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愛を知る、桜が散る。  作者: Leon


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一章

ツンと鼻を突く消毒液の匂いと、規則的に鳴り響く電子音。病院の待合室は、いつ来ても世界の終わりを引き延ばしているかのような、独特の停滞感が漂っている。

壁に掛けられたデジタル時計の数字が静かに進む。そのわずかな変化さえも、この空間では意味を失っているかのようだった。


僕はロビーの端にある、硬いプラスチック製のベンチに深く腰掛け、文庫本に視線を落としていた。お母さんの病状は安定していると医師からは聞いているけれど、ここに来るとどうしても心がざわつく。白い壁、無機質な照明、そしてどこか重苦しい空気。そのすべてが、僕の胸の奥にある不安をチクチクと刺激するのだ。そのざわめきを無理やりかき消すように、僕は古い活字の世界へと深く逃げ込んでいた。文字を追っている間だけは、この現実から目を背けることができた。


「本、好きなの?」


不意に、上から降ってきた声に心臓が跳ねた。

それと同時に、ふんわりと甘いシャンプーの香りが僕の鼻腔をくすぐった。病院特有の薬品臭をかき消すような、場違いなほどに瑞々しい香りだった。

驚いて顔を上げようとした瞬間には、すでにその主の顔が目の前にあった。彼女は首を少し傾げながら僕に近づき、じっとこちらの顔を覗き込んできた。流れるような動作で、左耳のほうにある細い髪を指先で耳にかけながら、いたずらっぽく微笑む。


誰かと思うとそれは、クラスの堀北咲楽ほりきたさくらだった。


一瞬、自分の見間違いかと思って瞬きを繰り返した。けれど、目の前にいるのは間違いなく彼女だった。咲楽はクラスの中心的存在で、ほとんどのクラスメイトと仲が良かった。いわゆる「陽キャ」と呼ばれる人種だ。それも、ただ騒がしいだけではなく、誰に対しても自然に壁を作らずに接することができるため、陽キャの中でも圧倒的に人気が高かった。地味で目立たない、いつも教室の隅で気配を消している僕とは、一生交わることがないような、世界の違う存在だった。


「まぁ、ほどほどに」


僕は文庫本から完全に目を離さないまま、わざとぶっきらぼうに答えた。少しだけ視線を本の端にずらし、彼女の靴先を見る。関わりたくない、というよりは、あまりに突然の出来事にどう接していいか分からず、ただこの気まずい状況から逃げ出したかったのだ。僕の声は思った以上に低く、冷たく響いた。


「そうなんだ!私はね。本好きなの!」


しかし、咲楽は僕のそんな冷たい態度なんて、これっぽっちも気にも留めない様子だった。むしろ、僕の反応を楽しんでいるかのように、さらに深く微笑んだ。彼女の笑顔は、まるで大好物の美味しい物を口にしたときのように、ただひたすらに無邪気で、そして可愛かった。

なぜ彼女が、学校でも一言も話したことがないような僕に話しかけてきたのか、その時の僕には全く分からなかった。僕は普段から人と関わることが極端に少ない。だから、他人が何を考えているのか、その心の機微をうまく読み取ることができないのだ。そのうえ、今の言葉とは裏腹に、僕は普段から本を滅多に読むわけでもなかった。ただの現実逃避の道具として、たまたま家にあったものを持ってきただけだった。


「あ、自己紹介まだだったね。私は堀北咲楽ほりきたさくら。一応同じクラスだよ?」


彼女は「私のこと、ちゃんと記憶にある?」と言いたげな、少しからかうような目を向けてこっちを見た。そのきらきらとした眼差しは、僕が自分の名前を知っているかどうかを確かめるような、ほんの少しの不安と、それ以上の期待に満ちているように見えた。


「うん。知ってる」


僕はまた、彼女のまっすぐな視線を受け止めることができず、視線を文庫本へと戻した。そして、内容も頭に入っていないページをパラリと一枚めくり、これ以上会話を広げないでくれという願いを込めて、気のない返事をした。


