼女の動くたびに、昨日カフェで僕の鼻腔を満たした、あの甘いシャンプーの香りがふわりと図書室の古い空気の中に混ざり合っていく。
「……これから、テスト勉強」
僕は視線を彼女の瞳から、手元のノートの真っ白な余白へと落とした。言葉が酷く短く、ぶっきらぼうになってしまう。
どうして彼女は、あんなことがあったのに僕に普通に話しかけられるのだろう。僕たちの間で交わされる言葉のキャッチボールが、どうしても上手く機能しない。これ以上、彼女のような目立つ存在と関われば、僕が傷つくだけでなく、彼女の学校での立場だって悪くしてしまう。お互いに傷つくだけだという結論が、僕の中で冷酷に弾き出されていた。
「いいね! 私もする!」
咲楽は僕の拒絶を察していないのか、それとも敢えて無視しているのか、嬉しそうに声を弾ませた。そして、僕の後ろをトコトコと軽い足取りでついて歩き、僕の隣の席の椅子を引こうとした。
「なんでだよ」
カタン、と僕の手からシャーペンが落ちそうになり、思わず少し強い声が口から飛び出した。
静かな図書室の中に、僕のトゲのある声が少しだけ大きく響く。
(僕と一緒にいると、君にまで迷惑がかかるんだ。もう僕のことは放っておいてくれ)
脳裏にはその言葉がはっきりと浮かんでいた。彼女にその事実を突きつけて、今すぐ突き放すべきだった。だけど、まっすぐに僕を見つめる彼女の澄んだ瞳を見ていると、どうしてもその言葉を口にすることができなかった。心のどこかで、彼女に完全に拒絶され、見捨てられてしまうのを恐れている自分自身の弱さが、酷く惨めで、嫌だった。
僕の少し拒絶を含んだ視線を受け止めながらも、咲楽は全く怯む様子を見せなかった。それどころか、ニヤニヤとした悪戯っぽい笑みを浮かべ、人差し指を一本立てて、いつものお決まりの免罪符を掲げてみせた。
「いいじゃん、私、余命あと1年なんだし」
その言葉が彼女の口から滑り落ちた瞬間、僕は言葉を失った。
「余命一年」という、人間の命の終わりを示すこれ以上なく重い言葉を、彼女はどうしてそんなに軽々と、まるでお菓子のオマケについて話すかのように使えるのだろう。
本当に、死ぬのが怖くないのだろうか。それとも、そうやって笑っていなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうなほどの恐怖を裏側に隠しているのだろうか。彼女の笑顔の奥にある本当の感情を読み取ろうと、僕はじっと彼女の目を覗き込んだ。けれど、彼女の瞳はただただ澄んでいて、僕を真っ直ぐに映し出すだけだった。
「……わかったよ」
沈黙の末に、僕は小さくため息を漏らした。
結局、僕は彼女のその真っ直ぐな瞳の奥にある引力に勝つことができず、彼女が僕の隣の椅子に腰掛けることを許してしまった。
「やったー!!」
咲楽は周囲に配慮して、声のボリュームを抑えながらも、小さく両手でガッツポーズを作った。そして、嬉しさを噛み締めるように図書室の高い天井を見上げ、それから楽しげにペンケースをカバンから取り出した。
それから勉強を始めて、数十分が経過した頃だった。
僕が問題集の計算式を黙々と解いている横で、案の定というか、予想通りというか、咲楽の集中力が限界を迎えたようだった。カサカサとノートをめくる音が止まり、コロンとペンが机の上を転がる音が聞こえた。
「ねーねー。本読まない?」
咲楽は椅子の背もたれに完全に体重を預け、だらんと両腕を下げた状態で、天井を仰ぎ見ながら退屈そうに言った。
「勉強は?」
僕は持っていたシャーペンを動かす手を止めず、ノートに細かな文字を書き続けながら、前方を見たまま冷淡に返した。ここで彼女に構ってしまえば、また彼女のペースに引きずり込まれるのが分かっていたからだ。
「もー、疲れた~」
彼女はまだ背もたれに背中を預けたまま、今度は首だけを僕のほうへと向けて、不満げに唇を尖らせた。その姿は、おもちゃをねだる子供のようでもあり、僕の注意を引きたいだけのようにも見えた。
「はぁ……。どれ読みたいの?」
僕はノートを書き終えたところで、ついに大きなため息を一つつき、シャーペンを机に置いた。そして、諦めて彼女のほうへと身体を向けた。彼女の我が儘に付き合うのはめんどくさいはずなのに、不思議と嫌な気分ではなかった。
「えーとね、この本! 私の一押しの作品なの!『余命半年』」
僕が構ってくれたのが嬉しかったのか、咲楽はすぐに席を立つと、背後の文庫本コーナーへと迷いのない足取りで向かった。そして、お目当ての本をすぐに見つけ出すと、こちらに振り返り、その本のカラフルな表紙の帯を僕の目の前に突き出してきた。彼女の顔には、誇らしげな、そしてどこか楽しげな微笑みが浮かんでいる。
本のタイトルを文字通り受け取った僕は、つい、口を挟まずにはいられなかった。
「君はその倍の1年じゃないか」
僕が真顔でそう突っ込みを入れると、咲楽は一瞬だけ丸い目をさらに丸くした。
「ははははははっ! まぁねww 君やっぱおもしろいやww」
数秒の後、彼女は堪えきれないといった風に、お腹を抱えて大声で笑い出した。
