7 再会
「今のお坊ちゃまにお会いになれば、ソフィア様は深く傷つかれるかもしれません」
胸を締めつけられる声だった。
私は目を瞬かせ、心配そうに眉を寄せるモニカを見つめ返した。
「ヴィクトルが変わった。それで、どうして私が傷つくの?」
「ですから……」
「私だって変わっているんだから、彼にも変化があって当然でしょう」
肩へ流れる髪をつまみ上げて、ニコッと明るく笑う。
三年前、肩にかかる程度だった髪は、今では背中まで届くほどになっていた。
「背も高くなったし、髪も伸びた。この三年間でたくさんのことを経験したわ。心だって、あの頃とは同じじゃない」
元の世界へ帰ってからの三年間が脳裏をよぎる。
虐げられることはなかったが、決して穏やかな日々ではなかった。
三年間も行方不明だった少女が、ある日突然何事もなかったかのように戻ってきた。
そんな話を誰が簡単に信じられるだろう?
誘拐だったのか。それなら犯人は誰だったのか。
身寄りのない子どもが、どうやって生き延びてきたのか。
人々は勝手な憶測を口にし、それは尾ひれをつけながら広がっていった。
必死に笑っていないと、すぐに泣きだしてしまいそうになる孤独な毎日だった。
だけど……元の世界へ帰ったことを後悔した日は一度もない。
あの時間は確かに私に必要だった。
私はずっと、自分のことしか見えていなかったのだから。
私を捨てた両親を恨み続け、小春おばあさまにさえ、どうして私を置いて死んでしまったのかと、心のどこかで責めてしまっていた。
だけど、一人になって初めて気づいた。
私は誰かに救われることばかり願って、自分自身と向き合おうとしてこなかったのだと。
だからあの三年間は必要だった。
そして、異世界へ渡り、過ごした時間も。
あの手鏡は、なぜ私を異世界へ導いたのだろう。
どうして、私の感情ひとつで世界と世界を繋ぐことができたのだろう?
「ヴィクトルにだって心境の変化があって当然でしょう?」
人は変わる。それは悪いことではない。生きていれば、誰だって変わっていくものなのだから。
「それとも、ヴィクトルは私に会いたくはないのかしら」
「そのようなことはございません!」
モニカが声を大きく上げた。
「この三年間、お坊ちゃまは一日たりともソフィア様を忘れたことはございませんでした。異世界という前例のない世界について文献を集め、僅かな可能性にも縋り続けてこられたのです」
「モニカ……」
「何としてでも、もう一度ソフィア様にお会いしたい。その想いだけを胸に歩き続けてこられたのは、他の誰でもない、お坊ちゃまでございます」
あのヴィクトルが、私のためにそんなことを?
現実世界にいた時に何度も夢に出てきた幼い日のヴィクトルと、大きく成長したヴィクトルが私の名前を呼ぶ姿を思い返し、私はふっと笑みを零した。
「やっぱり、私から会いに行かないとダメだわ。ちゃんと謝らないと」
「ですが、ソフィア様」
「ここまで来たら、もう引き返すことはできないでしょ」
たとえ待っているのが、モニカの言う変わってしまったヴィクトルだったとしても。
「それに……私もヴィクトルに会いたいの」
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馬車が静かに止まると、私は扉が開き切るのも待たずに外へ飛び降りた。
もつれそうになる足を必死に動かしながら歩く。
無理を言って連れてきてもらった場所は、公爵領の外れにある小さな集落だった。
青々とした垣根で区切られた家々が並ぶ穏やかな街並み。
一軒の家の前に、数人の人影が集まっている。
その中心に立つ青年の後ろ姿を目にした瞬間、私の鼓動が大きく跳ねた。
黒く艶のある髪に、すらりと伸びた長身。
夢で何度も見た凛々しい青年の姿だった。
「いい加減にしてください、公子様! 何度も申し上げている通り、うちの妻は……!」
「ロイド、お願いやめて!」
夫と思われる男が妻を庇うように一歩前へ出る。
しかし男は覚悟を決めたように青年を睨みつけ、その胸倉へ掴みかかった。
青年は男の腕を乱暴に払いのけた。その反動で男は地面へ叩きつけられる。
「あなた!」
女性が悲鳴を上げて駆け寄り、必死に夫を抱き起こす。
「もう、十分でしょう」
その場にいた誰もが身体を強張らせるほど冷たい声だった。