「たしか君は、遠藤さんだよね?」


彼女の口から僕の名前が滑り落ちたとき、僕は小さく息を呑んだ。彼女ほどの有名人が、なぜ僕のような日陰者の名前を知っているのだろう。不思議で仕方がなかったが、すぐに自分の中で納得のいく理由を探した。彼女はクラスの人気者だ。きっとクラスメイト全員の名前を覚えることなんて、彼女にとっては息をするのと同じくらい簡単な、当然のスキルなのだろう。そう思い込むことにして、僕は動揺を隠した。


「うん。……なんで君がここに?」


自分でも驚くほど自然に、言葉が口をついて出た。いつもなら、どうやって会話を切り上げようか、どうやってこの場を立ち去ろうかということばかりを考えるはずの僕が、どうしてか、彼女との対話を続けようとしていた。彼女の持つ独特の空気感が、僕の警戒心を少しずつ狂わせているのかもしれなかった。


僕の問いかけに対して、咲楽は一瞬だけ、いたずらが大成功した子供のような無邪気な笑みを浮かべた。それから、ふっと背筋をピンと伸ばした。

ちょうど彼女の背後にある大きな窓から、午後の柔らかな光が差し込んでいた。その光を背中に受けた彼女のシルエットは、どこか現実味がないほどに美しく、神聖にすら見えた。そんな光の中で、彼女は僕の平穏な日常を根底から覆すような、信じられない言葉を静かに口にした。


「私ね、実は病気持ってて、余命1年なの。あ、これ誰にも言っちゃだめだからね!」


「え……?」


頭の芯が急に冷たくなるような感覚がした。ドクン、と心臓が大きく、重く波打つ。

あとたったの一年で、この目の前にいる少女が、この世界から綺麗さっぱり消えてしまう?

そんなあまりにも重く、受け止めきれないほどの事実を突きつけられたというのに、彼女の表情には悲壮感など微塵もなかった。まるで「明日の天気が雨なんだよね」と、日常の些細な予定を報告するかのように、柔らかく、穏やかに微笑んでいるのだ。そのギャップが、僕の思考を完全にフリーズさせた。


「ねぇ、なんで驚かないの?」


沈黙に耐えかねたわけではないだろう。咲楽は、友達に大好物の恋バナをせがむ時のような、ちょっとしつこくて、それでいて楽しげな表情を浮かべ、再び僕の顔をじっと覗き込んできた。彼女の瞳は、僕の反応を隅々まで観察しようとするかのように、好奇心に満ちていた。


僕は一度視線を落とし、膝の上で開いたままの文庫本のページを見つめた。それから、ゆっくりと息を吐き出し、静かに言葉を紡いだ。


「君が秘密にしてるなら、ほかの人に心配されたくないってことでしょ? だから、関係のない僕が勝手に心配するのも、なんか違うかなって」


僕の言葉は、冷淡に聞こえたかもしれない。けれど、それが僕なりの誠実さだった。

僕がそう答えると、咲楽は丸い目をさらに丸くして、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。彼女の動きが完全に止まり、待合室に再び電子音だけが響く。


数秒の、張り詰めたような沈黙。


やがて、彼女の驚きに染まっていた顔が、ゆっくりと綻んでいった。そして、今日一番の、心の底から溢れ出たような、眩しい笑顔が彼女の顔に咲いた。それは今までのどんな笑顔よりも自然で、嘘偽りのないものに思えた。


「すごいね君。私、君となら仲良くやっていけそう!」


彼女は本当に嬉しそうに声を弾ませて、ポンと小さく手を叩いた。それから、病院の無機質な白い天井を仰ぎ見るようにして、楽しげに笑った。その声は、重苦しい待合室の空気を一瞬で塗り替えていくようだった。


「僕は仲良くしたくないけどね。めんどそうだし」


僕は今度こそ、パタンと音を立てて文庫本を閉じた。それを制服のポケットに押し込み、ベンチから立ち上がって帰る準備を始めた。人と深く関わるのは昔から苦手だ。これまでの人生で、ちゃんと心を通わせた、あるいは素の自分を見せられた人間なんて、家族くらいしかいない。彼女のような、太陽のように眩しくてエネルギーに満ちた存在に巻き込まれたら、僕が必死に守ってきた静かで平穏な日常が、跡形もなく壊されてしまう。本能的にそう思った。


