03 心配かと思えば
マリス騎士が、上司であるセオドア王太子に休暇届を出し逃げしてシレーヌの元に走った日から、時間は、ひと月前に遡る。
つまり、あの日に遡る。
あの日とは。
西の王国から国賓としてゼントラン王国を訪問していたタチアーナ王女の我儘で城下の散策班が組まれ、タチアーナを警護するマリスも同行して、人気のカフェを訪れたあの日だ。
たまたま居合わせたシレーヌ・エゼルセフ公爵令嬢が、その城下散策班に加わることになって、仕立て屋のサロンへも付き添ったのち、邸へ帰る途中で誘拐された、あの日だ。
あの日、ケビン騎士隊長がただ想いを寄せるだけの恋をしていたその相手が、拐されてしまった。
しかし、その夜、愛しい人は無事にケビンの元へと帰って来てくれた。
そう。まさしく、シレーヌは王城に報告に来たその足で、最初にケビンの元へやって来たのだ。
そして、一人神を呪っていたはずのケビンに、今はシレーヌを抱きしめているケビンに、シレーヌが言った。
「わたくしを助けるために、マリス騎士がまだ敵の隠れ家に潜んでいます。ケビン様の大切なマリス様を、わたくしのために危険な目に遭わせていること、本当に……本当に、申し訳なく思います。どうかお許し下さい。
そして、マリス様をお助け下さい!」
ケビンは、まだ自分の目の前、それどころかケビンの腕の中にシレーヌが居ることが信じられない。
もうそのことだけで頭がいっぱいだ。
「マリス?……ああマリスですか。……大丈夫でしょう。
ええと……そうそう。王太子殿下と騎士団団長閣下による、捜索隊が組まれてますから、そちらに伝えておきます。
ああでも、あれは、シレーヌ様の捜索隊ですね……
シレーヌ様が見つかったから捜索隊は解散なのかな?
……まあ、とにかく誰かに任せましょう。
それより、お茶でも飲みましょう」
「お、お茶? あの、でも、マリス様が……」
「シレーヌ様、気に懸けて頂きありがとうございます。マリスも光栄なことでしょう。
シレーヌ様、それよりも、お腹は空いていませんか?」
シレーヌは戸惑う。
マリスが強いことをケビンは知っているはずだから、急時においても、こういうものなのだろうか??
シレーヌが密かに慕うケビンは、ケビンの幼馴染であるマリスと心を寄せ合っている、とシレーヌは考えている。
ケビンが、マリスのことを語るときはいつも、優しさの滲む特別な表情をするからだ。
ケビンとマリス、二人の絆は強い。
それは間違いないと思うのだが……
それにしても、ケビンがマリスのことをまったく心配していないことにシレーヌは心配になる。
気配を消していた黒髪で体躯の良い男性が、ようやくとしゃべり出す。
「あのさ、ケビン。
マリスのこともなんだけど、俺のこと、いい加減、視界に入れてね。
それから、こちらの薔薇様が言ってたけど、薔薇様の無事を王太子殿下に報告しないといけないだろ?
あー、それでも喉乾いたな。久々にケビンのお茶、俺も飲みたい」
ケビンとシレーヌ、二人の極々甘い空気の壁に入れず、背を向けて待っていたケビンの師匠シャールだ。
伝説的な剣士のシャールは、マリスの叔父でもある。
ケビンはにっこりと口角を上げ、水差しからコップに水を汲んで、自分がいつも座っている執務机の上に置いた。
そして、シャールに向けて、手のひらを上にしながら、その執務机の椅子に腰かけろと示した。次に、
「シレーヌ様、今、熱いお湯を用意しますね。少しお待ちください」
と、ケビンが微笑んで言い出したので、こちらもケビンに促されて応接用の長椅子に座っていたシレーヌが、いい加減立ち上がった。
「ケビン様! わたくしのことは良いのです。どうか、マリス様を助けて差し上げてください!」
ケビンは微笑みはそのままに、しかし、ティーポットとセットのカップに水を注いで、優雅にシレーヌに差し出した。
本当はお茶を入れたかったが、確かに、シレーヌは王太子の元へ行かねばならないだろう。
シレーヌも喉は乾いていたので、急いでカップの水を飲み干した。
それにしてもだ。シレーヌは思う。
ケビンは、どう見てもマリスを気に懸けていない。いいのだろうか。
公爵令嬢のシレーヌが目前にいるから、遠慮しているのだろうか。
でも、もし、シレーヌが逆の立場だったら耐えられない。
どこか別の場所で、ケビンが一人、助けを求めて待っているとしたら、すぐにでも走って行きたくなってしまう。と言うのに。
シャールはもう、すっかり諦めてやれやれとケビンを見た。
苦労している母を助けるために騎士になりたいのだ、と。
だから剣を教えて欲しい、と。
悲壮感いっぱいに言っていた小さな子供だったケビンが、今は、この薔薇様から一瞬も目を離せないと見つめているのだ。
しかし、可哀そうに、マリスのことがどうでもいいような扱いになっている……
シャールのことだって、久々に会えたと言うのに、まだ一言も会話が成立してない……
(こっちは話しかけてるのに、手で合図するだけって、おい!)
「……とにかく、今は王太子のところに行こう、ケビン。
俺はそういう身分じゃないから、ケビンが連れて行ってくれよ」
シャールが言ったことに、ケビンは微笑みを貼り付けたまま、やはり黙って頷いただけで、シレーヌから視線を外すことはなかった。
とりあえず、ケビンは固く固く、固く決意した。
この件は後日改めてだ。




