8 繰り返される運命
幼い頃から、彼は両親の教えに背いたことがなかった。公爵家の跡継ぎとして恥じぬ振る舞い、決して神への信仰心を忘れない。
だが、神が与えてくださる奇跡というものだけは一度として信じたことがなかった。
人は努力で未来を切り開くものだ。
神が都合よく手を差し伸べてくれるなど、子どもの夢物語だとさえ思っていた。
しかし、それは大きな間違いだった。
「ここは……あら?」
雲ひとつない青空に淡い光が滲み、その中心から一人の少女が姿を現す。
これを奇跡と呼ばずして、何を奇跡というのだろう。
「あなたは……」
少女は辺りを見回し、不安そうに呟いた。
彼女は、見たこともない衣服を身にまとっていた。
後になって”着物”という名だと知ることになるその服は、花のように美しい彼女によく似合っていた。
まるで春そのものが、人の姿になって現れたかのようだった。
「行くあてがないのでしたら、私と共に来てください」
困惑して口をぱくぱくとさせる少女へ向かって、彼は迷うことなく手を差し伸べた。
それが、ルドヴィクと小春の出会いだった。
まるで奇跡のように空から現れた少女に、彼は一瞬で心を奪われた。
「本当に私をここへ置いていただけるのですか……? 奥様、ありがとうございます。掃除でも洗濯でも、私にできることなら何だってやります!」
誰とでも分け隔てなく接し、自然と人を笑顔にしてしまう。
彼女の持つ太陽のような明るさは、愛情をたっぷり受けて育ったからこそ生まれる貴族には珍しい温かさだった。
彼が彼女に尋常ではない恋心を抱いてしまうのは、至極当然のことだった。
ルドヴィクは、この世の何よりも小春を大切に扱った。
彼女が永遠にこの世界へ残ってくれることを願いながら、惜しみなく愛情を注いだ。
その想いは少しずつ小春の心にも届き、彼女もまた、彼へ心を開いていった。
そんな穏やかな日々は、驚くほどあっという間に過ぎていく。
ある日、小春は元の世界へ帰ると言い出した。
その瞬間、初めて彼女と出会ったあの日とは正反対に、世界から色が消え去ったような気がした。
「すべてを振り払い、過去も責任も忘れて、この世界で生きてくれ。望みは何でも叶えてやる。私は、君のためなら何だってできる」
彼女の甘い瞳が切なげに揺れる。
「父と母、まだ幼い弟や妹たち、私を待っている人が向こうの世界には大勢いるの。決して許されない時間だった。私は、罪を犯したわ。あなたにも、私にも、決められた相手がいたのに」
「私に、君以外のひとを愛せというのか」
「……生きていれば、どうしても自分の望みを諦めなければならない時があるわ。たとえそれが、愛していない人と生涯を共にすることだったとしてもよ」
「コハル……」
「私だけ幸せになることはできないわ。たとえ愛する人と結ばれなくても、それが私に与えられた運命なら受け入れなくてはいけないの」
彼女は最初から答えを決めていた。
彼の想いに応える未来など、一度も選択肢にはなかったのだ。
「さようなら。どうか、お元気で」
その言葉を残し、彼女は一度も振り返ることなく、元の世界へ帰っていった。
悲しそうに見えた最後の笑顔も、きっと自分で都合よく解釈した幻に過ぎない。
忘れなければならなかった。
あれは奇跡でも運命でもない、ただ一時だけ与えられた儚い夢なのだと言い聞かせて。
やがて時は流れ、ルドヴィクは幼い頃から婚約していた令嬢を妻に迎え、公爵として、そして一人の夫として生きる道を選んだ。
彼女は彼を敬い、支え続けてくれた。
彼もまた、その想いに応えようと努力した。
確かに情はあった。穏やかな夫婦として歩んだ年月は決して偽りではない。
しかし、それは小春へ抱いた感情とは違っていた。
胸を焼くほど恋い焦がれ、他の何も考えられなくなるような激情ではなかった。
やがて妻が幼い息子を残してこの世を去った時、自分は大切な人から取り残されていく運命なのだと悟った。
それこそが、小春の言っていた受け入れるべき運命なのだと。
だが、神はまるでその時を待っていたかのように奇跡を授けた。
今度は彼ではなく、その息子に。
「あの、ルドヴィク様ですよね? 小春おばあさまから話を聞いていました! その、鏡が突然光出して、私も異世界に来てしまったみたいで……」
到底、信じられることではなかった。
愛した女性の血を引く子とはいえ、それは見知らぬ男との間に生まれた娘の、そのまた子供にすぎない。
髪の色も、瞳の色も、些細な顔の造作まで。どういう悪戯なのか、神はその孫を彼女と瓜二つに創り上げた。
あの日、小春が自分へ手を差し伸べてくれたように。今度はその孫が、ヴィクトルへ手を差し伸べた。
その瞬間から、この結末は決まっていたのだ。
この子をどこか遠くへ追いやってしまわなければ、息子もまた自分と同じ道を歩んでしまう。
そう分かっていたはずなのに、彼にはどうしてもできなかった。
"私の大切なあの子をお願い。私の可愛い―――を。私にそうしてくれたように、何不自由のないよう、大切に保護してあげて……"
まるで呪いのように、何十年という歳月を経ても、その想いだけは少しも色褪せることなく彼の心を縛り続けていた。
そしてやはり、あの少女は息子の毒となった。
「あの子のことは、もう忘れなさい」
叶わぬ想いに何年も囚われ、苦しみ続けた息子へ、彼はそう告げた。
「お前には果たすべき責務がある。いつまで愚かな感情に振り回されているのだ」
「他の誰でもない父上から、そのような言葉が出てくるとは驚きですね」
ゆっくりと口角を上げたヴィクトルは冷く告げた。
「俺は間違いなく、あなたの息子ですよ」
未練を抱えたまま生き続けた結果、巡り巡って息子までも同じ苦しみへ引きずり込んでしまった。
すべては、彼の弱さが招いたことだった。
「……っ」
短く息を詰まらせ、ルドヴィクは目を覚ました。
額にはじっとりと汗が滲み、胸の鼓動だけがやけに大きく響いている。
また、あの夢だった。
忘れようとしても忘れられない、遠い日の記憶。
重く沈んだ身体を起こし、窓辺へ向かう。
カーテンを少し開くと、青白い月明かりが静かに部屋へ差し込んだ。
その淡い光は、かつて彼女がこの世界へ現れた時、空から降り注いだ光によく似ていた。
「コハル、君は私にどうしてほしいのだ。永遠に君を忘れるなとでもいうのか」
答えなど返ってくるはずもない問いを、何十年経った今も繰り返してしまう。
ルドヴィクが苦しげに額へ手を当てた、その時だった。
庭園の先に、二つの人影が目に入る。
ある日を境に心を荒らし、彼女を取り戻すためなら何でもやってやると愛に狂った息子。
そして、つい先日帰ってきた若き日に愛を誓った女性によく似た少女。
二人の姿を見つめながら、ルドヴィクは目を細めた。
時代とは、こうして繰り返されていくものなのだろうか?
"心配しなくても平気よ。あの子たちなら、きっと大丈夫"
まるで呪いのように脳裏で囁かれる美しい声に彼は目を閉じる。
幻聴とは、残された記憶の中から、自分に都合のいい形で作り出されるものだという。
……あの子たちが、私たちと同じ結末を辿らないことを。ただ、それだけを祈るばかりだった。