「も~う。ひどいな。私、余命1年しかないんだよ? ……あ、そうだ! 今から遊びに行こう!」


咲楽は不満そうに両頬をぷくっと膨らませると、少し眉をひそめて僕をジロリと睨みつけた。へこたれる様子なんて、やはり爪の先ほども見当たらない。それどころか、彼女のまっすぐな瞳は、完全に僕をロックオンしていた。もう逃がさない、とでも言うように。


僕は彼女の目を見つめ返した。断る理由は、頭の中にいくらでも浮かんでいた。家でやらなければいけないこともあるし、何よりめんどくさい。

けれど、僕の口からこぼれ落ちたのは、自分の思考とは真逆の言葉だった。


「まぁ、いいよ」


どうしてそんな返事をしてしまったのか、自分でも分からなかった。ただ、僕はまた、彼女との会話を終わらせたくないと思ってしまっていた。もっとこの人と一緒にいたい、この不思議な時間の中に浸っていたいと、心のどこかで強く願ってしまったのだ。


「やった!」


咲楽は弾けたような明るい声を上げると、僕の答えが変わるのを恐れるかのように、僕の手首をきゅっと掴んだ。

その手は、小柄な女の子のものとは思えないほど、驚くほど強かった。そして、どこか焦っているような、切実な熱を帯びていた。


その手の熱さに引っぱられるようにして、僕は一歩を踏み出した。

無機質な病院の自動ドアが開き、外の生暖かい風が僕たちの髪を揺らす。彼女に手首を掴まれたまま、僕は自分の意志で、あの平穏だけど退屈だった日常から飛び出していった。


「君はなんで病院にいたの?」


アスファルトを踏みしめる僕たちの足音に混じって、隣を歩く咲楽からそんな言葉がこぼれ落ちた。

彼女はわずかに顔をこちらに向け、首を小さく傾げている。その大きな瞳の奥には、好奇心だけでなく、「踏み込んでいい領域なのだろうか」という躊躇いと、気遣うような遠慮の色がはっきりと浮かんでいた。学校で見せる、誰にでも屈託なく笑いかける彼女とは違う、繊細な一面がそこにあった。


数秒の間、僕たちの間に小さな沈黙が流れた。並んで歩く二人の影が、午後の傾きかけた太陽に引っ張られて、地面に長く伸びている。


「言いたくないなら、言わなくていいよ」


僕がすぐに答えを返さなかったからだろう。彼女は少しだけ目を泳がせ、僕の顔を見るのをやめて、すっと下を向いた。

弾むようだった声の音程が一段低くなり、気まずさを薄めるように、自分の靴先を見つめながらぽつりと言った。彼女を困らせたいわけではなかった。ただ、自分の家庭の事情を他人に話すことに、僕の心が少しだけ身構えてしまっただけだった。


「お母さんが倒れて、入院してるから。……そのお見舞い」


僕は歩調を緩めず、やっぱり彼女の顔を見ないように、まっすぐ前方の道を睨みつけながら答えた。隠すようなことでもない。けれど、同情されるのも、気を遣われるのも、どう接していいか分からなくなるから苦手だった。


「そっか……」


咲楽の声が、さっきよりもさらに低く、少しだけ寂しそうに沈んだ。

彼女の視線はまだ地面に落ちたままだった。彼女自身が抱えているという「余命一年」の病の重さと、僕の母親が置かれている状況が、彼女の胸の中でほんの少しだけ重なったのかもしれない。彼女の横顔に、一瞬だけ大人びた、そしてどこか儚い影が差したのを、僕は視線の端で捉えていた。


周囲の住宅街は静かで、時折通り過ぎる車の音だけが、僕たちの沈黙を誤魔化してくれた。気まずいわけではないけれど、どう言葉を繋げばいいのか分からない、不思議な時間が流れていく。


