6 時間の流れ
「今更どういうつもりよ! ヴィクトル様があんなふうになってしまった時、ずっと部屋に引きこもっていたくせに……!」
金色の目元に涙が滲み、その表情は歪んでいる。
ずっと部屋に引きこもっていた?
まさか、私が元の世界に帰っていたことを知らないの?
アナスタシアの言葉が、私にはまるで理解できなかった。
「いい加減にして! 何度私の邪魔をすれば気が済むのよ!」
頭に響く甲高い声に呆れかえると同時に、彼女に叩かれた頬がヒリヒリと痛み始めた。
この子は本当に……。
私は右手を持ち上げると、勢いよく振り下ろした。
乾いた音が再び部屋へ響く。
さっきと同様、人の頬が叩れた音だった。
違うのは、叩かれたのが私ではなく、アナスタシアの方だということ。
短い悲鳴がギャッと上がり、彼女の目がこれでもかというほど見開かれる。
「な、な、なにを……」
頬を押さえ、唇を震わせて困惑した顔をする様子を見ると、やり返されるとはちっとも思っていなかったのだろう。
私はアナスタシアに向かって足を進め、距離を縮める。
「何を驚いてるの? 誰も居ない所でやったってことは、叩き返してほしかったんじゃないの?」
衝撃のあまり声が出ないのか、アナスタシアは打ち上げられた魚のように口をパクパクとさせて、怒りに身体を震わせた。
私を追い詰め、ヴィクトルを手に入れるため自ら毒を飲んだくせに、たったこれだけのことで動揺をみせるとは何とも不思議だった。
「会いたかったわ、アナスタシア。ずっとお礼を言いたかったの。この二年間、ほんとに色んな事があったけど、皆あなたよりはマシだったから乗り越えることができたの」
異世界から戻った私を待ち受けていたのは、決して平穏な生活ではなかった。
幼稚な嫌がらせや陰口など、沢山のことがあったけれど、アナスタシアにされた陰湿な嫌がらせに比べれば幾分もマシだった。
多感な時期の同級生たちにとって、長年行方不明で身寄りのない存在はかなり不気味に映ったようだ。
それでも歯を食いしばって慎ましく振る舞ううちに、次第と受け入れられるようになっていった。
もしかするとこの異世界でも、アナスタシアのように意地悪で傲慢な人間の言うことを素直に聞いていれば、また何か変わっていたのかもしれない。
「ふ、ふざけたことを……異世界人ごときが私の頬を叩くなんて!」
「あなたが自分の身体を大切に思っていたとは知らなかったわ。望みのためなら毒まで飲んでしまうくせに」
「それは……あんたみたいな悪女からヴィクトル様を救い出すためには手段を選ばないだけよ!」
「ああ、そう。それで私に何の用なの? あなたとは、そこまで良好な関係じゃなかったと思うんだけど」
アナスタシアは睨みつけるように私を見上げた。
やがてゆっくりと立ち上がると、乱れた長い髪を払うように整え、いつもの気品ある令嬢の仮面を被り直す。
「私があなたに用事がある日は永遠に訪れないわ」
「はい?」
「だけど、一つだけ忠告しておこうと思ったの。何年も部屋に引きこもっていたあなたが、ヴィクトル様の婚約者を新たに選ぶという話が持ち上がった途端、こうして姿を現すなんて……。あなたも、さすがにそこまで愚かではなかったようね」
意味が分からず眉を寄せる私を見て、アナスタシアは勝ち誇ったように口角を吊り上げた。
「せいぜい覚悟しておきなさい。また私が教えて差し上げるわ。あなたの居場所は、この世界のどこにもないということを」
そう吐き捨てると、彼女は優雅に踵を返す。
扉が勢いよく閉まる音だけが、静まり返った部屋へ響いた。
「一体、何があったっていうの……」
あまりにも話が噛み合わない。
私が知っている世界と、今目の前に広がる世界。
その二つの間には何か決定的なズレが生まれているような気がした。
困惑したまま立ち尽くしていると、控えめなノックが部屋に響く。
扉が静かに開き、アナスタシアと入れ替わるようにして一人の中年女性が姿を現した。
