9 もう一度
紫とオレンジが溶け合うような、幻想的な色彩に満ちた空を見上げる。
私が生まれ育った世界と、よく似ているようで、まるで違うこの世界。
信じられないほど美しく、どこまでも悲しくて残酷な場所。
私は目を細めて、その美しい世界を目に焼き付けようとしていた。
「ソフィア」
彼に名前を呼ばれるまで。
「……ヴィクトル」
今日一日で、本当に多くのことが起きた。
もう二度と訪れることはないと思っていた異世界に、再び飛ばされたこと。公爵やモニカと再会し、アナスタシアには頬を叩かれ……そして何より、もう会うことはないと思っていたヴィクトルと再会したこと。
まるで長い夢を見ているのではないかと疑いたくなるほど、信じられない出来事の連続だった。
もっとも、目の前の彼については、まだまだ疑問が尽きそうにないのだけれど。
馬車に揺られている間、ヴィクトルは一度も口を開かなかった。
ただ、私の手首を強く握ったまま隣に座り、窓の外へと視線を向け続けていた。
『可哀そうなソフィア』
『もう二度と、お前を俺の目の届かない場所へは行かせないよ』
彼が口にした言葉の意味を読み取ろうとしているうちに、久しぶりに目にする異世界の景色にすっかり心を奪われ、いつしか考えることさえ放棄してしまっていた。
やがて馬車が停車すると、ヴィクトルは御者が扉を開けるのも待たずに降り、そのまま庭園へと私を連れてきた。
「いつ、こっちへ戻ってきていた」
静かに問いかけられ、私は彼の顔をまっすぐに見つめた。
風が吹き抜け、彼の美しい黒髪が揺れる姿を眺めながら、私はふと、先ほどから気になっていたことを口にした。
「ねえ、そろそろこの手を離してくれない?」
「俺の質問に答えるのが先だ」
馬車の時からずっと、彼に強く握られている哀れな私の右手首。
そろそろ赤くなっているのではないかと心配になるほどの力加減に、私はわざとらしく困ったように眉を下げてみせる。
しかし、こちらの要求を聞き入れるつもりなど微塵もなさそうな彼の顔を見て、これ以上言っても無駄だと悟るしかなかった。
「今日よ。時計を見ていないから正確な時間は分からないけれど、まだ太陽がてっぺんまで昇りきっていないくらいだったはず……」
「なぜ、一番に俺の元へ来なかったんだ」
「えっと……?」
「お前は俺の婚約者だろう」
手首を掴まれたまま、距離を縮めてきたヴィクトルの眉に深く皺が刻まれる。
低い声で告げられたその言葉に、私はただ目を瞬かせることしかできない。
婚約者……私とヴィクトルが?
暫く考えた後、ルドヴィク公爵が私をこの家に置いてくださるために考えた策に、私とヴィクトルを婚約者にするという設定があったことを思い出した。
「ああ、そういえばそんな設定もあったわね。懐かしい」
ふっと笑みを零すと、さらにヴィクトルの表情が良くない方向へ変化していく。
私は慌てて話題を替えようと、ニコッと笑顔を彼に向けた。
「だけど、あなた新しい婚約者を決めるんでしょう? 今日、この世界に戻ってきた時に沢山の令嬢たちが……」
「それは父上が勝手に言っていることだ。俺には既に婚約者がいるのに、新たな婚約者を見つけるなど馬鹿げている」
「……あ、あはは。そうね。だけど初めは養子として迎え入れようとしてくださったことを思うと、少し面白いわよね。義理とはいえ、あなたと私が兄妹になっていたなんて」
「そうなっていれば、何としてでも父上を説得し、お前との養子縁組を破棄させ、婚約を結んでいたはずだ」
さっきから、どうにも様子がおかしい。
その断固とした言いぶりに、口元に浮かべていた笑みがぴたりと固まってしまう。
「……どうして?」
先ほどから感じていた違和感。
数年前とは、明確に何かが違う。
「これまでも、これからも、俺の隣に立つことができるのは、この世界で……いや、どの世界だったとしても、お前しかいない」
あの頃のヴィクトルは、もっと生意気で、意地悪で、何かにつけて私を困らせてくるような少年だったはず。
私をいつもからかっては、悪戯気な笑みを浮かべていた少年。
それなのに今、目の前にいる男はどうしてこんなに真剣な眼差しを私に向けているのだろう。
「悪かった。全部俺が悪かったんだ」
どうして、そんなことを言うの?
どうして、そんな目で私を見るの?
その言葉と眼差しに込められた意味は何?