「ねぇ。どこ行くつもり?」


その重めの沈黙に耐えかねて、今度は僕のほうから問いかけた。

すると、咲楽は待っていましたとばかりに、すぐにいつもの調子を取り戻した。パッと顔を上げ、雲一つない青空を見上げるようにして、眩しそうに微笑んだ。


「ふふ~ん。最近すごく気になってるカフェあるんだ!」


彼女の切り替えの早さに、僕は小さく息を吐き出した。その表情からは、さっきまでの陰りなんて綺麗さっぱり消え去っているように見えた。けれど、それが彼女の強がりなのか、それとも本当に前を向いているからなのか、僕にはまだ測りかねていた。


病院を出てから、だいたい十分ほど歩いたただろうか。

彼女が「最近気になってる」と言っていたカフェの前に、僕たちは到着した。

そこは、大通りから一本入った路地にひっそりと佇む、木目調の落ち着いた店構えの店だった。大きなガラス窓の向こうには、暖色の照明に照らされたお洒落な観葉植物が並んでいて、外から見ても居心地の良さが伝わってくる。


「ついた。ここだよ! 美味しそうでしょ?」


咲楽は一歩前に出て振り返り、両手を少し広げるようにして店を指し示した。彼女の顔には、相変わらず満面の笑顔が絶やされていない。まるで、世界中の楽しいことや幸せなことを全て集めて、この小さな体に凝縮したかのような、そんなエネルギーのある笑顔だった。

いつもなら「お洒落すぎて僕には敷居が高い」と素通りしてしまうような場所なのに、彼女のその笑顔を見ていると、どうしようもなく目を奪われてしまい、断る言葉なんてどこかへ消し飛んでしまった。


「うん」


僕は短くそう答えて、彼女に促されるまま店の重い木製のドアを押した。カランカラン、と静かなベルの音が響き、店内には香ばしい珈琲の香りが満ちていた。


案内されたのは、窓際にある小さな二人掛けの席だった。

向かい合って席に腰掛け、それぞれ注文を済ませる。しばらくして、店員が注文した品を運んできた。小さな木製の円卓の上に、二つのケーキ皿と飲み物が並ぶと、それまで少し地味だった僕たちの空間が一気に華やかになった。


「んー! 美味しい!!」


咲楽は、自分の前に置かれたチョコレートショートケーキをフォークで小さく切り分け、一口食べると、まるで奇跡に遭遇したかのように目を輝かせた。

彼女の白い頬が、美味さのあまりほんのりとお祝いのように赤らむ。幸せそうに頭を少し揺らすと、さらりとした髪が肩の上で上品になびいた。本当に、感情がそのまま全身から溢れ出しているような人だ。


「それはよかった」


僕は、自分の前に置かれた定番のイチゴのショートケーキに視線を落とした。フォークで丁寧に先端を切り分けながら、わざとあっさりと答える。彼女のその無防備な可愛らしさを正面から受け止めてしまうと、自分の心臓の音がうるさくなりそうだったからだ。


「チョコショートケーキ、好きなの?」


もぐもぐと、本当に愛おしそうにケーキを次々と口に運ぶ彼女の姿を見ながら、僕はなぜか、自分から次の言葉を探していた。

いつもなら、相手から話しかけられるまで黙っているのが僕のスタイルなのに。この沈黙が怖いからなのか、それとも単に、彼女ともっと話をしていたいからなのか。自分でもその動機がうまく判別できず、胸の奥が少しむず痒かった。


「え、うん。好きだよ!」


咲楽は、僕からの質問に少し驚いたように、パチパチと丸い目を瞬かせた。

だけど、いつも受動的だった僕から話しかけたことが、彼女にとってはよほど意外で、そして嬉しかったのだろう。もぐもぐと動かしていた口を少し休め、その表情にあからさまな喜びを滲ませて、僕をじっと見つめてきた。


「へー。僕はショートケーキのほうが好きかな」


会話を途切れさせたくない。その一心で、僕は普段使わない脳の領域をフル回転させ、必死に言葉を繋いだ。我ながら、これまでの人生で一度もしたことがないほどのコミュニケーションにおける大奮闘だった。


