32 決戦の日 3
バシャリ。
頭から水を掛けられた男が、どんよりとした目を覚ました。
目を覚ましたのは東の王国の老王だ。
周りを囲まれている。
囲んでいるのは、東の王国でも大貴族の当主たちだ。
その家から人質として出されている妃たちもいる。
本来、妃たちが勝手に後宮を出ることは許されないはずだが……
「お、お前たち、ふざけたことを……」
まだ回らない頭で、老王は周囲を睨みつけた。
「ふざけているのは、お前だ。そうであろう? 『九』殿」
ソフィアが、老王に言った。
老王は、一瞬、何を言われたのか分からないと言う顔をしたが、そのあと、真っ赤になって激怒した。
「はっ、な、何を! ……おい! エミリオ! エミリオはどこだ」
「エミリオ兄様は、今、眠っている。呼吸を忘れていたようで、倒れたのじゃ」
「そんな! エミリオが儂を守らないなんて……」
老王は、今度は真っ青になった。
老王の気に入らない人物を片っ端から片付けてくれるエミリオがいてこそ、老王の王座は守られていたのだ。
「誰でもよい! 儂を! 王を! 助けるのだ! ソフィアを捕らえよ!」
そこにいた大貴族たちが、ソフィアを見て、ソフィアに向かって跪いた。
ソフィアの横にはゴルドが立っている。
老王は信じられないものを見るようにそれらを眺めた。
ふと、少し離れた所から、太陽のような金髪の男性が老王に近付いて来た。
「『九』殿、既にあなたは……いやそもそも、あなたは元から王ではない。アロンソ王は病の床にあり、政務が行えない状態だ。新たな国の代表は、このソフィア摂政閣下だ。ソフィア閣下が、摂政として、国の立て直しに尽力して下さることになった」
「お前、なんなんだ! 誰だ? 何を言う……」
フラフラと立ち上がった老王『九』にソフィアが言う。
「こちらはゼントラン王国の王太子、セオドア殿下であらせられるぞ。そして、あちらには、西の王国の王太子、アンドリー殿下がおられる。
お二人は、国を代表して、わざわざ東の王国まで出向いて下さった。そのことに心を動かされ、東の王国の貴族は、長くいがみ合っていた関係を省み、国を再生させるために協力することを誓っておる」
東の王国で老王の独裁を許してしまったのは、歴史的な理由から、貴族同士が対立していたことも大きな原因だ。
セオドアは、ソフィアの力も借りて、有力貴族の長と話をした。
セオドアの祖母君の家系に連なる貴族家にも協力を仰いだ。
一方でアンドリーも、ソフィアの仲介の元、何人かの妃に対し、自分の王太子と言う身分も明かして取り入ることに成功した。
ゴルドを裏切ったジュリアにも、粘り強く対話を求めた。
やはり敵国から、精霊の如きと評判の王子が、わざわざ話をしに来てくれたことが大きかった。
書簡のやりとりや代理の人間では、こうは行かなかっただろう。
それに、セオドアたちは、東の王国の貴族に対し、ゼントランや西の王国とのつながりが出来ることで得られる利益も具体的に提示した。
何より、妃同士が、反駁し合う家同士の争いを越えて手を携えており、これまで成し得なかった協力関係を築くことができた。
ソフィアを摂政に立てることも、ソフィアを慕う後宮の妃たち、それから、セオドアとアンドリーの後押しがあって成功した。
ソフィア摂政擁立に賛同して集まった者たちの数は多くないが、皆、要所を治める大貴族だ。
更に、ゼントラン王国と西の王国が後ろにいるとなれば、他の貴族たちも、そうそう文句は言えないはずだ。
そして、今日のこの日を迎えることができた。
既に『九』の偽りの王座は瓦解していたのだ。
そのとき、人々の後ろから、癖の無い黒髪を一つに束ね、古の時代に、戦士が纏ったと言う伝統衣装を身に着けた麗人が現れた。
「お、お、お、お、ま、え……」
『九』は恐怖で震え出した。
「お、おまえ、イ、イ、イ、イメルダ、何故だ! 確かに殺したのに! 全て燃やしたはずなのに! 甦ったのか……」
土気色になって震える『九』は、立っていられず尻餅を付いた。
現れた戦士、『九』がイメルダと呼んだその人は、もちろん。
マリスだ。
ソフィアが実家に保管されていたイメルダの衣装をマリスに着せたのだ。
マリスは今、何もしゃべらず、ソフィアに言われた通りに悠然と『九』を眺めている。
代わりに、ソフィアが前に出る。
「……やはり、お前がっ……姉様を殺めたのか……
…………しかし『九』殿、残念であったな。我が伯爵家の秘薬で、姉様は生き返ったのだ。もう貴公の好きにはさせぬぞ!」
ソフィアは『九』に対し、怒りを露わにしたが、堪えて作戦通りに言った。
「ひぃぃっー! 止めてくれ! 助けてくれ! 殺さないでくれ!」
『九』は、生き返った『イメルダ』から視線を外すことができず、大粒の汗を流して、瞳孔が開いたまま、狂ったように叫び出した。
マスクもとれ、実年齢相応の顔が晒されている。
後ずさって逃げようとしたが、結局躓いて自ら転んだ。
その背中に向かってセオドアが言った。
「『九』殿、貴殿も、王の座は空位として、王太子はゴルド王子殿下のまま、政はソフィア摂政閣下が預かるということで、異論は無いな?」
「ひぃぃっー!」
「無いな!」
「……無い! 無い無い! だからイメルダ、殺さないでくれ!」
「残念ながら、『九』殿の処遇は、東の王国の法の元で裁かれる。殺す殺さないは、今、ここでは決められない」
「ひぃぃっー!」
(こんな者のことを、皆で長い年月恐れて来たのか……)
ソフィアにも、ジュリアにも、他の貴族家の当主にも、最早『九』は、ただの干からびた蚯蚓のようにしか見えない。
「法で裁かれるのは分かった。でも、俺が殴ってもいいか?」
ずっと黙っていたシャールがセオドアに尋ねる。
セオドアはソフィアに目配せした。
ソフィアはマリスから、伝説の剣士がマリスの実の叔父であることを聞いていたので言った。
「シャール殿、許す」
シャールは、『九』の前に立ち、両手を交互に振り出して、『九』の体の周囲の空気を数回叩いた。
もの凄く速い動作だったが、体には一切、拳は当てられなかった。
ただ、着ていた服ごと、浅い切り傷を付けられた元老王は、白目を剥いて、今度こそ崩れ落ちた。