彼の瞳には、怒りとも悲しみともつかない、いくつもの感情が入り混じっていた。
私には、そのどれもを正しく読み取ることができない。
「お前に降りかかる苦しみを、俺がすべて払いのけるべきだった。あの頃の俺はあまりに幼く愚かだった。……だが、今は違う。何があってもお前を守り抜くと誓おう」
ヴィクトルは私の手を取り直すと、両手で包み込むように握り、そのまま自分の額へと押し当てた。
「だから、頼むよ」
私の大好きだった淡い水色の瞳が、宝石のように高貴に輝いている。
そこに映し出されているのは、あの頃と同じように、私ただ一人だけだ。
「すべてを振り払い、過去も責任も忘れて、この世界で生きてくれ。望みは何だって叶えてやる。俺は、お前のためなら何だってできる」
不思議な気分だった。
射るように鋭く見つめられ、まるで捕食者の前に差し出された獲物にでもなったような心地がするのに、不思議と嫌な気持ちはしないのだから。
ただ私は、あなたの胸の内を知ろうと必死だった。
何を思い、何を考え、そんなことを口にしているのか知りたかった。
この数年間で私に変化があったように、彼にも間違いなく心境の変化があったはずだ。
それがどう動いたのか、どんな方向に向かっていったのか。
もしかしたら、彼が私に抱く感情そのものが変わってしまったのだろうか。
そうだとしたら、私は……。
「ずっと探し続けていた。お前をもう一度この世界に連れてくる方法を。たとえ、お前に心の底から嫌われようが、俺はまたもう一度……」
「ヴィクトル」
「本当に俺は、お前が望むなら何だってできるんだ。お前に無礼を働いた人間を全員消し去ることも、お前が望むことは、何でも叶える。今の俺なら何だって。だから、俺は……」
「ヴィクトル!」
次第に捲し立てるような口調へと変わり、瞳に暗い影が差していった男の頬を両手で包み、無理やりこちらへと顔を向けさせる。
「私を見て。急がなくたって、私は最後まであなたの話を聞くから」
突然のことに驚いたのか、ヴィクトルはぴたりと口を閉ざした。
彼の顔を覗き込み、目の下に刻まれた隈を親指でそっとなぞりながら言葉を続ける。
「……ひどい顔。せっかく公爵様に似てカッコイイ顔に生まれてきたんだから、しっかりしないと」
その姿を見ていたら、作り続けていた笑顔の仮面がとうとう剥がれ落ちてしまった。
本当は、この世界に戻ってきてからずっと気が気ではなかった。
もしヴィクトルが、私のことなどすっかり忘れてしまっていたら。もう二度と会いたくないと思われていたら。
そんなことを考えるたび、胸の奥が落ち着かなかった。
自分から勝手にいなくなったくせに、忘れられていたら悲しいだなんて、あまりにも身勝手な話だと思う。
それでも彼が私のことを考え続けてくれていたのだと知って、嬉しさを感じてしまった。
私は、こんなにも彼を傷つけてしまったのに。
「ごめんね、ヴィクトル。本当にごめんなさい」
どうして私は、二度も異世界へ渡ることができたのだろう。
手鏡が何をきっかけに世界と世界を繋ぐのか、その仕組みは今も分からない。
なぜ、もう一度この世界に私を連れてきたのかも、再び元の世界へ帰れるのかどうかさえ確かではなかった。
だけど今はそんなことどうでもよかった。
「あなたが謝ることは何もない。あなたは私に、とてもよくしてくれたわ。全部、私が悪かったの……」
あの頃の私は……まだ、たった十三歳だった私は、自分が誰かに大切にされることに酷く怯えていた。
実の親から捨てられた私が、祖母以外の誰かから優しさを与えられることが信じられなかった。
どこか違和感を感じながらも、優しくしてもらうたびに嬉しさを覚え、ずっとこのまま共にいたいと望んでしまった。
その一方で、何も返せない自分が情けなくて、迷惑をかけ続けることに怖くてたまらなくなった。
「私はずっと、あなたが羨ましかった。優しい人たちに、いつも囲まれているあなたが。私には……誰もいなかったから。そんな私に優しくしてくれたあなたの優しさが、嬉しくて大好きで、同時に怖かったの」
自分の存在が迷惑になるのが嫌だった。
何もできない自分も、何かあるたびに自分を責めてしまう自分も……全部、嫌だった。
今思えば、ほかにも選べる道はたくさんあった。もっと良い選択が確かにあった。
でも、あの時の私には分からなかったの。期待と恐怖が胸を満たして、うまく前を向くことがどうしてもできなかった……。
誰かに嫌われることを恐れるあまり、自分から居場所を手放してしまった。
傷つくことに耐えられなくて、みんなの傍にいたいという気持ちさえ、なかったことにしようとした。
でも、確かに言えることは、元の世界で過ごした時間は決して無駄ではなかったということ。
自分の選択を後悔したことだって、一度や二度ではない。それでも、一人で過ごす時間の中で私は少しずつ自分自身と向き合えるようになった。
誰かに優しくしてもらうことを、申し訳なく思わなくてもいい。
何も返せないからといって、自分がここにいてはいけないわけではない。
そして、誰かを大切に思う気持ちまで、手放す必要はないのだと。
そう気づくまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。
「自分の意思でここへ帰ってきたと、胸を張って言い切ることはできないけれど。それでも、これだけは確信を持って言えるわ。私はずっと、あなたに会いたかった」