「ええ! うそ! チョコショート食べたことないの?」


咲楽は「信じられない」といった様子で、持っていたフォークを握ったまま、テーブルを挟んでぐいと体を前のめりにしてきた。

彼女の顔が急に近づき、その大きな瞳がまっすぐに僕を射抜く。あまりの迫力に、僕は思わず背中を椅子の背もたれに預けるようにして、少しだけ距離を取った。


「実は、ない」


白状すると、少しだけ恥ずかしくなって、僕は自分のイチゴのショートケーキへと視線を落とした。別にチョコレートが嫌いなわけではないけれど、ケーキ屋に行けばいつも、無難な普通のショートケーキを選んでしまうだけの話だった。


「だからだよ! ほら、一口あげるよ!」


咲楽の声が、ぴょんぴょんと楽しげに跳ねる。

けれど、そう言った彼女の頬は、心なしかさっきよりも少しだけ赤みを増しているように見えた。


「いいよ、いいよ」


僕は激しく両手を左右に振って、全力で彼女の提案を拒絶した。

だって、考えてもみてほしい。彼女の小さな手にある、そのフォークは……。


「いいから! ほら、はい、あーん!」


咲楽は、今度は耳の裏まで一気に真っ赤に染め上げながら、それでも引くことなく、フォークを僕の目の前へとぐいと突き出してきた。

彼女の手が少しだけ震えている。フォークの先には、生クリームと濃厚なチョコレートをまとった、小さなケーキのひとかけらが乗っていた。


カフェの中に流れるボサノヴァのBGMも、周囲の客たちの話し声も、スプーンが皿に当たる微かな音も、すべてが急に遠のいていくような気がした。

僕たちのいる、この小さな丸テーブルの空間だけが、時間の流れから切り離されたように静まり返る。


これを食べたら、どうなる?

頭の中で、そんな声がリフレインする。いや、ここで頑なに拒むほうが自意識過剰で不自然だし、何より、女の子が勇気を出して差し出してくれているのに、男として格好悪すぎるんじゃないか。


様々な言い訳が脳裏を駆け巡り、僕は半ばやけくそになった。

半分だけ目を閉じるようにして視線をそらし、彼女の差し出したフォークごと、そのケーキのひとかけらを口に含んだ。


舌の上に、ビターで上品なチョコの風味と、生クリームのまろやかで濃厚な甘さがじわりと広がっていく。

確かに、信じられないほど美味しいケーキだった。

けれど、今の僕にとって、その味覚なんてどうでもよくなるほど、大きな事実が脳内を支配していた。

『咲楽がたった今使っていたフォークを、僕がそのまま口に入れた』

その事実の重みが、僕の脳の処理許容量を完全にオーバーさせ、思考を完全に停止させていた。


「……どう? 美味しい?」


僕が口を動かしてケーキを飲み込むのを待って、咲楽がフォークを引き抜いた。

彼女は首を少しだけ右に傾け、長い睫毛の隙間から、上目遣いで僕の反応をじっと覗き込んできた。その瞳は潤んでいるようで、彼女自身も相当な緊張の中にいることが伝わってくる。


「う、うん……美味しい、と思う」


僕は彼女の放つ圧倒的な熱量に完全に気圧されていた。

彼女の綺麗な瞳と視線が合うことに耐えきれなくなって、逃げるように視線を左斜め下の、茶色い床の一点へと落とした。

言葉を発するだけでも喉がカラカラだった。自分の顔が、沸騰したのではないかと思うほど熱くなっているのが、鏡を見なくてもはっきりと分かった。


すると突然、横からふわりと、あの甘いシャンプーの香りに混じって、少し大人びた柑橘系の香りが近づいてきた。

彼女がテーブルに肘をついて、僕の耳元に顔を寄せてきたのだ。


「ふふ、間接キスだね」


鼓膜を直接、心地よく揺らすような、低くて小さな囁き。

その言葉が僕の耳元に届いた瞬間、僕の体温は限界突破した。


「っ……!」


心臓がバカみたいに大きな音を立てて暴れだす。僕の頬は、夕焼けよりも赤くなっているに違いない。あまりの恥ずかしさに、もう彼女を直視することなんて逆立ちしても出来なかった。

彼女の髪の毛の先が、僕の頬のすぐ近くで微かに揺れている。彼女の呼吸、彼女の体温、彼女の匂いが、僕の身体の中の隅々にまで充満していくような、そんな錯覚さえ覚えた。それは、男の僕を簡単に狂わせてしまうほど、途方もなくいい匂いだった。


