07 なんてことないかと思えば
『嫌がらせ』を宣言したセオドア王太子の元から、王太子のたった一人の専任騎士マリスが行方をくらまして四日経った。
くらましたと言っても、マリスの居場所は、その日の内にセオドアに報告されている。
だからと言って、セオドアは、マリスに何かの通達は送っていない。
マリスの一時避難場所であるエゼルセフ公爵家のシレーヌからは、「マリスには時間が必要だ」と報告を受けているため、セオドアは待つことにした。
王太子としての責務をこなすセオドアの執務室には、いつも様々な案件が持ち込まれている。
普段なら、その微笑みを絶やさないままで、もの凄い量の書類を処理していくセオドアなのだが、本日のセオドアは開店休業状態だ。
本日どころか、昨日の分も、一昨日の分も、作業は終わっていない。
セオドアは、一応、机に向かって座っているが、先ほどから一切手は動いていない。
近くの応接椅子に座って、セオドアが決裁を行った書類を整理しているのは、銀に近い金髪を束ねて肩から前に流している、セオドアの側近ジャスティンだ。
ジャスティンはセオドアと同じ年に生まれている。
セオドアとジャスティンとは、幼少より主従の関係にあるが、共に苦労を分かち合ってきた友人同士でもある。
もう一人の側近、炭を溶かしたような濃い茶髪のフェリクスと三人で乗り越えてきたからこそ、セオドアの今があるのだ。
本来なら、セオドアの決裁後に事務官が取りに来るので、ジャスティンが細かく書類を整理する必要は無いはずだが、昨日と今日、セオドアが書類に押印した印影が、全て上下逆さまになっていたのだ。
そのため再度、それぞれの部署から書類を出し直してもらわないといけない。
ジャスティンはそのための整理をしている。
セオドアがこんなことになってしまったのは、もちろん、マリスの出奔が原因だ。
いや、セオドアがマリスを追い詰めたに違いないから、セオドアの責任だ。
それでもジャスティンは思うのだ。
セオドアは、何でもこなせる凄い人物のようにジャスティンも思い込んでいたところがあるが、そう言えばそうでもないのだ。
そして、今のセオドアが本来のセオドアなわけで、大きなため息を付いたり、カーテンで顔を覆ったり、現実逃避で腕立てしたり、またため息を付いたり、そんなセオドアの方が完璧なセオドアより、好ましいと思わなくはない。
(まあ、仕方ないかなー。
それにしても、マリスはいつ戻って来るんだ?
このまま……ってことも……有り得る?
いやいや、それはさすがにまずい。まずいが、有り得るのか……)
今、フェリクスは居ない。
セオドアと行動を共にすることが多いフェリクスだが、今日は休みを取っている。
明日も午前中は休むそうだ。
このところ、フェリクスの周辺は忙しい。
マリスが遁走する少し前から、セオドアとの鍛錬の時間に一人で休憩を取ることが何度かあった。
なんでもフェリクスには…………大変可愛い恋人が出来たそうで、その休憩時間に彼女と会っているらしい。
貴族の婚姻は社交と家政の一環でもある。
その為、セオドアにも許可をもらって休みを取っているのだ。
フェリクスもジャスティンも、言い寄って来る女性には事欠かない。
ただこれまで、「恋人」だと、わざわざ周りに紹介するような相手はいなかった。
ジャスティンもうそうだし、フェリクスもそうだった。
しかし、今回は違う。
明日にもフェリクスは、その恋人の家を訪問して、恋人の父親に交際の挨拶をすると言うのだ。
フェリクスは、何も婚約が決まったわけでは無いと言っているが、そのフェリクスが日に日に浮わ付いていくのを、ジャスティンだって気付かぬわけが無い。
しかも、フェリクスが明日、挨拶に向かう邸には、現在、マリスが身を寄せてもいる。
セオドアもそれを知っているので、フェリクスはマリスの様子を確認するという大義名分を負って休むことができる。
(なんかなー。フェリクス。
何もセオドアが、ヘロヘロなときに、自分だけ幸せにならなくてもなー。
まあ、いいか。『セオドアの暗黒期を支えたのは俺だ!』って、あとからフェリクスにも言ってやろう)
先ほどまで、お茶のカップを手に持ったまま、飲むわけでもなくじっと見つめていたセオドアが、今度は頭を抱え出してしまった。
太陽のような金髪に、優しくも涼し気な榛色の瞳は次世代の王としての風格を既に湛えているという、絶対最上級の完璧王子。
一度言葉を交わした人物とは、身分の別無く、覚えていて気さくに励ましてくれる人格者。
それが、ゼントラン王国のセオドア王太子。
そのセオドアが、自ら犯した失態に両手で顔を覆って、とうとう呻きだした。
「間違えたのか? 間違えたんだな」
そんなセオドアに、ジャスティンはやれやれと声を掛けた。
「セオドア……
どうした? って聞いた方がいいのか?」