青年は倒れた男には一切視線を向けることなく、ただ女性へ向かって静かに手を差し伸べる。
「さあ、こちらへ。公爵邸へ共に来てください」
「絶対に嫌よ! あなたが何と言おうと、私は夫と共にここで生きると決めたんです!」
涙を浮かべながら叫ぶ女性を見ても、青年の表情は少しも揺らがない。
まるで感情そのものを切り捨ててしまったかのような冷淡さだった。
「連れてこい」
彼は背後に控えていた騎士へ視線も向けずに告げる。
短く返事をした騎士は迷いなく女性へ歩み寄り、その腕へ手を伸ばした。
「公子様のご命令です。どうか、お従いください」
「やめて!」
女性が怯えた声を上げた、その瞬間だった。
「何をしてるのよ、ヴィクトル!」
私の声に、全員の動きがぴたりと止まる。
その中でひときわ動揺したように肩を揺らした青年が、ゆっくりと振り返った。
氷のように冷え切った水色の瞳が真っ直ぐ私を捉える。
次の瞬間、その瞳が信じられないものを見るように大きく見開かれた。
「……ソフィア?」
以前の彼にはあった少年らしい軽薄さと余裕は消え失せ、代わりに張り詰めた威圧感が放たれていた。
まるで幾つもの修羅場を潜り抜け、死を見続けてきた人間だけが纏うような空気に息が詰まる。
「なぜ、ここに。ソフィア、本当に……」
驚くほどの速さで私の目の前までやって来たヴィクトルは、静かに右手を持ち上げた。
その仕草を見た瞬間、つい先ほどアナスタシアに頬を叩かれた記憶が脳裏をよぎる。
反射的に身体が強張り、私は思わず一歩後ろへ下がった。
「……お前も俺が怖いのか」
そこでようやく、自分が先ほどの女性と同じように、怯えた眼差しでヴィクトルを見つめていたことに気がついた。
咄嗟に長く伸びた髪で顔を隠そうとしたが、それよりも先に彼が私に触れた。
「ヴィクトル? ちょっと、きゃあっ!」
その瞬間、私の身体はふわりと宙に浮きあがった。
慎重な手つきで私を抱き上げたヴィクトルは、そのまま歩き出した。
私よりもずっと背の高い彼に抱きかかえられた途端、視界が一気に高くなる。
何が起きているのか理解できないまま恐怖だけが胸いっぱいに広がり、私は思わず身を縮こまらせた。
連れて行かれた先には、私がここまで乗ってきたものとは比べものにならないほど豪奢な馬車があった。
ヴィクトルは慌てて駆け寄ってきた御者を下がらせると、自ら扉を開け、私を抱えたまま馬車の中へと乗り込んだ。
驚く暇もないまま、彼の大きな手が私の両肩を強く掴む。
突然何をするのかという気持ちでいっぱいだったが、到底声には出せなかった。
この男は、本当にあの少年なのだろうか?
三年という月日を共に過ごした、あの美しい少年。
夢で見た成長したヴィクトルと、まったく同じ姿だった。
それなのに、目の前にいる彼は別人のように見える。
感情を押し殺したような冷たい眼差し。
今にも壊れてしまいそうなほど危うく揺れる水色の瞳。
私の知っているヴィクトルは、もうどこにもいないように思えた。
その時、ふと昔のことを思い出した。
この世界に来たばかりの頃、初めて彼に会った時のこと。
公爵家の一人息子として完璧に育てられたヴィクトルは、子供らしさはあるものの、誰にでも紳士的で優しかった。……私を除いて。
だけど、彼が私に冷たく当たっていた原因を知った時、私は彼を哀れまずにはいられなかった。
そして同時に、自分と似た心境にいる男の子の存在が嬉しかった。
『私はあなたのお母さまの代わりになるつもりはないし、あなたのお父さまを奪うこともない。だから………』
あの日と同じように、私は苦しげに揺れる水色の瞳をまっすぐ見つめた。
ゆっくりと手を伸ばし、その頬へそっと触れる。
その柔らかな頬を軽くつまみ、そのまま左右へと引っ張った。
眉間にしわを寄せて不満そうに私を見るヴィクトルの姿に、思わず笑みがこぼれた。
「信じられないほど大きく成長していたから驚いたけど……良かった、あなたは何も変わっていないのね」
私の言葉に、ヴィクトルはゆっくりと目を伏せた。
「そう言うのは、お前だけだろうな」
自嘲気味にそう呟いたヴィクトルは私の手を取ると、自身の額へと押し当てる。
「……可哀そうなソフィア」
限りなく甘い声で囁かれ、肩が跳ねる。
凍り付いている瞳が、ただ私だけを見つめていた。
「もう二度と、お前を俺の目の届かない場所へは行かせないよ」