「なに? 間接キスでおじおじしてたの?」


咲楽は僕の様子を見て、いつものようにからかうような悪戯っぽい口調で言った。

けれど、彼女の声もどこか上擦っていて、少し震えている。何より、僕から視線を外した彼女自身の耳の縁が、隠しきれないほど鮮やかな真っ赤に染まっていた。

恥ずかしがって、心臓をバクバクさせながらも、彼女は僕のこの狼狽ぶりをどこか楽しんでいるようでもあった。


「べ、別にいいじゃないか。僕は……その、したことが、なかったんだ」


さらに顔に熱が集まっていくのを感じながら、僕は完全にそっぽを向いた。窓の外を通る見ず知らずの通行人を、意味もなくじっと見つめる。声が裏返らなかったのだけが、せめてもの救いだった。


「そうなんだ。へ、へー……」


僕のその告白を聞いた瞬間、咲楽は何かを必死に隠すように、くるりと後ろを向いてしまった。正確には、僕から完全に顔を背けて、窓とは反対側の壁のほうを向いてしまったのだ。


彼女は両手で自分の赤くなった頬を包み込むようにして、小さく俯いている。

その背中が、心なしか小さく縮こまっているように見えた。


(よかったぁ……私だけじゃなかったんだ)


背中を向けた彼女の口から、声にならないほどの、本当に小さな呟きが漏れたのを、僕は聞き逃さなかった。

お互いに顔を見合わせることもできず、ただ赤くなった耳を晒しながら、僕たちはそれぞれの目の前にあるケーキを、機械的にフォークで突き続けた。

お洒落なカフェの喧騒が、再び少しずつ僕たちの耳に戻ってきたけれど、僕たちの間に流れる空気だけは、さっきまでとは確実に違う、甘くて少し苦い熱を帯びたまま定着していた。



しばらくの間、僕たちの間にはフォークが皿に当たる小さな金属音だけが響いていた。

お互いに顔を上げることができず、ただ目の前にあるケーキの残りをじっと見つめている。先ほどの間接キスという単語の破壊力は、僕の貧弱な対人耐性を容易く消し飛ばしていた。


そんな静寂を破るように、咲楽が衣服を擦れ合わせる音を立てて動き出した。


「ねぇ。私たち、メール交換しよ!」


彼女はカバンの中から、お気に入りのキャラクターのケースに収まったスマートフォンを取り出し、画面を僕のほうに向けた。その動作は一見するといつもの彼女らしい強引さだったけれど、差し出されたスマートフォンの端を握る彼女の指先が、かすかに細かく震えているのを僕は見逃さなかった。


僕は一度、フォークを皿の上に静かに置いた。そして、自分の前に残ったイチゴのショートケーキを口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼し、完全に飲み込んで喉のつっかえを無くしてから、できるだけ冷静を装って声を絞り出した。


「やだよ。君はクラスの人気者で、僕はクラスの端っこにいるような人間だ。不釣り合いすぎる」


それは僕の本音だった。僕のような日陰者が、学校の太陽である彼女と個人的に繋がるべきではない。もし誰かに見られでもしたら、彼女にどんな噂が立つか分からない。僕と関わることは、彼女にとってマイナスでしかなく、迷惑にしかならないのだ。それが僕には、痛いほどよく分かっていた。


「んー……」


咲楽は不満げに両頬をぷくっと膨らませた。彼女は僕の言葉を拒絶するように、持っていたスマートフォンをごつごつとした僕の胸元へと、まっすぐに突き出してきた。

テーブルを挟んで、彼女の身体がまた一歩近づく。


「そんなの関係ない! 私とあなたは、もう友達でしょ?」


「友達」


その二文字が彼女の口から零れ落ちた瞬間、僕の思考がぴたりと止まった。

これまでの人生で、同級生からそんな風に境界線のない言葉を投げかけられたことがあっただろうか。誰もが僕を「遠藤くん」という記号で呼び、遠巻きに眺めるだけだったのに。彼女は当たり前のように、その特等席へ僕を招き入れようとしていた。