その澄んだ笑い声が、静まり返っていた図書室の空間に爆音のように鳴り響く。
その瞬間、離れた席で静かに読書をしていた数人の生徒や、カウンターの司書教諭の視線が、一斉に鋭い矢のように僕たちの席へと突き刺さった。
「シー!!!! ここ、図書室!」
僕は慌てて人差し指を自分の唇に当て、焦った顔で彼女を制した。顔がカッと熱くなるのを感じる。ただでさえ目立っているのに、これ以上注目を集めたくなかった。
「あっ……ごめん」
咲楽はとっさに両手で自分の口を覆い、周囲の視線に気づいて小さく身を縮こまらせた。我に返った彼女の耳の縁が、少しだけ赤くなっている。
彼女は周囲への申し訳なさそうなポーズを取りつつも、首を少し左に傾け、手にした文庫本を僕の顔の前に差し出したまま、声をひそめて聞いてきた。
「で、読む? ……『一緒に』」
「一緒に」というその言葉の響きが、僕の脳内で何度もリフレインした。
一冊の本を、この狭い机で二人で並んで覗き込む。その光景を想像しただけで、今朝の教室での山田桃子の怒声が頭をよぎった。
「やだ。勘違いされるじゃないか。君みたいなクラスの中心にいる人と一緒にいると、僕にも君にも被害があるじゃないか」
僕は彼女の差し出した本から視線を外し、少し強い口調で断った。
『一緒に』という言葉に、僕の防衛本能が過剰に反応してしまったのだ。クラスでのあの冷ややかな空気を思い知らされたからこそ、僕は昨日よりも確実に、彼女との間に明確な距離を置こうと遠慮している自分がいた。それがお互いのためだと、自分に言い聞かせるように。
しかし、咲楽は僕のその言葉を聞いても、寂しそうな顔をするどころか、ふっと大人のような不敵な笑みを浮かべた。
「別にいいじゃん。その勘違いだって、あなたが普段からクラスメイトと全然会話しないからでしょ?」
「……っ」
彼女にあまりにもストレートな正論を突きつけられ、僕は言葉に詰まった。
僕が普段から周囲に壁を作り、誰ともコミュニケーションを取ろうとしないから、勝手な噂や勘違いが一人歩きする。それは完全に僕の落ち度であり、彼女の言う通りだった。反撃の余地すら与えられないほどの綺麗な正論に、僕はぐうの音も出なかった。
「そうだけど……」
僕は視線を斜め下の床へと落とし、小さな声で素直に認めるしかなかった。今の僕には、彼女の言葉を否定するだけの言葉も、論理も、全く持ち合わせていなかった。
「それに……私のやりたいことリスト、手伝ってくれるって約束したんじゃないの?」
咲楽はさらに追い打ちをかけるように、昨日の夜にスマートフォン越しに交わしたあの「約束」を突きつけてきた。
彼女はテーブルに少し身を乗り出し、長い睫毛の隙間から、僕の顔を上目遣いできっと見つめてきた。その瞳は、ずる賢い小悪魔のようでもあり、だけど同時に、ここで僕に拒絶されたら本当にどこかへ消えてしまいそうな、必死な切実さに満ちていた。そんな風に見つめられて、断れる人間なんてこの世にいるはずがなかった。
「あーもう……わかったよ」
僕は頭をガシガシと掻きむしりながら、観念したように声を漏らした。
昨日、僕自身が彼女の誘いを受け入れ、あの約束をしてしまったのだ。過去の自分がした選択の結果が今なのだから、こうなった以上、僕はこれ以上の拒否を諦めることにした。僕のその言葉を聞いた瞬間、彼女の顔にパッと電灯が灯ったような明るい笑顔が戻った。
僕は小さくため息をつきながら、自分のノートや問題集を机の端へと追いやった。
咲楽は嬉しそうに僕のすぐ隣の席へと椅子を引いて近づき、コソコソとした動作で一冊の文庫本を僕たちの真ん中へと置いた。
彼女との距離が、昨日よりもずっと近い。
肩と肩が、制服の薄い生地越しに触れ合いそうなほどの至近距離だった。彼女が本を開くために腕を動かすたび、その瑞々しいシャンプーの香りが、僕の感覚を麻痺させるように強く漂ってくる。
咲楽の細い指先が、文庫本の表紙をめくり、最初の一ページ目を開いた。
二人で一冊の小さな本を覗き込むようにして、僕たちは静かに活字の世界へと視線を落とした。
図書室の中は、相変わらず水を打ったような静寂に包まれている。時折、窓の外から運動部の掛け声や、遠くを走る電車の音が微かに聞こえるだけだ。
パサリ、と咲楽が静かにページをめくる。
その静けさの中で、僕は自分の胸の奥が、おかしなほどに速いテンポで脈打っていることに気づいた。ドク、ドク、と、衣服を突き破って彼女に聞こえてしまうのではないかと思うほど、心臓の音がうるさい。
ふと視線を横に走らせると、本の文字を真剣に追う咲楽の横顔がすぐそこにあった。
彼女の小さな耳の縁が、西日に照らされてほんのりとピンク色に透けている。そして、彼女の胸元が、僕と同じように少しだけ速い周期で、小さく上下しているのが見えた。
図書室の張り詰めた静寂の中に、僕たちの少し速い心臓の音が、まるで共鳴するように重なって聞こえるような気がした。
ページをめくるたび、僕たちの距離は少しずつ、だけど確実に、目に見えない何かで繋がれていく。僕はもう、外の世界の雑音なんてどうでもよくなるほど、その一冊の本と、隣にいる彼女の体温に、深く深く没頭していった。