穏やかな笑みを浮かべたその顔を見た瞬間、私は思わず目を見開く。
「ああ、なんてこと」
懐かしい声だった。
涙を堪えるように微笑む彼女の姿を見た途端、胸の奥に張り詰めていたものがふっと緩む。
この壮大な公爵家のメイド長モニカ。
彼女は慌てた様子で私のもとへ駆け寄ると、そっと両手で私の頬を包み込んだ。
「まあ。まあまあ、こんなに大きくなられて」
「わ、わたしは……」
潤んだ瞳で見つめられ、思わずオドオドとした言葉がこぼれ落ちる。
「ソフィア様は元の世界へお帰りになっていらしたのですね?」
「……ええ」
「少し、お痩せになられたのではありませんか? お顔にもお疲れが見えます。きちんとお食事は召し上がっていらしたのですか?」
子どもを心配する母親のような口調に動揺しながら、私はゆっくりと頷いた。
「私がどれだけ心配していたか分からないでしょう。あなた様が突然いなくなられてからというもの、毎日生きた心地がしませんでしたわ」
彼女は私の頬を優しく撫で、そのまま髪を梳くように何度も頭を撫でてくれる。
まるで、幼い子どもをあやす母親のように。
初めてされる行いに、私の心臓が強く脈打ったが、不思議と不快感はなかった。
込み上げるものを必死に堪えて唇を噛むと、モニカは困ったように微笑み、そっと私の口元へ指を添える。
「そんなふうに唇を噛んではいけません。さあ、こちらへ」
優しく諭されるまま、私はソファへ腰を下ろすと、モニカは温かなブランケットを掛けてくれた。
「どこで何をされていたのですか? 苦しい思いはされておりませんでしたか?」
次から次へと飛んでくる質問は、責めるためのものではなかった。
ただ純粋に、私が無事だったのかを知りたいだけ……。
そのことが不思議でたまらなかった。
まさかモニカが、ここまで私のことを案じてくれていたなんて夢にも思わなかったからだ。
いつも厳しい口調で私を叱り、この世界で生きていけるよう礼儀作法や振る舞いを教えてくれていたモニカ。
亡くなった公爵夫人とモニカが親しかったと聞いていた私は、小春おばあさまの孫である私を快く思っていないと思い込んでいた。
だけど、今の私なら分かる。
当時、まだ十三歳になったばかりの幼い私には分からなかったけれど、今の私になら……。
耳触りのいい言葉ばかりを並べる人よりも、私の将来を案じ、厳しい言葉をかけ続けてくれた人こそ本当に私を想ってくれていたのだということを。
「自分で料理もできるようになったのよ。朝だって一人で起きて、毎日ちゃんと学校へ通っていたわ。この世界にも貴族学院があるでしょう? 私の世界では、誰もが平等に教育を受けられるのよ」
「まあ……そうだったのですか」
モニカは目を丸くしたあと、ほっと胸を撫で下ろすように微笑んだ。
ふと、ずっと胸の奥に引っ掛かっていたことを思い出す。
「そうだ。まだヴィクトルに会えていないの。姿が見えなかったけれど、元気にして――」
そこまで言いかけた時だった。
モニカの柔らかかった眼差しが激しく揺れ、何かを堪えるように唇が固く結ばれる。
「……モニカ?」
呼び掛けても、彼女はすぐには答えなかった。
「ねえ……さっきから気になっていたんだけど、アナスタシア嬢が言っていたことが何一つ分からなかったの。私が部屋に引きこもっていたって、どういうことなの?」
「やはり、公爵様はまだ何もお話しになっていらっしゃらないのですね」
「どういうこと? だって私はずっと元の世界へ帰っていたのに……」
「そのことをご存知なのは公爵家のごく一部の人間だけです。社交界では、ソフィア様は突然部屋へ閉じこもり、誰とも会わなくなったとされております」
モニカは苦しそうに私を見つめる。
「今のお坊ちゃまは……ソフィア様が覚えていらっしゃる頃のお坊ちゃまではございません」
モニカは胸元で両手を重ねると、悲しげに付け加えた。
「今のお坊ちゃまにお会いになれば……ソフィア様は深く傷つかれるかもしれません」