なぜだろう。その響きに、僕の胸の奥をギリギリと締め付けていた頑なな張り詰めが、ほんの少しだけ、お湯に溶けるように緩んでいく気がした。


「……わかったよ。はい」


僕はため息混じりに、けれど拒絶しきれない自分に苦笑しながら、制服のポケットから古びたスマートフォンを取り出した。画面を操作し、連絡先のアカウントを示すQRコードを表示させて彼女に向ける。


「ん。ありがとう!」


咲楽は素早く自分のカメラでそれを読み取ると、嬉しさを隠すようにスマートフォンで自分の口元を覆った。しかし、隠しきれていない目の端が細められ、その上の白い皮膚が、夕暮れを先取りしたかのようにぽっと赤く照らされていた。その様子を直視できず、僕はすぐに自分の画面へと視線を戻し、登録完了の通知を確認した。


お店を出ると、外の空気はすっかり橙色に染まり始めていた。

昼間のうだるような暑さは影を潜め、涼しい川風のようなものが路地を吹き抜けていく。


自動ドアが閉まった直後、咲楽が不意にピタッと足を止めた。

つられて僕も足を止め、半歩後ろから彼女を振り返る。


「ねー。今日、楽しかった??」


彼女は僕の横に一歩寄り添うように並ぶと、僕の顔を覗き込むようにして首を傾げた。その瞳は、まるでテストの採点結果を待つ子供のように、真剣で、どこか不安げだった。

なぜ彼女がそこまで僕の感想を気にするのか、当時の僕には全く理解できなかった。クラスの人気者なら、もっと他に楽しい場所や、楽しい相手がいくらでもいるはずなのに。なぜ、どうしてここまで僕のことを気にかけて、特別扱いをしようとするのだろうか。


「まぁね」


僕はそれ以上彼女の瞳を見ていられなくなり、ふいと前を向いた。そして、彼女の歩調に合わせるようにゆっくりと、横を並んで歩きながらそっけない言葉を返した。「楽しかった」と素直に言うのは、僕のプライドが邪魔をした。


「もー、本当に素直じゃないな~」


咲楽は呆れたように笑うと、僕と同じように前を向いた。そして、少しだけ顎を上げて、高い空を見上げた。

そこには、青と橙色が混ざり合う、美しいグラデーションの夕空が広がっていた。彼女が何を見ているのか分からず、僕もつられて上を見上げたけれど、彼女の横顔の美しさに、すぐに視線を引き戻されてしまった。


「早く帰るよ」


僕は前を向いたまま、少しだけ歩幅を早めた。背後にいる彼女を置いてきぼりにしない程度の、不器用な急かし方だった。

すると後ろから、タッタッタ、と軽いローファーの足音が響き、小走りで彼女が僕の隣へと追いついてきた。


「は~い」


嬉しそうに弾む彼女の声が、静かな住宅街に響く。

駅へと続く緩やかな坂道の途中で、咲楽はふわりと僕の前に躍り出た。二歩、三歩ほど前を進み、くるりとこちらを振り返る。


「あ、今日はありがとね!」


ちょうどその瞬間、建物の隙間から差し込んだ強い夕暮れの赤い光が、彼女の身体を真後ろから照らした。

光に透けた彼女の茶色い髪が、まるで繊細な絹糸のように綺麗にきらめいた。首を少しだけ右に傾け、はにかむように、だけど心からの親愛を込めて笑う彼女。


ドクン。


その瞬間、僕の胸の奥が、壊れた鐘のように大きく跳ね上がった。

鼓膜の奥で自分の血流の音がうるさく鳴り響く。今まで生きてきて、一度も感じたことのないような、胸の奥をぎゅっと素手で掴まれて締め付けられるような、強烈な衝撃だった。