ジャスティンは、側近であると同時にセオドアの幼馴染なので、会話も気安い。
でも、こういう気を遣う仕事は、真面目なフェリクスの方が本来得意なのだ。
ジャスティンは、フェリクスがいないので、仕方無く言ってみた。
まあでも、ジャスティンは、セオドアとマリスの間に何かがあって、マリスが逃げたのだとは分かっているわけで、だから、ジャスティンに解決できるはずもない内容であることも予測できている。
ここひと月なんかは特に、マリスに対するセオドアの態度はあからさまだった。
マリスを専任の騎士にした時点で、セオドアの決意が伺えると言うものだが、未だマリスとセオドアは、部下と上司の関係だ。
マリスは忠誠心でセオドアに仕えているとは言え、突き詰めてしまえば、二人の関係は給与の発生する雇用上のものに過ぎない。友人ですらない。
あくまでマリスの方は、誇りを胸に、『仕事』としてセオドアを護衛している。
繰り返し言うようだが、熱意と誠意が介在すると言っても、マリスの行動基盤は職務なのだ。
なのに、あれはなんだ。
自分の瞳の色の騎士服を作らせてマリスに着せたセオドアが、うっとり悦に入って喜んでいるのなんかを見ると、ジャスティンとしては、身内の恥ずかしい行いを見るようで、この上なく居たたまれない。
またどこからか、マリスのお気に入りの焼き菓子があるらしいと聞き付けたセオドアは、毎日、王太子の執務室にその菓子を大量に届けさせた。
王太子御用達と噂が広まって、その菓子が飛ぶように売れたところまでは、まあ良かった。
だが本来なら、王族が買い求めるものは、公平性が常に意識されている。
どこかの店に偏った注文を入れることは宜しくないのだ。
セオドアだってそのことは十分に分かっていたはず。
結局、市井で砂糖や乳製品の価格が高騰する事態も引き起こし、商工会からの苦情を受けることになってしまった。
それとセオドアは、執務の合間に休憩を取らないと能率がどうだのと言って、マリスと庭を散歩することを、日々の日課に入れ込んできてもいた。
いや、前からそういうところ有ったよな、とジャスティンも思い返す。
それにしても、以前より抑制されていないのは明らかだった。
(前は無自覚だったけど、自覚してから、歯止めが効いてないな……)
だから、その延長で、何かが起きてしまったのだろう。
(やれやれ……)
「なんて、なんてことを、してしまったんだ……」
当のセオドアは、悔やんでも悔やみきれないといった思いから逃れられないでいた。
セオドアは、マリスとの距離を縮めたくて、意識して欲しくて、今の関係性の中でここまでなら許されるかというギリギリの接触を図ったつもりだった。
本当はマリスの体温を、直に感じたかった。
鍛錬のときは意識しないでいられるが、そうではなくて触れたかった。
マリスを抱きしめたい。強く抱きしめたい。
そこを堪えて、髪だけにしたのだ。髪なら体温を感じないから。
口付けまでは、やるつもりでは無かった。
いやいや、セオドアの叔父上だった人なんて、侍女や貴族令嬢なんかの髪だけでなく、手や頬にまで、腕とか肩にも挨拶代わりに触ったりキスしたりしていた。
貴族連中にはそういう類の人種も多数存在する。
平民にだっているはずだ。
彼らの日ごろの行いに比べたら、セオドアが髪にキスするくらい、なんてことないのに。
なんてことないはずなのだが。
「冗談ぽく流せば良かったのか…………いや、それではダメだ」
マリスは、そんな風に扱われてよい女性ではない。
セオドアも、軟派な王子様になってしまってはマリスに護衛される資格を失う気がする。
それにしても、マリスは、真っ赤になって動けなかった。固まっていた。
そんなマリスがもう愛しくて、やはり抱きしめてしまいたい強い衝動に駆られたが、セオドアは耐えたのだ。
抱きしめることだって『嫌がらせ』ということにして実行してしまっても良かった。
そこは堪えたのだ。が。
どうしよう!
セオドアはジャスティンに言った。
「気持ちを伝えようとしたんだけど、全然伝わらなくて、それで思わず、髪に…………口付けてしまった……
そしたら、『嫌!』って言われた…………マリスが『嫌!』って言ったんだ……
これって、まだ挽回できるところにいる?
生まれ変わって、ゼロ歳からやり直すしかないだろうか?」
「……………セオドア。とりあえず、生まれ変わる件は却下だ。
生まれ変わったりしたら、マリスとの歳の差が二十歳以上に開いてしまうから、成就する可能性は下がる一方だ」
セオドアが「はっ、そうか!」と、今気が付いたという顔をした。
(ちょっと待て待て…………生まれ変わるって案、割りと具体的に考えてた?
もう、完全におかしくなってるな)
今度は、ジャスティンが頭を抱えた。
(ああ、マリス、頼むから帰って来てくれ。セオドアのために帰って来てくれ)