どうして、こんな風に胸が苦しいのだろう。病気の彼女を哀れんでいるから? それとも……。


「う、うん」


僕の頬は、周囲を包む夕焼けのせいだけではなく、完全に、自らの熱で赤く染まっていた。顔全体が燃えるように熱い。

いつもならここで「遠藤くん顔赤いよー!」とからかわれる流れだと思った。けれど、咲楽は何も言わなかった。ただ、彼女自身の瞳も、どこか泳いでいるように見えた。


「あ、駅ついちゃった。私こっちだから、じゃあね!」


駅の改札口が見えた瞬間、咲楽は僕から逃げるかのように、短い挨拶だけを残して反対側のホームへと続く階段を駆け上がっていった。いつもなら最後まで見送るような彼女が、振り返りもせずに去っていく。


その時、ホームへと駆け込む彼女の心の中は、表面的には見せない、今までにないほどの暴風雨が吹き荒れていた。


(ああああ、もう、恥ずかしい! 恥ずかしすぎる!!)


咲楽は階段を一段飛ばしで登りながら、胸元でカバンを強く抱きしめた。

(顔、絶対に赤くなってたよね!? 大丈夫だったかな……気づかれてないよね!? )


階段を上りきり、電車の来ないホームのベンチに座り込むと、彼女は自分の顔を両手で覆った。指の隙間から漏れる息が熱い。心臓がバクバクと音を立てていて、走ったせいなのか、それとも彼の間近にいたせいなのか分からなかった。余命一年という重い現実を忘れるほど、彼女の頭の中は「遠藤くん」という存在でいっぱいに満たされていた。


その日の夜。

夜の帳がすっかり下り、静まり返った僕の部屋。机の上で教科書を開いていた時、スマートフォンのバイブレーションが「ブブッ」と短く震えた。


画面を開くと、そこには「堀北咲楽」の名前。


『今日は本当にありがとう!めっちゃ楽しかった!!』


画面からでも彼女の弾けるような笑顔が伝わってくるような文章だった。僕は少しだけ指を止め、それからいつもの僕らしい、そっけない文字を打ち込んだ。


『それはよかった』


すぐに既読がつき、緑色の吹き出しが返ってくる。


『私が死ぬまでこれから仲良くしようね!わたしやりたいことリストあるから!手伝ってね!』


「死ぬまで」という言葉が、ポップな絵文字の間に挟まれているのを見て、僕の指がピタリと止まった。彼女は自分の命の期限を盾にしているわけではないのだろうけれど、その言葉の持つ重みに、胸がチクリと痛む。


『いやだよ。めんどくさい』


僕はわざと冷たい言葉を送った。これ以上、彼女のペースに巻き込まれたら、本当に自分がどうにかなってしまいそうだったからだ。しかし、彼女の追撃は止まらない。


『お願い!一生のお願い!!私あと1年しかないんだよ??いいよね!ありがとう!』


ずるい言い方だ、と画面を見つめながら思った。

「一生のお願い」が、彼女にとっては本当に「一生」を意味しているのだから、断れるはずがない。だけど、そんな彼女の強引さが、僕にとっては少しだけ、いや、本当は言葉にできないほど嬉しかった。誰かにこれほど必要とされたことなんて、僕の人生にはなかったから。


『わかったよ。また明日。おやすみ』


数秒の沈黙の後、今度は大きなスタンプと共にメッセージが届いた。


『おやすみ!!!』


画面を閉じ、スマートフォンを机の上に置く。

部屋の中に再び静寂が戻ってきたけれど、僕の胸の奥には、消えない小さな灯火のような熱が残り続けていた。


同じ時刻。

咲楽の部屋では、薄暗い照明の中で彼女がベッドの真ん中にうずくまっていた。


スマートフォンを胸に抱きしめ、毛布の中にすっぽりと潜り込む。

カーテンの隙間から月光が差し込む静かな部屋で、彼女は枕に顔を埋め、足をバタバタとさせていた。


「やっと……やっとだ……!」


毛布の隙間から、彼女の小さく、震えるような声が漏れる。

彼女は枕をぎゅっと強く抱きしめながら、誰にも見せることのない、林檎のように真っ赤に染まった頬をさらに赤くした。


「やっとできたよ……」


彼女はスマートフォンをもう一度開き、僕が送った『わかったよ。また明日。おやすみ』という最後の一行を、愛おしそうに何度も何度も見つめていた。その瞳には、未来への不安を完全に打ち消すほどの、満開の幸福感が満ち溢れていた。


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